ラプンツェルと造花
杖をやっと右腕で使うと、そろそろとしたペースで病室から出た。寝ているのも、考えるのもいやだった。白い材質の床、鱗のような固い感触のするそれを踏みつけて、窓のある部屋まで体を引きずっていく。
外の見えないテレスクリーンの窓、いくつかのテーブルといくつもの椅子が並んでいる。テーブルには皆いくつもの培養花が端にはぽつん本棚があった。薔薇のようだが、トゲは生えた様子がなかった。
電子機器の使えない患者もいるための配慮だったのだろうが、中はがらんとしていて数冊の絵本だけがある。よろめきながら、一冊の絵本を引き抜いた。青いキャベツ畑、長い髪の娘、失明する王子。おそらくラプンツェルだろう。
何度もめくり、文字らしきものを追っていくが、彼には黒い図形にしか見えようがない。どんな文字だろうと思い出そうとするが、頭の中が締め付けられるような痛みが巡り、目を閉じた。まぶたの奥に文字だけが焼き付き、彼のことをあざ笑っているようだった。
「あなた、もしかして?」
少女が寝間着のまま、こちらへ歩いてくる。あの赤いコートを着ていた子だ。彼は頷いただけで顔を伏せた。
ほっといてくれ。言いたいがいえない。それがまた彼をいらだたせ、叫びを上げさせることになる。どうせこの病院は音で気にするような奴はいない。それはもう何年も前のことで、みんな眼鏡のようなヘッドフォン・テレビにきっと夢中だ。
少女は慌てて、どこか痛いのか、なぜ泣き叫ぶのか延々と聞き続ける。赤子か幼児をあやすように肩に手をかけようとする。振り払おうと振った腕は重く動かしようがない。少女の腕とは思えない固い鉄の感覚とずっと見つめ続ける少女の目が、彼を押しとどめた。
「いったいどうしたっていうの」
彼は力なく、本を指し示した。そして指でゆつくりと黒い文字をなぞる。そして首を振る。少女は眉をひそめて、呟いた。
「せいねんはみえないめで、もりのなかを歩きまわり?」
「できない」
もう一度少女は怪訝な顔を男に向ける。男は本を投げ出し、地面に叩きつけた。茨の草むらに落ちた男の絵が開いていた。
「できない」
口を開き、叫んだ。男はぐらりと椅子へと腰掛けた。少女はゆっくりと鉄の腕で本をがっちりと掴む。
「もしかして、読めないの」
頷いただけで目を逸らした男は、目を瞑った。焼き付いた文字は、彼から離れることなく張り付いていた。
「むかしむかし、ある夫婦がおりました。夫婦は長い間、子供がほしいほしい、と暮らしていました」
声に目を向ければ、少女は鉄の腕で本を掴み読んでいた。
「何があったか知らないけど、これくらいならしてあげるよ」
だからそんな顔しないで、そうとだけいうとまた朗読に戻った。男は情けなさそうに縮こまりながら、少女を見た。
コバルトブルーのパシャマに、茶色い目がくりくりと動いている。茶色いボブカットが病院の照明で白く光った。動いている唇は細く人形のようだが、その朱は明らかに血の通った結果だった。
すっと気分が楽になっていく。こうして自分以外の人間、それどころか生き物と触れあったのはいつ以来だろうか、少なくともこのコロニーについてからはほぼないと言っても良かった。少女の顔を風景を眺めるように、ぼうと見つめると、その風景が急に怒った。
「……ちょっと聞いてんの」
「あ、うん」
じろじろと顔を見ていたことに気がついて、じっとこちらを見つめてくる。すると足音がこちらに近づいてくる。病院にしてはどたどたとして音だと、男は思った。
「看護婦よ」
さっと顔を逸らし、本をしまった。
談話室に備え付けてあるテレスクリーンの窓のスイッチを入れるとギアナ高地の現在時間の映像が出た。
環境局放送部の特集らしいが、いつもやっていることは変わらない。噴き上がる作り物めいた青い煙とほじくられた巨大な穴が見えて、資源をいかに人類がどん欲に地球から奪ったか、ナレーションは語っている。それが事実かどうかは分からないが、時折差し替えられる。もとあった自然の風景は綺麗だった。
看護婦はその映像にも彼らにも気を取られることなく、培養花をただ並べた。定期的に変えるのが義務なのだろうが、彼女自身はそれほど重要に思っていないようで、花瓶のただ中身を変えるだけだった。赤い、たくさんの花がついたような物に変わった。
似たような形の花を見たことがあった。確か、黄色で故郷の畑の近くにたくさん生えていた。土手を埋めるように咲き誇っていたその花たちはなんと言っただろうか。
看護婦は彼の顔など見ずに、少女だけをじろっと見た。そしてテレスクリーンの中の時間を指した。
「さあ、そろそろお時間ですよ。戻りなさい」
少女は片目をつぶって口の先をとがらせた。仕方なし、そしていやいやと言った様子で立ち上がると、男は固い鉄の腕を振った。銀色と黒の無骨な腕ががちゃりと鳴る。
「またね」
「ああ、また」
それだけ言い合うと二人は別れた。
彼女は一体なぜ、こんなところにいるのだろうか。じっと赤い花を見つめた。ぱっとそれが散るようなイメージが湧く。彼女もこんな風になってしまうのだろうか。
だが、この花とあの花は違う。人の手で作られた児戯の花と変異した花。もちろん故郷の花はもっと違っている気がする。
「そうだ、菜の花はもっと、暖かい黄色だ」
男は自分でも気付くことなく、そう言った。スクリーンは相変わらず、ギアナ高地を写していたが、空だけは真っ青のままだった。




