叫ぶは、ただ人なれば
彼に課されたのは出口への道案内だけで、この一週間ずっと道順を思い出していた。言語関連をピンポイントで破壊されたが、立体的なもののとらえ方は残っている。こんな無駄に高い技術を、ただ言葉を奪うだけに使う医者はどうかしているとだけ、本を眺める度に男は思った。
言葉を奪われた男は、脱出の計画はほとんど少女に任せっきりだった。ほぼ毎日のように会って、打ち合わせはしたのだが、頷くと否定以外の意見はなかなかできない。
外ではめずらしく雨が降っていて、全身の継ぎ接ぎがむずむずしてずっと雨に濡れているように気持ちが悪かった。だるい感覚が筋肉を弛緩させ、出された病院食も手をつける気にならなかった。病室も個室化が進み、ここには誰もいない。男は外を見たくてのろのろと立ち上がった。この部屋に窓はない。玄関先まで歩くのは億劫だが、何もしないよりはよかった。
「こんにちは」
ノックと同時に開いたドアには、半笑いの男が立っていた。三日月型の笑い方と毒々しいほどの赤い口内はもはや怪物じみたものに見える。
脳の表面がずきずきと痛み、啓蒙局という言葉がはっきりと浮かんだ。社交辞令の挨拶が病室の中にむなしく響くが何を言っているのか男には分からない。ただ三日月の笑い顔だけが彼の目に染みついていた。三日月は細く広がり、そして、首から飛びかかるように乗り出した。
「本題は簡単。退院後のことですヨ。公共機関もアフターサービスしなければならくてネ」
赤い紙をさっと取り出した。デスク用のホログラムペーパーだ。窓の代わりに掛かっているテレスクリーンに貼り付けるだけで表示が浮かび上がり、部屋の真ん中に工場の映像が出る。人間の手や足などを模造した透明な生体素材をパッケージしている様子が見て取れる。生体素材の制作が主な仕事だと、事務的に説明し終えた啓蒙局員は笑みを深めた。
「それで、ですネ、退院は三日後にしましたヨ」
口の両端は黒々とした赤色が重なっていて、深く裂けた笑いが気分の悪い物だった。あの子の、手術の当日をあなたの退院日に併せるなんて、なかなか面白そうじゃないですかネ。そうとだけ言うと、さっと三日月は消えていった。気味の悪い赤色だけが男に残った。
男は間延びした風に体を起こした。
継ぎ目がかゆみに似たうずきを発しては男を刺激した。だが、それよりもあの三日月が残した紙と口の赤い色が目の奥でじくじくと痛んでいた。かさぶたを引きはがしたなら、こんな風になるのではないだろうか。男は、そのまま立ち上がり、外を見に行った。ただ、当初の通り、行動を起こしただけだった。なぜ、立ち上がってそんなことをしようとしたのか、そんなことも思い返さないまま、ゆっくりと白い床を蹴った。固い弾力のある感触があの矯正院の出来事を歩く度に思い出させた。
玄関から出ることはとがめられはしなかった。病院とはいえ、別段人の命を重んじているわけでもない。自殺でもしたなら、適当に代替器官とナノマシンで足りない部分を足してしまえばいい。むしろ人間はクリーンな代替器官へ付け替えることによって環境を汚さず、医療も簡単になる。そんな考えも異常だと思われないのが、コロニーというものだった。
雨は降っていないが、人工的に作られた雨雲が上にかかっていた。こういう天気は大概、人工太陽の整備をするために作られる。そのため、雨より時たま落ちてくる工具の方が気になってしまう。雨は直撃を受けたぐらいでは死なないが、ペンチやスパナや、人工太陽は時折、再生も出来ない重症を与えてくれる。
ほとんど車の止まっていない駐車場がすぐそこに見え、同じように車の走っていない道路が見える。区画表示板がここから見える信号機の下にぶら下がっていた。彼の住んでいた閑散とした区画とは隣り合っているようだった。夜な夜な運ばれてくる患者達の中に自分をひき殺そうとした連中もいたのかもしれない。
病院の壁に沿うように木製のように色を模造したベンチがあり、あの少女が座っていた。義手から青と白のコードを携帯端末に繋いで、何かを虚空に打ち込んでいた。寝間着の上から鮮やかな赤いコートを羽織っていて、その赤色が今日は目にいたかった。
「珍しいね、外に来るなんて」
網膜に浮かんでいるであろう、キーボードの作業をやめて男の方を向いた。目が疲れたのだろう、猫のように目を細めて茶色い目をパチパチさせた。フリーのハッカーってすごいのね。そう言った少女の声は遠くに聞こえる。
「ごめん、ばれた」
ぱらぱらと雨が降り始め、周囲の温度が下がり始めた。
「啓蒙局、三日月、笑う、無理」
まとまらない言葉はそのまま口をつくように吐き出された。
赤い紙を少女に押しつけ、下を向く。ベンチにはきちんと屋根があり、雨を遮ったがじとじととした寒気までは防がないようだった。少女は携帯端末についた小さなテレスクリーンに貼り付けると、網膜に浮かび上がったようで虚空をしばらく見上げた。視線の先には曇天と雨粒だけが浮かんでいる。
「大丈夫だって」
元より啓蒙局が感知しない方が難しいのだ。彼らの監視はあらゆる所にある。プライベートという考え方はコロニーの覗き屋達には理解できないから、と少女は呟いた。なんとかなるから安心して、と彼女は義手を彼の目の前に突きつけた。鉄の指先から彼の網膜へ青い光が投射された。網膜には簡単な図によって事前の作戦が示されていた。
「この子達が手伝ってくれるから」
少女は鉄の腕で赤い紙を握り、磨り潰した。ばらばらと崩れたものをもう一度丸め、空に投げかけると赤い色が散った。
「古いおまじないにさ、晴れを呼び込む奴なかったっけ」
男の古い記憶から、靴を投げるということだけが引き出された。どうして晴れになるのか、なぜそういうおまじないが出来たのか、彼は詳しくは知らない。ただ、靴の方向が重要だとだけ、苦しげに彼女に伝えた。
少女は病院のスリッパを義腕で握り、道路の方へ放り投げた。義腕の出力を最大にしたのだろう。軽いはずのスリッパはすぐに見えない所まで跳んでいった。
そして、少女はただ叫んだ。何日分も溜め込んだ苛立ちと出て行きたいという心が掠れた高い声になった。ウワァァァア、という獣にも機械にも出せない音が辺りに響いた。男も一緒になって叫んだ。どこまでも人間は生き物なのだと、男は思った。
ウォンウォンと狭苦しいドームに響き、どこまでも遠くへ伝わりそうにも二人には思えた。
少女はスリッパのない脚を振ながら、片足で跳ねようとする。だが、バランスの悪い彼女の身体では右の方に倒れそうになる。
「肩かしてよ」
少女はじっと男を見た。彼は頷いて彼女に近寄った。




