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氷姫の旗を掲げよ~秘めたる愛影に抱かれて~  作者: 椎名将也
プロローグ

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帰還の夜

挿絵(By みてみん)



『私は、生きて帰ってきた。――愛するあの人と、二人で。


 この一行を書くために、どれほどの夜を越えてきたのだろう。

 この日記の最初のページを開いたのは、出立の前の夜――皇宮の夜会から戻った、あの夜だった。あの時の私は、ペンの先で貴族たちの陰口を一つずつ書き留めて、それで胸の内を整えたつもりになっていた。今読み返すと、別の誰かが書いたもののように遠い。


 机の上の魔石灯は、出立の朝と同じ場所で、同じ色に灯っている。窓の外には皇都の夜霧が流れ、遠くで時計塔の鐘が鳴った。何も変わっていない。変わったのは、この部屋に戻ってきた私の方だ。

 ペンを持つ手が、まだ少し震えている。


 あの夜会から幾日が過ぎたのか、数えるのはもうやめた。皇宮の広間で嘲りの囁きを浴びていた私は、自分がどこへ向かうのかを知らなかった。知っていたのは、ただ一つ。鎧の音を響かせて人垣を割ってくる、彼の背中の大きさだけだった。

 森の暗がりで、谷の底で、いつも、彼は私の後ろに立ち続けた。私が振り向くたびに、そこにいた。私が倒れかけた時に、何度受け止めてくれたことだろうか――


 怖かった夜が、いくつもあった。

 敵の刃よりも、矢の雨よりも、彼が私の前で倒れることが怖かった。血に濡れた巨躯を見下ろして、名を呼んでも返事がなかった時、私は初めて、剣を持つ手が震えるということを知った。【氷姫(アイス・ドール)】と呼ばれる女が、あの時、どんな顔をしていたのか――知らないのは、きっと彼だけだ。

 それでも、彼は何度でも起き上がり、何事もなかったような顔で私の隣に立った。その姿が、私を支えてくれた。


 胸のチェーンは、六本と一本。

 皇都では、決して並び立ってはいけない数だと誰もが言う。けれど、あの森で、私たちの鎖は同じ光を映していた。彼の気持ちを、私は一度も聞いたことがない。

 ――だから、私から言う。


 今夜、彼を呼んだ。

「夜の六つ鐘(午後十時)に、この部屋へ来てほしい」と……。

 騎士団長が筆頭騎士を呼ぶのに、理由はいらない。けれど、私が彼を呼んだのは、騎士団長としてではない。

 何と言えばいいのか、まだ分からない。【氷姫】の仮面を被り続けて生きてきたのに、彼に告げる言葉を書くだけで頬が熱い。

 それでも、もう隠さない。

 私は、ザックを愛している――』




 ペンを置いた時、扉が叩かれた。

 ディアナ=ヴァーテルは、ためらうようなノックの音に顔を上げ、そこで初めて気がついた。さっき窓の外で響いていた時計塔の鐘の音が、『夜の六つ鐘』だったのだ。


「……入って」

 声が、少しだけ上ずった。扉が開く――

 戸口を塞いだのは、「漆黒の金属鎧」に包まれた巨躯だった。その胸元で『一本』の銀のチェーンが、魔石灯の光を受けて鈍く揺れている。ザックは入口の手前で足を止め、部屋の中を一度見廻した。夜遅くに、伯爵令嬢の私室に足を踏み入れる。それがどういう意味を持つのか、皇都に戻った今、彼は分かっているのだ。


「呼んだのは私よ。入りなさい」

 ディアナは、いつもの声で言おうとした。言えたと思う。だが、言い終えてから、机の上に目を落として、血の気が引いた。

 日記が、開いたままだった。


 慌てて表紙を閉じた。

 ザックの蒼い瞳は、真っ直ぐに彼女を見ていた。机には、向けられていない。見られていない――そう思いたかった。だが、この男の目が、戦場でどれほどのものを一瞬で捉えるかを、彼女は誰よりも知っている。


「……何よ」

「何も言ってねえだろ」

 ザックは、机から三歩離れた所で立ち止まった。それ以上、近づいてこない。巨躯のどこにも、いつもの軽口の気配がなかった。斧槍を担いでいない両手が行き場をなくして、鎧の脇で拳を握ったり開いたりを繰り返している。


 長い沈黙が落ちた――

 ディアナは、自分が呼んだのだということを思い出した。言うべきことがあって、呼んだのだ。だが、机の上の日記が、自分の頬の熱が、喉の奥で言葉を凍らせていた。あの森の夜には、一千の兵の前で声を張れたのに。


 先に口を開いたのは、ザックの方だった。

「……俺は」

 それだけ言って、時間が止まった。

 無骨な【黒嵐の獅子】の顔が、耳の先まで真っ赤に染まっていた。太い首筋が強張り、両拳が小刻みに震えている。

 何かを言おうとして唇を開きかけ、再び固く引き結んだ。その繰り返しが、幾度か続いた。


「俺はこれまで、お前の背中ばっかり見てた」

 不意に、低く掠れた声でザックが告げた。

「振り向くたんびに、俺がいるか確かめるみてえな目を向けてくるから……。だから、思ったんだ。これからは、背中じゃなくて――」

 そこで、言葉が途切れた。ザックは、自分が何を言いかけたのかに気づいたように、ぐっと口を閉ざした。それから、天井を睨(にら)み、床を睨み、最後に、ディアナの顔を真っ直ぐに見た。

「……前にいる。お前の、前に――それだけだ」


 ディアナは、すぐには答えられなかった。

 遠回しで、不器用で、何一つはっきりとは言っていない。けれど、その耳の赤さと、強張った首筋と、逃げずにこちらを見ている蒼い瞳が、すべてを告げていた。

(この人は、日記の一行を見たんだ――)

 頬が、さらに熱くなった。【氷姫】の仮面は、その熱に溶け落ちた。

 机の上の日記に、そっと手を置く。この続きを、言わなければならない。言うために、呼んだのだから。


 魔石灯の光の中で、ディアナは、ふと遠い日のことを思った。

 きらびやかな皇宮の広間。嘲りの囁き。人垣を割って響いてきた、鎧の音――

 すべては、あの夜会の夜から始まったのだ。



<本格的ファンタジー戦記>『氷姫の旗を掲げよ~秘めたる愛影に抱かれて~』、満を持しての開幕です!!


この度、「プロローグ」を追加しました♪


当初は30話程度の予定でしたが、今のペースだと大幅に増えそうです(^_^;

まだ、執筆途中なので、原則として2日に1話ずつアップできればと思っています。


ご興味があれば、続きをお待ちくださいね!


※本作は、表示調整の『おすすめ設定(淡いブルー)』で読んでいただくと、世界観のイメージにより没頭できるのでおすすめです!

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