砕けよ天蓋
手術の日には、雨は止んでいた。偽物の太陽であっても、晴れているのはうれしかった。
その憂鬱な雰囲気はたった一人だけが纏っていた。三日月がこんなにいい日差しの日にもあるというのは、気分のいいことではない。
「行きましょうか」
男は三日月のにたにた笑いに動じることなく頷いた。三日月の目が片目だけ開いた。怪訝な顔というには疑いの薄い表情で戸惑うような様子であった。
カミソリや病院で使った日用品一式を鞄に背負い、誰とも挨拶することなく出て行く。もちろん見送りの言葉もない。煩わしさもなければ、暖かみもない。だから、病院そのものを有機素材で作らなければならなかったではないか。もっともそれが効果がないと設計者は知っていただろうが。
廊下には、看護婦が寝台を動かしていた。そこには少女が横になって、不安げな顔でこちらを見ていた。
「さよなら、ですネ」
男と少女は頷いただけで、お互いの顔は見なかった。
あの看護婦が一礼して去っていく。古くさい車輪付きの台は予想に反して音もなく滑るように移動していく。鱗のような材質の割にはきちんと吸音するようだ。少なくとも機械相手には。スーッと通り過ぎる白い寝台を男はずっと見ていた。三日月はじれったそうに男の肩を叩くが、無視した。
もういいだろう。見えなくなってから、何人かの患者が杖をついて通り過ぎてから、三日月に向き直った。彼にせかされて男が白い床を歩くと、軟らかい感触と鈍い足音だけが辺りに響いた。玄関では黄色い公用車が鈍い光を発していた。ばらばらと深い緑色のつなぎを着た男達が出てきた。清掃局の面々もいまだにいるようだ。
その車の後ろから電気エンジンの唸りが響き、大型の車は彼らを巻き込んで吹き散らした。すぐそこに病院があるしそうそう死なないだろう。そう思いながら、駆け出した。
「待ちなさい」
戸惑いに上擦った声が男の横手から漏れた。三日月は目を見開いて、口を情けない三角にゆるく開いていた。その顔が情けなくて、見つめていた男は顔を緩めた。
「これでもくらえ!」
カミソリを嫌らしい口に目掛けて投げつけた。悲鳴に振り向かず駆け抜けた。大型の車両から、機械の義腕だけが飛び出した。男はそれを握って黄色い車両の窓をたたき割って入った。青と白のコードを引っ張りだしてプラグにつないだ。ライトがちかちかと付き、義腕のファンが唸り、熱い空気が吹き出した。ネットワークに放置してあった車用のハッキング・ソフトを起動させているのだろう。暇人の偉大な技術には感嘆させられた。啓蒙局が作った新型ファイアウォールでも砂糖菓子のように砕いてしまう。
玄関とは逆側に近い部屋の窓も同じように鉄の腕が叩き割った。バラバラと飴細工のようにガラスが飛び散ると少女が窓枠を越えた。さすがに仲は良いらしく、車の義手は目覚ましのように鳴った。ハッキングは成功したのだ。二人は乗り込むとアクセルを思い切り吹かして、いくつも病院を置いてきぼりにして、廃工場の群れを振り払った。
工事途中の道路を啓蒙局権限を行使して悠々と抜けると、白く輝く物が目に突き刺さった。本物の太陽は真上にあるような錯覚をおぼえるほど、高く上っている。




