12.剛毅の盟約、届かぬ距離
【登場人物紹介】
オーウェン=ヴァーテル
・24歳。
・176cm、65kg。
・安全保障局長。
・ヴァーテル伯爵家の嫡男で、ディアナの実兄。
・ディアナと同じ蒼灰色の瞳。
※【登場人物紹介】は、ネタが切れるまで続ける予定です(^_^;
ヴェルグランツ城塞の「評議の間」――
重厚なオーク扉の向こう、卓上に広げられた大陸地図を挟んで、張り詰めた緊張感が満ちていた。
セリカ神国の皇都リーアンから進軍し、レウルキア王国軍の大型鉄甲魔導艦十隻に及ぶ大艦隊を突破して、遥か西のオーディンヴァルト大森林へと伸びるアードラー騎士団の進軍ルート――
その中継点であるユピテル皇国ヴェルグランツ辺境伯領の協力を得られるか否かは、この遠征の命運を分ける生命線だった。
『ヴェルグランツ軍港』を一望できる最上階に位置する「評議の間」は、五mを超える石造りの高い天井が、辺境伯家の歴史を物語るように厳かな風格を際立たせていた。
昨夜の華やかな夜会で使われた階下の大広間とは異なり、ここは辺境伯領の重要な政務や軍事を裁定するための空間である。
北東の海原から吹き渡ってくる凍てついた寒風が高窓を激しく叩く。室内の巨大な暖炉には薪が贅沢にくべられ、煌々と炎を燃え上がらせていた。
遠方より訪れた他国の精鋭を迎えるにふさわしい暖気が、部屋の隅々にまで満ちている。その心地よい温度とは裏腹に、巨大な円卓を挟んだ両陣営は、これから交わされる白熱の議論を前に互いの腹を探り合っていた。
「アードラー騎士団は自前の兵站を携行している。だが、大森林での長期戦、あるいは不測の事態という最悪のケースを想定すれば……、我がユピテル皇国の協力による『確実な補給線』の確保――これこそが、今回の交渉の最大の山場というわけだな、ヴァーテル騎士団長」
白髪交じりの短髭を蓄えた顎に指先を軽く這わせながら、地響きのような低い声を放ったのは、ユピテル皇国北方の守護者と呼ばれるキース=フォン=ヴェルグランツ辺境伯だった。
今年五十五歳になる重厚な武人で、彼の持つ天恵【剛毅果断】は、いかなる逆境にあっても決して揺らぐことのない、鋼の決断をもたらすという。
レウルキア王国軍の艦隊十隻を相手に海上戦を挑み、あの『緋の三聖』の筆頭であるアルヴィンとの死闘を制してここまで辿り着いたアードラー騎士団――
その実力を誰よりも正当に評価しているからこそ、キースはヴェルグランツ要塞の軍港を開放し、彼らを国境線内で保護する決断を下したのだ。
キースの傍らでは、筆頭政務官フランシスカ=ベルグが、一切の私情を排した琥珀色の瞳で書類を検め、自身の天恵【天理律法】によって弾き出される数字と法理の整合性を淡々と見極めていた。
そんなフランシスカの冷徹な査定を吟味して放たれる圧倒的な意志の力――キース辺境伯の天恵【剛毅果断】が選択する裁定結果が、「評議の間」に会するすべての者に言いようもない重圧として容赦なくのしかかっていた。
だが、ディアナは【氷姫】の仮面を被ったまま、微塵も揺らいだ様子を見せなかった。
(凄い威圧感だわ……。これが噂に聞く【剛毅果断】なの? 一人きりだったら、萎縮して何も言えなかったわね……)
騎士団長とはいえ、ディアナはまだ二十一歳の女性だ。幼い頃から磨き上げてきた剣技ならともかく、社交辞令や対外交渉の経験はまだまだ不足している。
だが、彼女の周囲には、その経験不足を補って余りある有能な部下たちがいた。
副団長、デューク=バトラー――【百錬の死神】の二つ名を持つ宿将で、四十年近い戦歴と天恵【金剛】を有する。ディアナが最も信頼する前線指揮官だ。
参謀長、バルハルト=バルトメウス――【戦場の毒蜘蛛】と呼ばれる天才軍師で、その天恵【軍師】は「深謀深慮の先読み」によって数十手先の事象を把握する。
そして、副官のシンディ――【黒鴉の眼】の異名を持つ元暗殺者で、ディアナの右腕であると同時に専属侍女も兼任している。愛用の<冰刀>は古代級の双刀で、その天恵は【暗殺者】だ。
いずれも、対外交渉や情報収集においては、非常に頼りになる三人だった。
最後に、ディアナが【氷姫】の仮面を外せる唯一の男――筆頭騎士、ザック。百九十六cm、百八kgという圧倒的な巨躯と、アードラー騎士団のみならず、セリカ騎士団においても一、二を争う強さを持つ騎士だ。彼が愛用する斧槍<フレイム・ハルバード>には火龍の宝玉が嵌められており、天をも焦がす劫火の奔流さえ放つ威力を有する。
「ヴェルグランツ辺境伯。我がアードラーがオーディンヴァルトの脅威――我々人族に敵対する魔人族を討つことは、ユピテル皇国にとっても有益であると断言いたします。互いの利害は一致しているはずです」
ディアナが凛とした声音で告げる。しかし、キースは安々と首を縦には振ろうとしなかった。
「理屈は分かっている、ディアナ殿。だが、他国の騎士団を領内に通し、物資の後方支援まで確約するのだ。我がヴェルグランツ家として、両国の結びつきを決定づける『絶対的な保証』が欲しい」
不敵に笑うキースの言葉を引き取るように居住まいを正したのは、嫡男のハインツ=フォン=ヴェルグランツだった。
繊細なウェーブを描く艶やかな金髪を揺らした二十五歳の若き騎士は、その瑠璃色の瞳に真摯な光を宿し、洗練された貴族としての礼節を保ったまま、ディアナへと真っ直ぐに向き直った。
「父上、その保証、私から提案させてください。――ディアナ=ヴァーテル殿。私は昨日、激しい雨の降るこの軍港の埠頭に貴女をお迎えし、そのあまりにも玲瓏たる気高さを湛えた姿を目の当たりにして以来、深く心を奪われてまいりました。我が辺境伯家がアードラーの背後を支え、強固な兵站を維持する『絶対の証明』として……私と貴女の『婚約』を、この軍事協定の条項に組み込むことを提案いたします」
それは、洗練された言葉遣いとは裏腹に、前日の一目惚れから来る感情に任せた、あまりにも強引な公私混同そのものだった。いかにヴェルグランツとアードラーの結びつきを強固にするためという大義名分を掲げようとも、この厳粛な軍事交渉の場に私情の婚姻をねじ込むハインツの提案は、「評議の間」の空気を一瞬にして凍り付かせるに十分だった。
ディアナの斜め後ろに控えていたアードラーの筆頭騎士、ザックの眉がピクリと跳ね上がる。【黒嵐の獅子】の異名を持つ二十五歳の彼は、胸元に輝く『一本』の銀のチェーンを激しく揺らしてハインツを見据えた。
この地に到着した直後から事あるごとにディアナを軽薄に口説こうとしていたこの男への苛立ちが、胸の奥で一気に激しい怒りとなって蘇った。
すべてを失った自分が命懸けで支えると誓った<戦女神>を、このような不躾な私情で汚そうとする男への憤怒と憎悪――
だが、【黒嵐の獅子】はディアナの<最強の盾>としての理性を辛うじて保ち、血が滲むほど拳を握り締めてその衝動を噛み殺した。
ハインツの提案に対し、ディアナは眉一つ動かさず、完璧な礼儀作法を保ったまま冷ややかに拒絶した。
「ハインツ殿。私への過分なお言葉、恐れ入ります。ですが、そのお申し出をお受けすることはできません。現在、私たちは大陸の存亡を懸けた遠征の最中にあります。個人の婚姻という私情を、この重大な補給線交渉の天秤に載せることは、ヴェルグランツ辺境伯家の矜持、そして我がアードラー騎士団の誇りへの侮辱となりかねません」
「しかし、ディアナ殿……!」
なおも食い下がろうとするハインツを、今度はアードラーの宿将が容赦なく遮った。
「ハインツ殿。我が団長を侮っていただいては困るな」
椅子の低い軋みを響かせ、円卓へ重厚に身を乗り出したのは副団長デュークだった。【百錬の死神】の放つ、本物の戦場をくぐり抜けてきた男の殺気混じりの威圧感が、ハインツの言葉を喉に張り付かせる。
「軍事協定の場に色恋を持ち込むなど、片腹痛い。兵站の確約を不確定要素の多い婚姻関係に依存するなど、戦場を知らぬ者の戯言だ」
「おやおや、ヴェルグランツの若きご令息は随分とロマンチストなようだ。ですが、我が参謀本部としては、そのような曖昧な約束で騎士たちの命を預けるわけにはいきませんな。……それとも、そちらの有能な筆頭政務官は、血縁関係などという非科学的な数字で補給線を計算されるのですかな?」
さらに、参謀長バルハルトが【戦場の毒蜘蛛】らしい厭味な笑みを浮かべながら、追い打ちをかけるように滑らかな声で告げた。
バルハルトの視線を受け、鉄の理性を持つフランシスカが淡々と口を開く。
「ハインツ様。婚姻による感情的・血縁的な結びつきは、長期的な同盟維持における『不確定要素』を増大させます。我が【天理律法】に照らし合わせても、現段階で婚姻を条件に組み込むのは著しく非合理的です」
「フランシスカまで……」
身内である筆頭政務官からも冷徹に切り捨てられ、ハインツは瑠璃色の瞳を落として力なく椅子の背もたれに体を預けた。
「……ふッ、手厳しいな。【百錬の死神】に【戦場の毒蜘蛛】――そして、我が領の最高頭脳にまで包囲されては、ハインツも兜を脱ぐほかあるまい。軍事協定の場を私情で汚そうとした我が息子の無礼、ヴェルグランツ家の長として深く詫びよう、ディアナ殿」
キースは冷徹な眼光を息子へと向け、その静かな威圧でハインツを完全に沈黙させた。そして、再びディアナたちと向き直ると、地図の上の補給線を指で力強く叩いて頷いた。
「アードラー騎士団の背後は、このキース=フォン=ヴェルグランツが引き受けよう。このヴェルグランツを起点とし、貴殿らがオーディンヴァルト大森林へと至る皇国内におけるすべての進軍ルート――その行く先々にある他領の補給拠点や関所に対し、我が辺境伯家の全政治力と影響力を以て、滞りなく物資を受給できるよう早急に国内の調整を完了させることを約束する」
「大変ありがたいことですが、そのようなことが短期間で実現可能でしょうか?」
予想以上の成果を引き出せたことに驚き、ディアナが思わず身を乗り出して訊ねた。
「心配なさるな……。もう、代償として婚約しろなどとは言わん。我が天恵【剛毅果断】は、どれほど不利な戦況や未知の脅威に対しても、常に最善の解答を選び続けることができる。たとえ、最悪の事態が起きようとも、貴殿らの補給線は決して途絶えさせん。――これが、我がヴェルグランツ家の矜持だ」
「ご厚意ありがたく、感謝に堪えません」
ディアナは席を立つと、月の雫のような銀髪を揺らしながら深く頭を下げた。
こうして、アードラー騎士団の運命を左右する最大の交渉は、ディアナの【氷姫】たる毅然とした態度とアードラー陣営の連携によって、最高の後方支援の約束を取り付ける形で決着を迎えたのだった。
ヴェルグランツ辺境伯との息詰まる交渉を終え、アードラー騎士団に与えられた控室――
重厚なオーク扉が閉まると、副団長デュークや参謀長バルハルト、副官シンディらは、次の進軍に向けた地図を卓に広げ、早くも戦術会議へと意識を切り替えていた。
部屋の隅、ザックは静かに壁に背を預け、自身の胸元へと視線を落とす。
彼の纏う黒革の外套の留め金を結んでいるのは、『一本』の銀のチェーン。それは、騎士団長に認められた『筆頭騎士』の証である。
一般騎士に比べれば精鋭の証ではあるが、チェーンを許された幹部の中では最下層の階級であることを示していた。
ザックの視線の先には、窓辺に佇む騎士団長、ディアナ=ヴァーテルがいた。
彼女の漆黒の外套を両肩で留める、精緻な金の装飾――その左右の留め金を結び、胸元に幾重もの弧を描いて燦然と輝くのは、『六本』の金のチェーン。騎士団の最高責任者にして、名門ヴァーテル伯爵家の長女である彼女にしか許されない、圧倒的な高貴さの象徴である。
『六本』の金色と、『一本』の銀色――
それは、二人の間に厳然と横たわる、決して埋めることのできない「身分の壁」そのものだった。
ザックの本当の名はアイザック。セリカ神国ラザフォード辺境伯家の次男――本来であれば、ディアナと対等に並び立てる血筋だったはずだ。
だが、家を勘当され、すべてを失った今の自分は単なる騎士に過ぎない。その過去は、命を賭けて支えると誓った最愛の女性にすら、明かすわけにはいかなかった。
(今の俺は、ただのザックだ。『六本』の金色のお前と、『一本』の銀色の俺……。遠いな)
胸の奥に走る切ない痛みを隠すように、ザックはフッと自嘲気味に笑う。
だが、その想いは決して後ろ向きなものではない。十五歳の彼女が家族にも内緒で冒険者となった頃に出会い、数多の死線を共に潜り抜けてA級パーティにまで昇りつめた。
彼女がもともと身につけていた剣を、「剣の師」として実戦の剣へと昇華させ、ここまで引き上げてきたのは他でもないザック自身なのだ。どれほど身分が離れていようとも、二人の絆だけは誰にも引き裂くことはできない。
作戦机を囲むデュークたちの声が、ふッと遠のく。
いつの間にか、ディアナがザックの目の前に歩み寄っていた。月の雫のような銀髪を揺らし、【氷姫】と呼ばれる彼女が他の団員には絶対に見せない、長年の相棒であるザックだけが見ることを許された、柔らかい色彩をその瞳に宿している。
ディアナの胸元で気高くきらめく『六本』の金のチェーン。それが、ザックの『一本』の銀のチェーンと、至近距離で静かに重なり合う。二人の距離が、公の壁を越えて急速に縮まった。
「ザック。……何を考えているの?」
周囲に聞こえないほどの密やかな――しかし、気品のある飾らない「本来の彼女の声」がザックの鼓膜を震わせた。
「いや、何でもねえよ。ただな……」
ザックは首を振り、不敵な笑みをその精悍な顔に浮かべた。そして、彼女を守る騎士としての誇りを込めて、真っ直ぐにディアナを見つめる。
「さっきのヴェルグランツの優男の言葉を聞いて、改めて思っただけだ。すべてを失ったこの俺が、何があっても命がけで守り抜くと誓った<戦女神>――お前が前に進む限り、俺は<最強の盾>となってお前を支えてやるッ! それが俺の仕事だ。金だの、身分だの、そんなくだらねえもんでお前の隣に立とうとする奴らには、一歩も譲る気はねえよ」
それは皇宮の身分秩序を――その実力と愛だけで踏み越えてみせるという、ザックの魂の誓いだった。
ディアナはザックの熱い言葉を真っ正面から受け止め、【氷姫】の仮面の奥から愛おしげに――そして、深い信頼を寄せた声音で小さく囁いた。
「頼りにしているわ、ザック……。貴方は私の――」
その続きは、声にしてはいけなかった。永遠に胸の中にしまっておく言葉であることを、二人は知っていた――
『六本』の金色と『一本』の銀色のチェーンが、凍てついた氷を溶かす焔のように切なく――そして、美しく揺れていた。
『第3章 虚飾の夜会』は、この第12話をもって終了となります。
次はいよいよ、第4章のスタートです!
舞台は移り、新たな困難がアードラーを待ち受けています。
どうぞ、お楽しみに♪




