1.夜会に舞う氷華
セリカ神国、皇都リーアン――
きらびやかな魔石灯に満たされた皇宮の『星辰の間』は、ディアナ=ヴァーテルにとって、劫火の燃えさかる戦場よりも息苦しい場所だった。
「――あれがヴァーテル伯爵家の令嬢か。二十一の小娘を騎士団長に据えるなど、アードラーも焼きが回ったものだな」
「お飾りさ。軍務次官の父親が用意してくれた、玩具の椅子だろう」
色とりどりの衣裳と礼服が蠢く会場の片隅で、囁きは隠す気もなくディアナの耳に届いた。酒杯を傾けながら笑い合う二人の貴族は、その「小娘」が数歩の距離にいることを承知のうえで、わざと声を落とさずにいる。
ディアナは、何も言わなかった。ただゆっくりと振り向き、笑っている男の顔を、蒼灰色の瞳で真っ直ぐに見据えた。
男の口元から笑みが消え、言葉が途切れた。目を逸らした先のグラスに逃げるように、葡萄酒を一気に喉へ流し込む。隣の男も、気まずげに視線を床へ落としている。ディアナはもう二人を見てもいなかった。
着飾った令嬢たちの中で、彼女だけが漆黒に金の細工を施した騎士団長の制式服を纏っている。その胸元では、最高位を示す『六本』の金のチェーンが、背負う一千の兵の重さを物語るようにきらめいていた。
風もないのにふわりと靡いたのは、流れ落ちる月の雫のような銀髪――その下の瞳は、凍てつく冬の夜空のように静かだった。今しがたの嘲りに、さざ波一つ立てていない。
父が長く務めた騎士団長の椅子を二十一の若さで継いだ日から、その手の陰口はとうに聞き飽きていた。
「下賤なネズミどもが、好き勝手にほざいてくれますね」
ディアナの背後に控えていたシンディが、思わず腰の短刀の柄を右手で掴んだ。肩で切り揃えた漆黒の髪の下、切れ長の双眸には主を侮辱されたことへの明確な不快感が宿っている。黒地に銀の刺繍を施した騎士服の胸元には、副官を示す『二本』の銀のチェーンが揺れていた。
「放っておきなさい、シンディ。彼らは戦場で流れた血の冷たさを知らないだけよ」
ディアナは、振り向きもせずに答えた。それは慰めでも諦めでもなく、この広間にいる誰よりも多くの血を見てきた者が、ただの事実を述べる声だった。
その時、人垣の向こうから、ガチャリ、ガチャリと鉄の鳴る音が近づいてきた。
礼服の群れが、ざわめきながら左右へ退いていく。優雅な音楽の中へ場違いに割り込んできたその足音の主を、貴族たちは見もしないうちに避けていた。鎧の音だけで道を空ける――圧倒的な威圧感を放つ男だった。
現れたのは、重厚な「漆黒の金属鎧」に身を固めた、見上げるほどの巨躯である。古風なアラベスクが彫られた黒鉄の胸甲には幾つもの傷が刻まれ、その上に羽織った黒革の外套の留め金には、たった『一本』の銀のチェーンが鈍く光っていた。
アードラー騎士団筆頭騎士、ザック――
正装を拒み、戦場の鎧のまま夜会に這い出てきた【黒嵐の獅子】は、野性味のある黒髪の隙間から凄烈な蒼い瞳をディアナへ向け、不敵に唇を歪めた。
「……流石は俺の団長だ。肝が据わってやがる」
地鳴りのような低い声だった。遠巻きに見ていた貴族たちが、ひそひそと言葉を交わす。
「口を慎みなさい、ザック。ここは皇宮です。……それに、その鎧。いい加減に見慣れたけれど、不躾だわ」
「この鎧を似合うと言ったのは、どこの誰だったかな?」
「……十五の小娘の言ったことを、いつまで覚えているの」
ディアナは眉一つ動かさずに言ったが、その唇の端が、わずかに緩んでいた。
ザックは一歩近づき、周りに聞こえぬほど声を落とした。
「だが、ディアナ。あんまり無理して【氷姫】を演じるなよ。迷宮で泥水をすすってた奴が、今さら氷の人形でもねえだろ」
冒険者時代の姿を持ち出され、ディアナはフイッと顔を背けた。ほんの一瞬、蒼灰色の瞳がその真っ直ぐな視線にたじろぎ、銀髪が動揺を隠すようにさらりと流れた。
あの頃から六年、背中を預け合ってきた相棒であり、剣の師でもある男だ。その前でだけは、どうしても【氷姫】の仮面が剥がれそうになる。それが、彼女には危うかった。
「……おやおや。手荒な黒獅子が、我が国の至宝を退屈させているようだね」
音楽の調べを切り裂くように、朗々とした声が響いた。その柔らかな口調の奥には、有無を言わせぬ覇気が孕まれていた。
人波が割れる。現れたのは、黄金の刺繍を凝らした純白の絹シャツに、ロイヤルブルーの天鵞絨の礼服を纏った青年だった。亜麻色の髪に、琥珀色の瞳。皇位継承権第二位――セリカ神国第二皇子にして軍務尚書、ユリウス=シルベスター。
ユリウスが微笑んだ瞬間、会場にいたすべての軍人たちの背筋に冷たい戦慄が走った。彼がそこに立っただけで、華やかな広間がまるで戦場に変わったかのような錯覚が起こる。それが、彼の宿す天恵――【軍神】の放つ覇気だった。
「久しぶりだね、ディアナ。今日もその瞳は、私を寄せ付けないほど美しいな」
ユリウスが、ディアナの手を取ろうと、そっと手を伸ばした。
その一瞬、ザックが半歩だけ前に出た。言葉はない。ただ黒鉄の鎧が、ガチャリと一つ鳴っただけだった。それだけで、周囲の貴族たちは息を呑み、静まり返った。
ユリウスの眼が、初めて楽しげにザックへ向けられる。
「物騒な真似はよさないか、アードラーの野良犬。それとも、第二皇子である私に噛みつく気かい?」
ザックは答えず、皇子から目を逸らさなかった。一触即発の火花が、二人の間に散った。
「そこまでにせよ、ザック筆頭騎士。……そして、ユリウス殿下も」
重厚な足音とともにその均衡を割ったのは、濃紺の天鵞絨の礼服に銀の刺繍を張り巡らせた五十前後の男だった。ディアナの実父であり、軍務次官を務めるコルネウス=ヴァーテル伯爵である。父の背後には、ディアナと同じ蒼灰色の瞳をした兄オーウェンが、黙って控えていた。
ザックは半歩退くと、胸に手を当ててコルネウスへ一礼した。宮廷の作法に寸分も違わぬ、見事な礼だった。冒険者上がりのこの男がそれをどこで身につけたのか、ディアナは一度も聞いたことがない。
コルネウスは恭しい物腰を崩さぬまま、ヘーゼルの瞳で皇子の整った容貌を正面から見返した。
「殿下。我がアードラー騎士団は神国に忠誠を誓うもの。一個人の野心のために動く剣ではございません。……もちろん、私の愛娘の心も、政争の具にされるほど安くはございません」
さらにその隣へ、銀と濃紺の外套を翻して並び立った者がいた。左腰に携えた精霊刀の鞘が、魔石灯の光を白く弾く。
蒼薔薇騎士団長、ノア=ローゼンブルク――セリカ騎士団最強と謳われる女性だった。
「殿下のチェス盤で遊ばせるには、彼女の『氷』は些か気高すぎますわ」
ヴァーテル伯爵家とローゼンブルク勇爵家――神国を代表する二大武門が、ユリウスの前に壁となって立った。皇子は愉快そうに肩をすくめ、それから、壁の向こうのディアナへ親しげな目を向けた。
「私が用意した戦場は、気に入ってもらえたかな。……無事に戻ってきたら、その時こそ、私の手を取ってくれるね」
ディアナは、凍てつくような沈黙だけを返した。
「私は諦めないよ、ディアナ。君のその氷のような瞳が、私の【軍神】の炎で溶け落ちるその日までね」
気障なウィンクを一つ残して、皇子は人波の中へ去っていった。
ゴーン、ゴーン、ゴーン――
皇都リーアンの時計塔から、夜の六つ鐘が重々しく響き渡った。華やかだった宴はお開きとなり、貴族たちの馬車が次々と門を出ていく。
熱気の去った皇宮の裏手、静まり返った厩舎で、ディアナは愛馬アンヴァルの白い鬣を撫でていた。眉間を飾る金の面繋に嵌められたサファイアが、月光を受けて淡く青く輝いている。
アンヴァルが鼻を鳴らして頬を寄せてくるのを、彼女は目を細めて受け止めた。この馬の傍らにいる時だけは、誰に気兼ねすることもない。
ガチャリと、背後で鉄の鳴る音がした。振り向かなくても、誰かは分かった。
「まだ帰ってねえのか?」
「ええ。もう少しだけ、こうしていたくて。……皇宮の空気は、やはり息が詰まるわ」
振り返ったディアナの銀髪が、夜風にそよいだ。ザックだけに向けられた蒼灰色の瞳には、夜会での騎士団長の冷たさはなく、二十一の娘の素顔があった。
「あんな金の刺繍だらけのタヌキどもの前じゃ、無理もねえ」
ザックが笑いながら、一歩、また一歩と近づいてくる。百九十六cmの影が、ディアナの華奢な身体をすっぽりと覆った。
「不敬ですよ、ザック。……でも、貴方が後ろにいてくれなければ、私はきっと、あそこで心まで凍りついていたわ」
小さく微笑んだディアナの視線が、ザックの胸元で月明かりを弾く『一本』の銀のチェーンへ落ちた。自分の胸で重く揺れる『六本』の金との、たった五本の差――それが、皇都で二人を隔てている壁のすべてだった。
「貴方はいつも不遜だわ。お父様の前でも、殿下の前でも、その鎧を脱ごうとしないんだから」
「はッ、当たり前だ。あんな奴らの前で丸腰になれるかってんだ」
ザックの声が、わずかに低くなった。その瞳に宿る蒼炎は、広間のいかなる虚飾よりも真っ直ぐに、ディアナの心を射抜いた。
「俺がこの鎧を着て、『一本』のチェーンだけでお前の後ろに立っているのは、神国のためじゃねえ――」
「ザック……」
「皇子がどれほどの権力で迫ろうが、裏で誰がどれほど蠢こうが関係ねえ。俺の天恵【鬼神】がすべて灼き尽くしてやる。お前が折れねえように支えてやるのが、俺の仕事だからな」
ディアナは無言で、浅黒く日焼けした精悍な顔を見上げた。
「かつて迷宮の深層で、一緒に水龍や火龍の逆鱗を叩き割った時から、俺の相棒はお前だけだ」
ザックの大きな手が、ディアナの銀髪にそっと触れ、そのまま頬を包んだ。手甲の鉄の冷たさと、その奥にある男の体温が直に伝わってくる。ディアナは目を閉じかけ――だが、閉じずに、ザックを見つめ返した。
「……本当に、貴方は不遜ね――」
囁くようにそう言って、ディアナは一歩、身を引いた。頬に残る温もりを、振り払うように。ザックの手が行き場を失って宙に留まり、やがてゆっくりと下ろされた。
二人とも、それ以上は何も言わなかった。言葉にしてはならないものが何であるかを、互いに知っていたからだ。『六本』の金と『一本』の銀が、月光の中で静かに揺れていた。
その光景を、見下ろす目があった。
広間の裏手に面した二階のバルコニー。宴の灯がすでに落とされた暗がりで、手すりに白い指が食い込んでいる。
アシュレイ公爵令嬢、シルヴィア――
背まで伸ばした金髪が夜風に乱れ、淡青色の瞳は、厩舎に佇む銀髪を、まばたきもせずに見据えていた。
ユリウス殿下は自ら手を伸ばし、「諦めない」とまで口にした。その想いを踏みにじるように、あの女は今、平民の騎士ふぜいと月明かりの下で身を寄せ合っている。
「……何故、あの小娘ばかり」
喉の奥から漏れた声は、自分のものとは思えないほど低かった。
「あの女さえ、いなくなれば」
その呟きを聞く者は、誰もいないはずだった。
「――案ずるな、シルヴィア」
背後の闇から、静かな声がかかった。振り向くと、濃茶色の瞳だけが夜陰に浮かんでいる。父、アシュレイ公爵だった。
「手は、もう打ってある。あの娘は、西の国境から先へは進めぬ」
シルヴィアは問い返そうとして、やめた。父がこう言う時に相手がどうなるかは、幼い頃から見て知っている。
「アシュレイの名にかけて、仕損じることはない」
公爵は娘の肩に手を置き、厩舎の方へは一度も目を向けずに、闇の中へ戻っていった。シルヴィアは手すりの向こうを最後に一瞥し、それから踵を返した。その口元には、恋敵の破滅を待ちわびる薄い笑みが浮かんでいた。
さらに離れた物陰で、誰も気づかぬうちに、小さな火が一つ灯った。
騎士服の前を開いた胸元から、『三本』の金のチェーンをだらしなく垂らした男――アードラー騎士団参謀長バルハルト=バルトメウスが、昇り竜を象った『龍刻の長煙管』を音もなく口から離した。
彼の立つ場所に、二人の声は届かない。だが、公爵令嬢の元に公爵が現れ、そして肩に触れて去った――それだけで、この男には十分だった。
丸眼鏡の奥で、黒灰色の瞳が、楽しげに細められる。
紫煙が、ゆっくりと夜の闇へ溶けていった。
「1.夜会に舞う氷華」を修正しました。
どこが変わったかは、読んでのお楽しみです(^_^;
新たに「プロローグ」もアップしたので、そちらもぜひご覧ください♪
※本作は、表示調整の『おすすめ設定(淡いブルー)』で読んでいただくと、世界観のイメージにより没頭できるのでおすすめです!




