沙希の過去
翌朝も、頬に走る衝撃と共に始まった。
パァン!
乾いた音が狹い宿屋の部屋に響き渡る。俺の意識は一瞬で現実に引き戻された。目を開けると、視界いっぱいに市橋さんの顔があった。いや、正確には俺の顔が市橋さんの胸に埋まっている状態だった。
「朝だぞ、変態。私の胸は抱き枕じゃねえって言ってるだろ!」
市橋さんの声には怒気が含まれていたが、その瞳の奥には最早慣れとも諦めともつかない光があった。俺は言い訳しようと口を開きかけた。
「い、いや! これは不可抗力というか! 市橋さんが温かいから自然法則に従って寄っていっただけで!」
「自然法則で他人の胸に抱きつくな!」
俺は慌てて身を離し、赤く腫れた頬をさすりながらベッドから転がり落ちた。毎朝のこととはいえ、この目覚めは精神的にハードだ。だが、不思議と嫌ではなかった。彼女の拳(あるいは平手)が俺を起こしに来るということは、俺たちが同じ空間で生きているという実感だからだ。
「おはよう、市橋さん」
「…おはよう、オタク」
彼女は少しだけ呆れたように、でも悪い気はしていない風に呟き、ベッドから降りた。
今日もゴブリン狩りだ。スライムだけでは生活費と宿代で赤字ギリギリだが、ゴブリンの魔石なら何とか黒字を維持できる。ただ、休みを作る余裕はない。毎日がサバイバルだ。
俺たちは身支度を整え、宿を出た。朝の空気は冷たく、肌を刺すようだが、これから動くことを思えば心地よい。
「市橋さん、今日も頑張りましょうね」
俺が声をかけると、市橋さんは歩きながら少しモジモジとした素振りを見せた。
「…オタク」
「え?」
「じゃなくて、その…」彼女は顔を赤らめ、前を向いたまま早口で言った。「沙希でいいぞ」
「えっと、市橋さん?」
「だから、市橋じゃなくて沙希って呼べって言ってるんだよ!」
怒鳴るように言うが、その声はどこか照れくさそうだ。俺の心臓は跳ね上がった。名前で呼ぶ。それは友達、いや、それ以上の関係への入り口だ。
「は、はい! 沙希さん!」
「さんはいらねえよ! 沙・希だ!」
「沙希…さん?」
「…まあいいよ、今は」
彼女はフンと鼻を鳴らしたが、口元は少し緩んでいた。俺たちは並んで城壁の門をくぐった。今日もゴブリンの群れが待っている。
森の入り口に達すると、早速反応があった。緑の肌の小柄な影が、木陰から数体現れる。俺は即座にアビリティサイトを発動。
【投擲LV1】【棒術LV1】【短剣LV1】
LV1ばかりだが、数は多い。俺はギフトテイカーを発動し、一気に奪い取る。ズルリという感覚と共に、ゴブリンたちの動きが鈍る。そこへ沙希が走った。異空間から剣を呼び出し、一閃。三人のゴブリンが音もなく崩れ落ちる。美しい連携だ。
俺たちは森の浅瀬を徘徊し、見つけるたびに狩りを続けた。一日で三十体ほど倒しただろうか。俺のステータスは着実に更新されていく。
投擲LV2 4/10
棒術LV2 5/10
短剣術LV2 4/10、LV1 2/3
LV2のスキルが揃ってきた。LV3への道筋が見えてきたぞ。
「沙希さん」俺はゴブリンの魔石を拾いながら言った。「棒術か短剣術、どっちか持っておきませんか?」
「じゃあ、短剣術もらっておくよ」
沙希が俺の前に立ち、目を閉じた。「…頼むぞ」
素直だ。可愛い。俺はドキドキしながら彼女に近づき、唇を重ねた。舌を絡め、唾液を交換する。スキルが移動する感覚がした後も、少しだけ名残惜しくて、唇を離すのが遅れた。沙希はハッと目を開け、顔を真っ赤にして俺を小突いた。
「…終わったなら離れろ!」
「は、はい!」
これで沙希さんにも短剣術LV2が追加された。沙希さんは異空間にしまっていた予備の短剣を取り出し、腰にさした。
夕暮れ時、俺たちはギルドに戻った。ギルドの前は、またもや騒がしかった。元クラスメイトたちだ。三十人の集団が受付に群がっている。
「おい! これ全部で銀貨五枚かよ! ふざけんな!」
「俺たちは王様に期待されてるんだぞ! もっとまともな依頼よこせ!」
彼らは文句を言っていた。見ると、彼らの鎖帷子や金属の小手は、あちこちが凹み、血と泥にまみれている。それなりの戦闘をこなしているようだが、その実入りは俺たちより遥かに少ない。三十人で分ければ一人当たり銅貨数枚。装備の修繕費すら賄えないだろう。
俺たちは彼らに見つからないよう、壁際を通り抜け、別の受付で換金を済ませた。モブのステルス能力は便利だ。
宿に戻り、粗末な夕食を食べながら、俺たちは彼らについて話した。
「アイツら、制服着てなかったよな」沙希がボソッと言った。
「ああ、そういえば着てなかったですね」
「多分、城の奴らに盗られたんだよ。私たちの服は高く売れるって言ってただろ? その代わりに装備をくれたんだ。制服を奪って、安物の装備を押し付けて、奴らは損してない」
酷い話だ。だが、被害に遭っている本人たちは気づいていない。自分たちが選ばれた人間だと信じ込んでいるのだから。
「バカだよな」沙希が吐き捨てた。「自分が食い物にされてるって気づかねえなんて」
彼女の言葉には、経験からくる重みがあった。俺はふと、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「沙希さんは…」俺は言葉を選んだ。「口は悪いけど、真面目でしっかりしてるし、見た目だって…その、すごく綺麗だし。学校にちゃんと来てたら、友達だってたくさんできたはずなのに。どうして…」
沙希は箸を止め、テーブルの傷を指でなぞった。
「…ウチはな、母親しかいなかったんだ」彼女の声は低かった。「いわゆる毒親ってやつだ。生活費を入れないと、身体を売って稼いでもらうって言われてた。学校に行ってる余裕なんかなかった。バイトばかりしてたんだよ」
俺は息を呑んだ。彼女の鋭い眼光や、強気な態度の裏にあったもの。それは、守るべき自分を必死に作り上げた防衛本能だったのだ。
「酷いですね…」
「こっちに来て最初に思ったのは、やっと母親から逃げられるってことだった」彼女は自嘲気味に笑った。「魔物に殺されるかもしれねえけど、あの家よりはマシだって思ったんだ」
俺は胸が締め付けられた。同時に、強い決意が湧いてきた。
「こっちでは俺が守ります!」
声が裏返った。沙希は驚いたように目を丸くしたが、すぐにいつもの皮肉っぽい笑みに戻った。
「頼りないけど、頼りにしてるよ」
彼女の笑顔は、夜の闇の中で小さく輝いていた。
次の朝。いつものようにビンタで目が覚めた。
「私の胸は抱き枕じゃねえぞ!」
「すみません!」
俺たちは笑い合いながら、ベッドから起き上がった。今日も戦いの日々が続く。だが、もう一人ではない。俺たちの異世界サバイバルは、少しだけ温かさを帯びていた。




