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1-9話:静かに過ごしたいのに、距離だけは縮まっていく

 マナトは、こちらをちらちらと窺っている。

 その視線だけで、コハルの心臓は跳ねた。


(無理無理無理無理! 近くにいるだけで無理なんだけど……昨日のせいだよ全部)


「俺、帰ります」


 耐えきれなくなったのか、マナトがぽつりと言った。


「帰ってください」


「何か傷付きます」


「いや、自業自得なので」


 コハルは腕を組んでそっぽを向く。

 だが、その姿勢すら不自然だった。

 落ち着いている“つもり”なだけで、内側は全然落ち着いていない。

 何より――心臓がうるさい。

 マナトを視界に入れるたびに、どくん、と鼓動が跳ねる。


(これ絶対バレたくない……バレたら終わる……何が終わるか分からないけど終わる)


「あの……ほんとに俺、何しましたか?」 


 恐る恐る、という声だった。


「いや、何も」


「この感じ、絶対してるじゃないですか」


「いや、本当に。詮索してほしくなくて」


 視線を逸らしたまま答える。

 だが、その言い方が余計に怪しい。


「たぶん俺、放電しましたよね」


「え?」


「男になったコハルさんに、電撃放ってすっきりして倒れた……ところまでは」


「………」 


(そこまでは覚えてるの!? さっき家来たところまでって言ってたのに、急に!??)


「あれ? でもコハルさん、どうして男になってくれたんですか?」


「………」


「え? もしかして、俺が無理やり男にさせたとか……ですか?」


「それ以上言わないで!?」 


「顔近付けたりとかして……あっ」


 ぴたり、とマナトの動きが止まる。

 次の瞬間、みるみるうちに顔が赤くなった。


「……マジか俺……最低すぎる……」 


 低い声で呟き、頭を抱える。


(思い出した!? いや思い出すな!? 今それは最悪のタイミング!!)


 コハルの脳内が一気に騒がしくなる。


「コハルさん、すみませんでしたっ!!」


 ガバッ。 


 勢いよく床に頭がついた。

 河川敷に続く、二度目の土下座である。


「酔った勢いでそういうことする男、めっちゃダサいなってバカにしてたくせに……俺が一番ダサいことしてました」


(この人、土下座に慣れてない?)


 コハルは思わず目を丸くした。

 そして同時に、顔が一気に熱くなる。


「い、いや……わ、分かればいいんです……」 


 声が裏返った。

 自分でも分かるくらい動揺している。

 顔を隠すように、ぐっと俯く。

 また沈黙。


「……」


「……」


 エアコンの音だけが、やけに響く。


(気まずい。さっきより気まずい。何これ最悪)


「いや、あの、俺、マジで償いますから」


 マナトが顔を上げた。


「償うって……」


 コハルが眉をひそめる。


「俺、最初は正直、面倒だなって思ってたんです。ルナから後輩ができたから面倒見てくれって言われて」


「……それで?」


 ちょっとムッとしながら聞く。


「でも、話してるうちに気付きました」


 マナトの表情が、少しだけ真面目になる。


「コハルさん、相当お人好しだなって」


「それは否めないかも……」


 反射で認めてしまった。


「それに、突っ込み面白いし……色々甘えちゃってました」


「……」


(そういう言い方やめてほしい……心臓に悪い)


「だから」


 一拍、間を置いて。


「俺と会うの、やめないでください……」


「えっ!?」


 コハルが顔を上げる。


 マナトは、まっすぐこちらを見ていた。


「まだ出会って数日ですけど、俺、楽しくて」


「……」


「コハルさんのこと、もっと知りたいし……一緒にいたいです」


(やばい。顔が良すぎる。何このタイミングでその表情)


 完全に不意打ちだった。


「ダメですか……?」


 少しだけ不安そうな声。

 その瞬間。

 コハルの理性は、あっさり吹き飛んだ。


「全然ダメじゃないよ!!」


 即答だった。

 しかも、思ったより大きい声で。


「私もマナトさんに助けられてるし……!」


(何言ってんの私!? 落ち着け!? 落ち着けてない!!)


 言い切ってから、顔が一気に熱くなる。

 だが、もう遅い。

 マナトは一瞬ぽかんとして――ふっと笑った。


「よかった……」


 その声が、妙に優しい。

 空気が、ふっと緩む。

 さっきまでの重苦しさが、嘘みたいにほどけていく。

 そのときだった。

 グウウウ、キュルルルル。


「…………」


「…………」


 沈黙。

 完全な沈黙。

 コハルは、ゆっくり視線を逸らした。


「……今の」


「俺じゃないです」


「私でもないです」


「じゃあ誰ですか」


「知らないです」


 グウウウウ。

 今度は、はっきり鳴った。


「……コハルさんですよね」


「違います」


「いや絶対」


「違いますって」


「顔見れば分かります」


「見ないでください!!」


 完全敗北だった。

 コハルは顔を覆う。


「……朝ごはんまだだし、お夕飯軽かったから……」


 言い訳になっていない。

 マナトが、くすっと笑う。


「じゃあ」


「何ですか」


「何か食べに行きます?」


「え?」


 あまりにも自然な流れだった。


「償いも兼ねて」


「それ、便利に使ってません?」


「便利なんで」


「認めるんだ……」


 コハルは少し考えて、ため息をつく。


「……行きます」


「ほんとですか」


「お腹鳴ってるのバレてる状態で断れるわけないでしょ」


「確かに」


 マナトが笑う。

 その笑いにつられて、コハルも少しだけ笑った。


(あーもう。なんか悔しい。でも)


 ――悪くない。


「……この姿、目立ちません?」


「あー……まあ、大丈夫でしょ?」


「適当すぎる!」


「戻れないですか?」


「誰のせいだと思ってんの?」


「すみません」


 そこで立ち上がったコハルの身体が、ふらりと揺れた。


「うわっ」


 昨日の電撃の後遺症かもしれない。

 踏ん張るより先に、視界が傾いた。

 次の瞬間。

 ガシッ、と腕を掴まれる。


「……大丈夫ですか?」


 マナトが、思ったよりずっと真剣な顔で支えていた。

 距離が、近い。


「……ありがとうございます」


 そう答えた、その瞬間だった。

 ぱっ、と身体が軽くなる。


「あっ」


「あっ」


 二人同時に声が漏れた。

 コハルは目をぱちぱちさせる。

 さっきまでの広い視界も、重い身体も、低い声もない。

 戻っていた。


「何か分かんないけど戻った!」


「よかったですね」


「ちょっと着替えてきますね!」


「了解です」


 コハルは逃げるように脱衣所へ引っ込んだ。

 扉を閉めた瞬間、壁にもたれる。


(近い近い近い! あの距離で真顔はダメでしょ!! 何であれで戻るの!? 仕様どうなってんの!?)


 服を脱ぎながら、ふと手が止まる。


(何か……デートっぽいな、これ……)


 その発想が浮かんだ瞬間、自分で自分に引いた。


「いやいやいやいや」


 小声で首を振る。

 浮かれそうになる自分に喝を入れるため、クローゼットから無難なシャツを引っ張り出す。

 いつも通りの、普段着。

 変に気合いを入れたと思われるのだけは避けたかった。


(まあいいか……マナトさん、作業着のままだし……)


 自分にそう言い聞かせて、着替えを終える。

 鏡を見て、深呼吸。


「よし……」


 全然よくないけど、とりあえず外見だけは整った。

 脱衣所の扉を開ける。


「お待たせしました。じゃあ行きましょうか」


 できるだけ平静を装って言う。

 マナトはソファから立ち上がって、こっちを見た。

 ほんの一瞬だけ、目が止まる。


「……似合ってます」


「え」


「いや、その……普通に」


「普通にって何ですか」


「褒めようとして失敗しました」


「失敗してますね」


 でも、少しだけ嬉しかった。

 それを悟られたくなくて、コハルはバッグを掴む。


「行きますよ」


「はい」


 玄関へ向かう。

 ドアを開ける。

 土曜の空気が、ふわりと流れ込んだ。


(静かに過ごすはずだったのに……何でこうなった?)


 それなのに。

 足取りは、昨日より少し軽い。

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