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氷姫の旗を掲げよ~秘めたる愛影に抱かれて~  作者: 椎名将也
第3章 虚飾の夜会

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10.氷姫の鳥籠、嵐の前奏曲

挿絵(By みてみん)


【世界観紹介】

ムズンガルド大陸


今回は、この小説の舞台となるムズンガルド大陸のご紹介です!

セリカ神国は東方に位置する島国であり、ディアナ率いるアードラー騎士団は現在、海を渡って同盟国であるユピテル皇国に入っています。

アードラー騎士団の現在位置は赤い★で、ここが『軍港都市ヴェルグランツ』です。

これから大陸中央にある未開の魔境、オーディンヴァルト大森林を目指します。

どんな危険が待ち受けているのか、楽しみにお待ちください!


<アドリア海域>の昏い空に重く垂れ込める黒雲を割って、ゴロゴロと不気味な雷鳴が轟き渡っていた。


 軍港都市ヴェルグランツは夜の帳(とばり)に包まれ、大地を穿つような土砂降りの雨が激しく降りしきっている。稲妻の閃光とともに雨粒が埠頭の岸壁を容赦なく叩き、白い飛沫(しぶき)を夜気の中へと跳ね上げていた。

 その吹き荒れる風雨の闇を切り裂きながら、四頭立ての豪奢な送迎馬車が石畳の登り坂を駆け上がっていく。車輪が濡れた石畳を踏みしめる度に、硬質な残響が激しい雨音に混じって夜気に響いた。


 ディアナは蒼灰色(ヘイズブルー)の瞳を外に向け、馬車の窓から暗闇に聳え立つ巨大な影――ユピテル皇国北方の守護者、キース=フォン=ヴェルグランツ辺境伯の居城を見上げた。


 それは、セリカ神国の貴族たちが好む白大理石を贅沢に用いた宮殿と比べると明らかに異様であった。

 黒鉄の補強材が幾重にも打ち付けられた分厚い石壁、外敵を迎え撃つための矢狭間(やざま)が並ぶ外壁――そして、要塞全体を覆い尽くす魔導障壁。まさしくそれは、優美さや華麗さとはかけ離れた『軍事要塞』そのものであった。


 豪奢な送迎馬車が辺境伯邸の堅牢な車寄せへと滑り込み、重厚な摩擦音を響かせて車輪を停止させた。

 馬車が停まるや否や、巨大な白い観音扉の前に控えていた侍従たちが走り寄ってきて、宮廷作法に則った淀みのない手際で馬車の扉を恭しく開け放った。

 それと同時に、ハインツ=フォン=ヴェルグランツが洗練された動作で車外へと降り立った。そして、吹き荒れる豪雨をものともせず、『夜の貴公子』に相応しく、馬車から降りるディアナを支えるように右手を差し出した。


(こういう扱いも、久しぶりね……。悪くはないけど、慣れないわ)

 蒼灰色(ヘイズブルー)の瞳に困惑の色を浮かべて、ディアナがハインツの整った顔をちらりと見上げた。騎士団長という立場から、普段は愛馬のアンヴァルに乗ることが多い。当然ながら、乗り降りに誰の手も借りたりはしない。世の貴族令嬢のような扱いをされることには戸惑うディアナだった。


「――ようこそおいでくださいました、我が月の女神(ディアーナ)。我が父キースは、長旅でお疲れの貴女を旅装のまま迎える非礼を大変案じておりました。まずは用意した客室へとご案内いたします。温かい紅茶をご用意しますので、夜会の仕度まではどうか、ごゆるりとお寛ぎください」

 優雅に身を屈めて、ハインツが慣れた口調で告げた。このような礼儀作法が苦手なディアナは、【氷姫(アイス・ドール)】の仮面を被ったまま内心で大きなため息をついた。


「此度の入港に続き、過分なるお心遣い、恐悦至極に存じます、ヴェルグランツ閣下」

 黒地に金の装飾を施した騎士団長の制服のままで、ディアナはハインツの手に慇懃(いんぎん)に導かれて馬車から降り立った。

 車寄せの深い屋根の下へと歩みを進める間、横殴りの暴風雨が激しく吹き込んでくる。その雨粒はハインツの天恵【千変万華(ミラージュ・フルール)】によって残さず外側へと逸らされ、彼女の銀髪に触れる直前、まるで硝子の破片のように美しく霧散していく。


 だが、ディアナが車寄せの中へ足を踏み出した瞬間、後続の送迎馬車から凄まじい地響きが轟いた。バタンッと後続車の扉が押し開かれ、そこから一人の偉丈夫――ザックが石畳を踏み砕かんばかりに足を踏みしめて降り立ったのだ。

 彼は激しく叩きつける豪雨の中にその巨躯を容赦なく晒した。天を衝くようなその姿が、稲妻の白い閃光によって夜闇の中に禍々しく浮かび上がる。


 滝のように降り注ぐ大粒の雨が「漆黒の金属鎧」を激しく打ち鳴らし、白い飛沫となって周囲に弾け飛んでいる。背に負った愛用の斧槍<フレイム・ハルバード>が豪雨に濡れるのも構わず、大地に深く根を張る巨木の如く、ただそこに傲然(ごうぜん)と立ち尽くしていた。

 戦場の血臭と荒々しい熱気が、吹き荒れる雨夜の寒気を真っ向から押し返している。もっとも、ディアナからは「辺境伯邸に到着したら、速やかに客室にて武器を魔導封印(マナ・シール)し、騎士の制服へと着替えること」を厳命されていたはずだった。


(ザック……、こんなところで、何をするつもりなの?)

 獰猛なまでの殺気を全身から放出し、凄まじい眼光でハインツを睨(ね)めつけているザックの態度は、ディアナに最悪の事態を予感させるのに十分だった。

 彼女は素早く周囲を確認すると、ザックの後ろに立っている一人の男に目配せをした。


「チッ……、気取った真似しやがって……ッ!」

 血が滲むほど拳をギュッと握り締め、ザックは奥歯をギリッと噛み鳴らした。そして、ディアナを守るべく一気に距離を詰めようと前傾姿勢になった。


 ザンッ……!


 ザックがまさに地面を蹴ろうとした瞬間、一人の男が巨大な岩壁の如く彼の目の前に立ちはだかった。


「馬鹿者がッ! 何を考えておるッ!?」

 地鳴りのような重厚な声色が、ザックの鼓膜へと容赦なく叩きつけられた。

 アードラー騎士団副団長、デューク=バトラー子爵――ディアナが最も信頼する補佐官であり、五十二歳になる老練の宿将だ。【百錬の死神】の異名を持つその存在感と天恵【金剛(アダマス)】には、誰もが一目置いていた。


「頭を冷やさんかッ! 団長の顔に泥を塗るつもりかッ!?」

「おやっさん……」

 さしものザックも、デュークに逆らうことはできなかった。何しろ自分が生まれる前から戦場に立ち続けてきた歴戦の古強者(ふるつわもの)である。


(さすが、デュークね……。頼りになるわ)

【黒嵐の獅子】さえ止める老将の姿に、ディアナは安堵と信頼の眼差しを向けた。そして、再びハインツを振り返ると、ニッコリと微笑して先を促した。


「色々とお気遣いありがとうございます、ヴェルグランツ閣下。お言葉に甘えさせていただき、しばしの間、休ませていただけると幸いです」

「ご自宅にいらっしゃるおつもりで、ごゆるりとお過ごしください。さあ、こちらへ……」

 邸内へと続く白い観音開きの扉を通り抜け、ハインツが先導してディアナを案内する。その後ろ姿を見つめながら、ディアナは新たな火種に頭を悩ませた。


(あの調子じゃ、夜会でも何かしでかしそうね。デュークが上手くあしらってくれるといいんだけど。私もできるだけ注意しておかないと……)

 戦場では頼りになるザックも、社交の場では不安の方が大きかった。ディアナは前を行くハインツに気づかれないように、小さくため息をついた。



 案内された一室は、ユピテル皇国北方守護者の名に恥じぬ、重厚さと伝統的な格式に満ちていた。それは、黄金や白大理石できらびやかに飾り立てたセリカ神国の邸宅とは一線を画している。


 まず目に飛び込んでくるのは、壁面を隙間なく覆う、深い焦茶色の最高級オーク材の壁板であった。北方ヴェルグランツの峻烈な寒気を遮断するために張られたその木肌には、辺境伯家の歴史を物語る緻密な植物紋様(アラベスク)が彫り込まれ、蜜蝋で磨き上げられた表面が暖炉の光を鈍く反射している。

 石造りの堅牢な骨組みを内包しながらも、賓客を迎える室内は名門の威厳に相応しい温かみと気品を湛えていた。


 壁の要所には、皇国北方特有の意匠である、鮮やかな羊毛で織られた巨大なタペストリーが掲げられている。そこにはヴェルグランツ辺境伯家の象徴である「黄金の獅子」の紋章がくすんだ金糸で精緻に刺繍され、歴代当主の武勲を描いた壮麗な織柄とともに、室内に武門の誇りを刻みつけていた。


 また、壁を背にするように置かれた大型のキャビネットや天蓋付きの四柱ベッドは、どれも年月を経て深い飴色に変化した古木――黒胡桃の巨木から削り出されたもので、要塞の調度品に相応しい確かな重量感と堅牢さを誇っている。


 足元には、冷たい石床を完全に覆い隠すように、毛足の長い重厚な絨毯が敷き詰められていた。その色は、辺境伯家の伝統色である、深く落ち着いた暗紅色(ボルドー)だ。その厚手の織地には、複雑に絡み合う茨の幾何学紋様だけが静かに織り込まれており、部屋全体の重厚な色彩を均整に保っていた。


 さらに部屋の奥、琥珀色の炎を揺らす大理石の暖炉の直上には、一枚の壮麗な油絵が掲げられていた。それは極寒の北海を往く辺境伯領の精強な艦隊を描いたもので、荒ぶる白波と、威風堂々と翻る軍旗が、暗めの照明の中で格式高い存在感を放っていた。


 どれほど贅を尽くし、賓客をもてなす調度で整えられていようとも、この城の本質は外敵を屠るための要塞。その部屋はディアナにとって、冷徹な規律で縛られた広大な鳥籠と何ら変わりはなかった。


 鏡の前に立ち尽くすディアナの傍らでは、セリカ神国から携えてきた夜会用の衣装盆を前に、彼女の専属侍女であるシンディと、辺境伯家が配した熟練の侍女たちが一寸の無駄もない手際で動いていた。

 先ほどまで身に纏っていた黒金の騎士団長の制服は、彼女たちの手によって恭しく衣装盆へと収められていた。その代わりにディアナの身体へと滑らかに着せ付けられたのは、夜の闇を溶かし込んだような深い紺青色(プルシアンブルー)のイブニングドレスであった。


 最高級の絹を贅沢に使用したドレスは、身体の動きに合わせて夜の海のように静かな光沢を放ち、胸元や袖口に施された精緻な金糸の刺繍は、彼女の透き通るような肌を一層引き立てている。露出した鎖骨から肩への滑らかなラインは、世の高貴な令嬢たちと比べても些かの遜色もないほどに美しかった。

 しかし、布地越しに肌へと伝わる絹の柔らかな感触は、彼女にとって落ち着かないことこの上なかった。


(糊が利いた騎士団長の制服を着て雨に打たれている方が、どれほど心が休まるかしら……)

 コルセットによって限界まで締め上げられた胸元は息苦しく、深く息を吸い込むことすらままならない。幾重にも重ねられた薄絹の裾は長く、床を滑るように引きずる意匠は、騎士としての足捌きを著しく制限していた。


 剣士として、咄嗟の身体能力をすべて奪われたような感覚――何よりも、いつも腰に帯びていた<蒼月刀(アズルーナ)>が手元にないという事実が、ディアナの背筋に得体の知れない不安を走らせていた。

(これが本来の私……? 絶対に違うわね……)

 ディアナは鏡に映る自分を見つめ、細い指先でそっと胸元に触れた。そこにはただ華やかに飾られ、誰かにエスコートされるのを待つだけの「美しい令嬢」の姿が映っていた。


 彼女は小さく息を吐き出し、張り詰めそうになる心を抑え込むようにして、いつも通りの冷徹な【氷姫(アイス・ドール)】の仮面を深く被り直した。どれほど不自由な衣を纏おうとも、己の魂まで飾り物にさせるわけにはいかなかった。



 一方で要塞側の厳重な監視のもと、護衛としてディアナの隣室に押し込められたザックは、今にも部屋の石壁を殴り砕かんばかりの激しい怒りと屈辱に全身を震わせていた。

 彼の目の前には、ヴェルグランツ家が用意した重厚な黒鉄の武器箱が鎮座している。その中に横たえられているのは、数々の戦場で敵の肉と骨を砕いてきた、ザックの半身とも言える愛用の斧槍<フレイム・ハルバード>であった。

 いま、複数の凶器が一体となった禍々しい槍頭(そうとう)へ向けて、辺境伯付きの魔導術士が恐る恐る手をかざしていた。


「始めよ。団長からの厳命だ」

 室内の壁際に立ち、微動だにせずザックを監視していたデュークが、地鳴りのような低い声で術士に促す。

「は、はい……! これより、魔導封印(マナ・シール)を執行いたします」

 術士が震える声で呪文を唱え始めると、彼の指先から淡く冷たい魔力の光が放たれ、武器箱の中の斧槍へと絡みついていった。


「――チッ、胸糞悪い」

 ザックは獰猛な犬歯を剥き出しにし、忌々しげに吐き捨てた。

 魔導の光が斧槍を完全に包み込むと、そこに刻まれた術式が強固な「施錠」として機能し始める。それまでハルバードに嵌められた<火龍(フレイムドラーク)の宝玉>から放たれていた膨大な火属性魔力が、まるで物理的な鎖で縛り上げられたかのように急速に霧散し、沈黙していく。


 戦士にとって、得物を封じられるということは、四肢を切り落とされるに等しい。マナの接続を遮断され、ただの重い金属の塊へと成り下がっていく愛用の武器を見つめながら、ザックは爪が掌に食い込むほど拳を握り締めた。


(あの気取った優男の首を、今すぐこの手で叩き斬ってやりてぇのに……!)

 ハインツが見せた余裕に満ちた態度への怒りと、ここで大人しく従わねばならない己の無力さへの苛立ち――それらが混ざり合い、ザックの胸中で黒い殺意がグツグツと不気味に泡立っていた。


 だが、背後から突き刺さるデュークの鋭い双眸が、ザックの暴発を寸前のところで繋ぎ止めている。もしこの老将の監視がなければ、ザックは今すぐにでも術士の首をへし折り、魔導封印(マナ・シール)の術式ごと武器を奪い返していただろう。


「不満げな面をするな、ザック。我々は此度、ユピテル皇国へ牙を剥きに来たわけではない。団長の立場を危うくすることだけは、この私が絶対に許さん」

 デュークの冷徹な一言に、ザックはチッと大きく舌を鳴らし、乱暴に視線を逸らすしか選択肢はなかった。


「……それと、これを預かってきた」

 デュークは懐から小さな革袋を取り出すと、無造作にザックへと放った。片手で受け止めたザックが中を覗き込むと、そこには見覚えのある『一本』の銀のチェーンが収められていた。アルヴィンの刺突で断ち切られたはずの鎖は、新しい環で丁寧に繋ぎ直され、魔石灯の光を受けて静かにきらめいている。


「こいつは……」

「団長がヴェルグランツへの航海の間に、輜重隊の者に命じて繋ぎ直させたものだ。今宵の夜会は騎士服で出ろとのご指示だが、明日の評議にはいつもの鎧で臨むことになる。それまでに付けておけとのご命令だ」

 ザックはしばしの間、掌の上の銀の鎖を無言で見つめていた。そして、獰猛な表情をわずかに緩めると、壁際に掛けられた黒革の外套(マント)を手に取り、その留め金へ銀の鎖をしっかりと結び付けた。

(……ったく。礼くらい、直接言わせろってんだ)


 武器を奪われ、文字通り丸腰となった【黒嵐の獅子】は、人知れず牙を研ぎ澄ましながら、嵐の前の静けさを孕んだ夜会の始まりを待っていた。



「10.氷姫の鳥籠、嵐の前奏曲」をお届けします!

ドレスを着たディアナ嬢、さぞかし美しいのでしょうね?

『夜の貴公子』ハインツの誘惑を、どのように撥ねのけるのか、楽しみです!

ザックも大暴れしそうな予感。

第11話では、いよいよ運命の夜会が始まります。

どうぞ、お楽しみに!

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