↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

92/100

3-9話:眠らせに来る相手ほど、だいたい味方も寝そうになっている

 歌が、始まった。

 優しい声だった。


 甘く。

 柔らかく。

 耳へ触れた途端、身体の奥まで静かに染み込んでくるような声。


「……っ」


 コハルの膝から力が抜けた。

 背後からミクルに抱き留められていなければ、そのまま崩れ落ちていただろう。


 耳を塞ぎたい。

 けれど、本能で分かってしまった。

 塞いでも意味がない。

 これは、耳から入り込む音ではない。


 もっと深い場所。

 頭の奥。

 脳の柔らかな部分を、直接撫で回されているような感覚。


 ぞわぞわと。

 ぬるく。

 気持ち悪いのに、どこか心地いい。


 眠い。

 怖い。

 思考が、少しずつほどけていく。


「……っ、ミクル……てめぇ……」


 トキヤが低く呻いた。

 黒い魔力を纏っていた右腕が、だらりと下がる。

 足元が揺れていた。

 彼にも、効いている。


「だから言ったじゃないですかぁ」


 ミクルはコハルを拘束したまま、楽しそうに笑った。


「私の歌、味方にも効いちゃうんですよって」


「ふざ、けんな……」


「ふざけてませんよ。ちゃんと仕事しています」


 その声さえ、歌へ溶けていく。


 アスミの召喚体たちが、一体、また一体と膝をついた。

 無表情のまま。

 糸を切られた人形のように、道路へ倒れていく。

 後方のリムジンでは、助手席のアスミがぐったりとシートへ崩れていた。


「アスミさん……!」


 コハルは叫ぼうとした。

 だが、声がうまく出ない。

 喉まで眠っている。


 舌が重い。

 視界が滲む。

 レンマも、片膝をついていた。


「……耳を塞いでも駄目とか、反則でしょ……」


 それだけ言い残し、身体が傾く。

 纏っていた風が散った。

 レンマは受け身を取ることもできず、そのまま地面へ倒れ込む。


「レンマさん……!」


 続いて、トキヤが膝をついた。


「チッ……」


 悪態さえ最後まで続かない。

 黒い魔力が霧散し、その巨体が前のめりに崩れ落ちる。


 敵も。

 味方も。

 次々と眠りへ落ちていく。

 夜の道路に残ったのは、ミクルの歌声だけだった。


(まずい)


 コハルは唇を噛み締めた。


(まずい、まずい……このままだと、みんな眠っちゃう……!)


 万能の心得(フルポテンシャル)。

 発動してほしい。

 今すぐ。

 今こそ。


 けれど、駄目だった。

 身体の奥にあるはずのスイッチが、どこにも見つからない。


(どうして……!)


 理由は分かっていた。

 歌のせいだけではない。

 ミクルが、近すぎる。


 明らかな敵。

 自分を攫った裏切り者。

 それなのに。

 声は優しい。

 手は柔らかい。

 距離感だけは、まるで親しい友人のようだった。


 背中から抱き締められて。

 耳元で囁かれて。

 優しく名前を呼ばれる。

 脳が混乱している。


 この人は敵だ。


 それでも、つい先ほどまで一緒にいた。

 会話をしていた。

 笑い合っていた。

 頼れる仲間だと思っていた。

 その記憶と現実の食い違いが、コハルの身体を鈍らせている。


(敵だって……認識し切れていない……!)


 さらに強く唇を噛む。

 鋭い痛みが走った。

 口の中へ、鉄の味が広がる。

 唇から零れた血が、顎を伝った。


 それでも、眠気は消えない。


「頑張りますねぇ、コハルさん」


 ミクルが耳元で囁いた。


「そういうところ、好きですよ」


「……好きとか……言わないでください……」


「えぇ? 傷つくなぁ」


「裏切っておいて……何を言ってるんですか……」


「裏切ったんじゃありませんよ」


 ミクルが笑う。


「最初から、こちら側だっただけです」


 コハルの胸が冷えた。


 その時。

 滲む視界の端で、青白い光が弾けた。


「……え?」


 マナトだった。


 倒れていない。

 眠っていない。


 いや。

 違う。

 眠りかけている。

 意識は、ほとんど落ちている。


 それでも。

 彼は歩いていた。


 一歩。

 また一歩。


 幽霊のように身体を揺らしながら。

 青白い雷光を、全身へ走らせている。

 自分自身を感電させていた。

 筋肉が激しく痙攣している。

 皮膚の焦げる匂いが、夜風に混ざった。

 足取りは不安定で、いつ倒れてもおかしくない。


 それでも。

 確実に、コハルへ近づいてくる。


「うわぁ、怖い!」


 ミクルが明るい声を上げた。


「何ですか、あれ! 完全にゾンビじゃないですか! きゃははっ!」


「マナトさん……」


 コハルの目から、涙が零れた。

 助けに来てくれている。

 無茶をしている。

 自分の身体を壊しながら。

 眠気に逆らって。

 それでも、こちらへ来てくれている。


「……コハルさんを……」


 マナトの声は掠れていた。

 それでも、確かに聞こえた。


「離して……ください……」


「嫌でーす!」


 ミクルは即答した。

 そして、コハルを抱えたまま、倒れているトキヤへ近づいていく。


「トキヤ先輩、起きてください」


「……」


「ほら。眠気覚ましですよ」


 ミクルは片手で、小瓶を取り出した。

 中では、赤黒い液体が揺れている。


 イグニッション・ジン。

 スキルを強化する、使用禁止指定の異世界酒。

 ミクルは瓶の口を、トキヤの唇へ押し当てた。


「勇者たちの心を折ったら、副会長たちのところへ向かいますよ」


「……っ」


 トキヤの指が震えながら動く。

 ほとんど意識がないはずなのに。

 それでも、小瓶を掴んだ。

 瓶を口元へ運び、中の液体を一気に喉へ流し込む。


 直後。

 トキヤの目が、ぎらりと開いた。


「……クソまずい」


「効いたならいいじゃないですか」


 ミクルが無邪気に笑った。

 トキヤが立ち上がる。


 眠気が完全に消えたわけではない。

 呼吸は荒い。

 足元も、わずかに揺れている。


 それでも。

 黒い魔力が再び右腕へ集まり始めた。


 マナトは、なおも歩いてくる。

 ふらつきながら。

 雷光を散らしながら。


 倒れない。

 止まらない。

 コハルは涙で滲む視界の中、その姿を見つめ続けた。


(お願い……)


 声にならない願いが、胸の奥で震える。


(もう……誰も壊れないで……)


 だが。

 夜の道路へ、トキヤの低い声が落ちた。


「だったら、まず」


 黒い魔力が、指先へ集まっていく。

 圧縮される。

 空気が軋む。


「そのゾンビから潰すか」


 マナトは止まらない。

 コハルも、目を逸らせなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。