13.辺境の出立、宮廷の陰謀
【登場人物紹介】
ギルバード=ヴァルハイト
・36歳。子爵。
・182cm、78kg。
・長い金髪と濃紺色の瞳を持つ偉丈夫。瞳は藍色
・セリカ神国の冒険者ギルド・セデルキアス支部のギルドマスターで、元A級冒険者。
・土属性の魔力を有する。天恵は【金剛石】。
※【登場人物紹介】は、ネタが切れるまで続ける予定です(^_^;
『ヴェルグランツ軍港』の遥か上空は、ユピテル皇国北方特有の、鉛色に閉ざされたどんよりとした曇天が低く垂れ込めていた。
太陽の光を遮る分厚い雲の下、肌を刺すような湿った極寒の海風が吹き荒れる軍港の埠頭に、アードラー騎士団の出立を告げる重厚な角笛が響き渡る。
氷点下に届かんとする過酷な天候の中、四百騎の騎馬の列――それを取り囲むように陣を敷く六百人の歩兵・弓兵・輜重兵の軍列……。そして、キース=フォン=ヴェルグランツ辺境伯によって兵站を確約された膨大な輜重車が重い車輪の軋み音を響かせながら、ついにオーディンヴァルト大森林に向けて出立しようとしていた。
見送りの最前列に直立するハインツ=フォン=ヴェルグランツは、妄執と不満に満ちた視線をディアナへと向けていた。
先日の夜会では、礼法を無視して二曲目のダンスを強いた挙句に逃げられた。さらにその後の「評議の間」での同盟交渉では、兵站を維持する『絶対の証明』として『婚約』を持ちかけたが、【氷姫】の仮面の前に完膚なきまでに一蹴された。
(――何故だ。激しい雨の降るあの埠頭で出会って以来、私はこれほどまでに貴女の気高さに心を奪われているというのに。我が辺境伯家のすべてを懸けた『婚約』すら、貴女にとっては議論に値せぬ些事に過ぎないというのか……!)
それでもなお惹かれてしまう『孤高の氷華』への未練が、いまだに彼の胸中に渦巻いていた。
ハインツを支配していたのは、胸を掻きむしるような焦燥感だった。社交界の頂点で常に称賛を浴び、欲しいものはすべて手に入れてきた。それにも拘わらず、たかが二十一歳のうら若い女一人に主導権を握られ、外交の円卓ですら赤子のようにあしらわれた。
その事実が、彼の肥大化した自尊心を内側から抉り、嫉妬の炎を燃え立たせる。
『――てめえみたいな実戦も知らねえ優男に、<戦女神>の隣に立つ資格なんざねえ』
ハインツの未練がましい姿など眼に触れぬように、ディアナの前に毅然と立ちはだかったのはザックだった。
「漆黒の金属鎧」の上から纏った黒革の外套を海風に翻し、胸元を結ぶ『一本』の銀のチェーンが荒々しい金属音を立てている。
ザックは、己の命を賭けて支えると誓った我が主に纏わり付く不純物すべてを振り払うかのように、【黒嵐の獅子】の声なき咆哮を轟かせた。彼が放つのは、本物の死線を潜り抜けてきた武人だけが持つ圧倒的な威圧感――それを正面からぶつけられたハインツは、凄まじい恐怖で奥歯がガタガタと鳴り出すのを必死に噛み殺した。
(身分も血統もない、ただの一兵卒が……。何故、我がヴェルグランツの領内で、この私をそんな眼で見下ろすことが許されるんだッ……!)
ザックの胸元で揺れる『一本』の銀のチェーン――それは、騎士団長の証たる『六本』の金のチェーンを持つディアナとは、天と地ほどの身分差があることを示している。それにも拘わらず、ザックの佇まいには、身分秩序を微塵も恐れぬ絶対的な強者の余裕と、『ディアナの隣に立つのは自分だッ!』という確固たる自負が満ち満ちていた。
ハインツがどれほど言葉を尽くしても届かなかった【氷姫】の心に、あの武骨な男だけが触れている。その決定的な敗北感がハインツを嫉妬に狂わせ、激しい殺意にも似た復讐心へと変貌させていく。
(往くがいいさ、アードラー……。オーディンヴァルト大森林は、お前たちのような思い上がった余所者を絶対に受け入れない。未知の魔境で、その美しい貌が絶望に染まる瞬間を楽しみにしているぞ……)
ハインツは血が滲むほどに拳を握り締め、呪詛のような執念をその胸の奥底に深く沈め込んだ。
二人の間に走る、火花散るような視線の応酬――
だが、その張り詰めた様子をすぐ間近で察知しながらも、ディアナは【氷姫】の仮面を被ったまま、ハインツに一瞥もくれず無視を貫いていた。彼女の胸元で揺れる『六本』の金のチェーンが、鈍色の空の下で燦然と輝く。
いまや彼女の思考を満たしているのは、「お前が前に進む限り、俺は<最強の盾>となってお前を支えてやるッ!」と魂に誓ってくれたザックの言葉だけであった――
「……ふッ、【氷姫】と呼ばれているのは伊達ではないな、アードラー騎士団長――我が愚息の非礼、重ねて詫びよう」
若者たちの無言の心理戦と、ザックの<最強の盾>としての底知れぬ威風を冷徹な眼光で見届けていたキースが、沈痛な面持ちでディアナの前へと一歩進み出た。
「ヴェルグランツ辺境伯……」
キースは、ハインツに次期辺境伯としての器量があるかを見定めているのだろう。そして、今のところは彼の眼鏡に適っていないに違いない。ディアナは思わず言葉に詰まった。
「案ずるな、ディアナ殿。たとえ、今後どのような事態が皇国内で起きようとも、貴殿らの補給線は我がヴェルグランツ家の矜持に懸けて決して途絶えさせん。その後背の安全は、このキース=フォン=ヴェルグランツが鉄の盾となって引き受けよう――」
「感謝いたします、ヴェルグランツ辺境伯。大陸の運命を左右するこの遠征、我らの背後、確かに預けました」
ディアナは被っていた【氷姫】の仮面をほんの一瞬だけ緩め、老年の武人領主へ向け、力強くその手を差し出した。互いの誠意と誇り、確約を認め合った二人の手が、がっしりと固く結ばれる。古い因習の残る皇国内において、これ以上ない強固な「魂の政治的盟約」の握手だった。
彼女はその手を離すと、月の雫のような銀髪を颯爽と靡かせて愛馬アンヴァルへと跨る。その白銀の額を飾る面繋に嵌められたサファイアが、雲間から差し込む陽光を反射してきらめきを放つ。
「アードラー騎士団、出立ッ! 『双頭鷲』の旗の下、我らが威風を未開の魔境に刻むぞッ!」
左腰の<蒼月刀>を引き抜くと、ディアナは天に向かって高々と掲げた。気品と威厳に満ちた凛烈たる美声が、軍港を埋め尽くす全軍に響き渡る。
その刹那、一千の軍勢の背中を力強く押し出すかのような、強烈な海風が埠頭を吹き抜けた――
荒れ狂う暴風を受けて、ディアナの銀髪が激しく舞い上がる。
その背後で猛烈に風を孕んでたなびくのは、深紺色の布地に高貴な金色の意匠を施した、ヴァーテル伯爵家の軍旗。その中心には、権威と知略の象徴である白銀の紋章『双頭鷲』が、威風堂々と刻まれている。
天空に掲げた<蒼月刀>の鋭鋒が、皇国の鈍色の空を斬り裂いて陽光を呼び込む。それは、幾多の陰謀と戦雲が漂うこの大陸に、<月の女神>が新たなる秩序を刻み込むための偉大なる進軍の幕開けであった――
それから三週間あまり――アードラー騎士団が『交易都市フェルゼン』を目前にした頃、遥か東方に位置する母国――セリカ神国の宮廷は、不穏な静寂に包まれていた。
乳香が薫き染められた『白亜の議事堂』では、その爽やかなる香気に反して、血生臭い「宮廷の陰謀」が静かに牙を剥いていた。
「我がセリカ騎士団最強の蒼薔薇騎士団をアードラーの増援に送るなんて、法理の無駄遣いにもほどがあるとは思わないかい? ヴァーテル軍務次官、貴殿は我が神国の軍事資源を、身内贔屓のために私物化するつもりか?」
円卓の最上席から軍務尚書たるユリウス=シルベスター第二皇子が、冷徹な声音で糾弾の言葉を叩きつけた。その身に纏っているのは、皇族を象徴するロイヤルブルーに染め抜いた最高級の天鵞絨礼服だ。
襟元から肩口にかけて施された立体的な金糸の刺繍が、議事堂に差し込む冷ややかな陽光を浴びて豪奢にきらめいていた。気高く立ち上がった純白の詰襟が、彼の端麗にして不遜な横顔をいっそう際立たせている。
彼は白手袋を嵌めた指先で卓上に置かれた銀製の香炉を退屈そうに小突き、立ち上る『乳香』の細い煙を弄ぶかのようにかき乱す。
ユリウスのすぐ傍らには三大公爵家のひとつに名を連ねるブライアン=アシュレイ公爵が、獲物を追い詰める猛禽のような眼光を放ちながら薄笑いを浮かべて控えている。彼は今回の遠征に甥であるヴァイス=アシュラッド伯爵を、アードラー騎士団監軍総官として送り込んでいた。
アードラー騎士団では外套を留めるチェーンの本数によって、その役職と権限が明確に分けられている。監軍総官は『五本』の金のチェーンであり、騎士団長の『六本』に次ぐ実権を有する。これは、『四本』の副団長よりも上とされていた。
「お言葉ですが、ユリウス殿下……。我がアードラーはセリカ神国にその剣を捧げた者――軍令とあれば、どこへなりと征旅に赴きます。まして、オーディンヴァルト大森林までの道筋は、同盟国であるユピテル皇国を横断しての行軍。おそらく、兵站については問題ありますまい」
「兵站が整ったから、増援を出せと言うのかい?」
琥珀色の瞳をスウッと細めながら、ユリウスが訊ねた。その明晰な頭脳で、蒼薔薇騎士団を増援に送る利害を素早く計算していた。
「そうではございません、殿下……。アードラーにお出しになった『重畳たる軍令』のひとつ――<龍律の古代魔導輝晶>の捜索と回収。広大なオーディンヴァルト大森林を、たった一千人のアードラー騎士団で探索し尽くすことは、容易くないと申し上げているのです」
国家の絶対法理を掲げる軍務尚書に対し、正面から毅然と諫言を呈したのは、その直属の部下であるコルネウス=ヴァーテル軍務次官であった。ディアナの実父であり、宮廷の暴風にただ一人で立ち向かうヴァーテル伯爵家の当主だ。
「当然、当初の軍令通り<龍律の古代魔導輝晶>は回収してもらう。だがね、私はセリカ神国の皇族であり、国家の軍務尚書だ。大義名分のない法理の無駄など、一ゼナールたりとも認めないよ?」
琥珀色の瞳に冷徹な光を映して、ユリウスが昂然と告げた。それは皇子の権力を笠に着て、コルネウスの軍務次官としての権限を削ぎ落とさんとする、あまりに露骨な政治的包囲網であった。
「軍務尚書の仰るとおりである。控えられよ、ヴァーテル軍務次官……」
ユリウスの計略を裏ですべて操るかのように、上席から冷酷な声を響かせたのはブライアン=アシュレイ公爵であった。法務尚書たる彼の唇から言葉が放たれた瞬間、議事堂の空気が一変する。それは彼の天恵【法統】がもたらす、神国の絶対規則そのものが肉体を持ったかのような、有無を言わさぬ精神的重圧であった。
「左様、尚書のおっしゃる通りだ!」
「控えるがいい、ヴァーテル次官!」
「皇子殿下の前であるぞ!」
アシュレイ公爵の冷徹な一言に後ろ盾を得たかのように、円卓の左右に陪席する高官たちの多くが、一斉に浅ましい非難の声を上げた。
浴びせかけられる数多の冷笑と怒号。しかし、四面楚歌の円卓の中心で、コルネウスは身動き一つせず、その深謀ある双眸に冷徹な光を宿したまま嵐が過ぎるのを待っていた。
「――相変わらず口の減らない男だ。だがな、ヴァーテル次官。結果がすべてだ」
周囲の野次を手で制しながら、アシュレイ公爵が肉食獣のごとき薄汚い笑みを深くする。
「もしアードラーが<龍律の古代魔導輝晶>を持ち帰れぬのであれば、あるいは大森林で無様に全滅すれば、そなたがユリウス殿下へ提出した行軍計画すべてが『神国を欺く虚偽』であった証左となる。我ら法務省は、国家欺瞞の罪でヴァーテル伯爵家へ即座に弾劾の上奏を執り行う。当然、家領の取り潰しも免れんと思え」
「――すべては神国の栄光と法理のために。アードラーは必ずや任務を完遂いたします、公爵」
アシュレイ公爵が突きつけた冷酷な最後通牒に対し、コルネウスは一歩も引くことなく静かに顎を引いた。
ここでわずかでも動揺を見せれば、前線の娘たちは神国からの援助を絶たれて真の孤立に陥る。父親としての執念と、軍務次官としての意地が円卓の暴風を耐え抜いていた。
アシュレイの冷徹な双眸を正面から見据えながら、コルネウスの思考はすでに、この窮地を覆す唯一の『一手』へと向かっている。
――頼れる者は、もはや神国広しといえど、彼女しかいない。
議事堂を退出したその足で、コルネウスは同じ皇宮内に控えているはずの蒼薔薇騎士団長ノア=ローゼンブルクの元へと向かった。
三大公爵家すらも凌駕するローゼンブルク勇爵家の第一公女であり、神国最強の【剣姫】。
ひとつ選択を間違えれば国家が瓦解しかねない大陸の激動期において、わずか七本しか存在しない七大神器が一角、神話級の<銀月刀>を戴く絶対的な神国の守護神――
アシュレイの傲慢を叩き潰すに足る至高の血統と、神の領域にある圧倒的な武力。
ノアの協力を得られなければ、アードラーは確実に壊滅する。冷え切った胸の内に燃えるのは、狂おしいまでの焦燥と執念。コルネウスは自らのすべてを賭ける覚悟で、ただ一筋の希望である彼女の元へと急いだ。
皇宮の地下深く、冷たい石壁に囲まれた安全保障局の尋問室――
最低光量に絞られた一基の魔石灯が、頑強な樫の木で作られた傷だらけの机を仄暗く照らしている。
その頼りない光は、椅子に縛り付けられた肥満体の男を不気味に浮かび上がらせていた。年齢は四十歳ほど。上質な絹の衣服に包まれた贅肉をこれ見よがしに震わせ、恐怖のあまり青ざめている。その男の対面には、オーウェン=ヴァーテルが端麗な面差しのまま静かに座していた。
「ただの正当な商業取引だ。私はアシュレイ公爵家にも出入りを許された、神国公認の『特権商人』だぞ。いくら安全保障局長とはいえ、何ら法理に反していない資金移動を不当に差し押さえてタダで済むと思っているのか……!?」
男はアシュレイ公爵という絶対的な権威の影に隠れ、伯爵家の嫡男であるオーウェンに対して精一杯の虚勢を張っていた。アシュレイの名を出せば、いかに安全保障局長といえども手出しはできないはずだという、成り上がりの商人特有の浅ましい計算がその歪んだ薄笑いに透けている。
だが、男の額には冷たい脂汗が滲んでおり、魔石灯の光を受けて不気味にギラついていた。
しかし、オーウェンは眉一つ動かさない。
彼は白手袋を嵌めた指先で、淡々と手元の書類をめくっていく。
「通常の経済ルートを完全に無視した、不審極まる『数十枚の星金貨』の動き。魔人国の女王アスタロトに我がアードラー騎士団の補給線を漏洩させた対価としては、いささか安すぎると思うがね」
「な、何を馬鹿なことを――」
「私の前で下劣な嘘を吐くな」
オーウェンが蒼灰色の瞳を冷酷に細めた瞬間、彼の天恵【法理の帳簿】が発動する。
すると、男が吐き出した嘘の言葉が、まるで血のような赤黒い霧となって彼の口から噴出した。その血霧が男自身の首に纏わり付き、絞首の縄と化す。
「ぐッ……がッ、あぁあッ!?」
天恵がもたらす容赦のない肉体的苦痛。現実に首を締め上げられる窒息感と恐怖に、男はガタガタと身を震わせて口元から血の泡を吐き、ガタンという音を響かせて樫の机へ倒れ込んだ。
「……ッ!」
激しく机が揺れた拍子に男の血が一滴、オーウェンの端正な頬へと跳ねる。彼は不快そうに目を細めた。
「……国家を欺く者の血は、実に穢らわしい」
感情の欠落した声音でそう呟くと、彼は白手袋の背でゆっくりと頬の血を拭い取った。
純白の布地に、赤黒い染みが滲む。その汚れを一瞥した彼は、情報の抜け殻となって卒倒している男から冷淡に視線を外した。
最愛の妹を救うために次の一手を打つべく、安全保障局長は静かに尋問室を後にするのだった。
いよいよ、『第4章 国境の死線』のスタートです\(^o^)/
ディアナたちアードラーに、次々と難題が襲いかかります。
手に汗を握る展開を楽しみにお待ちください!




