1-10話:静かに過ごしたいのに、朝ラーひとつで心臓が忙しい
外に出た瞬間、午前の空気がふわりと頬を撫でた。
天気はやたら良かった。
悔しいくらいに、平和そうな土曜日だった。
こういう日は本来、家で適当に動画を見て、昼過ぎにのそのそ起き上がって、昨日の残りの卵でも焼いて終わるはずなのだ。
少なくとも、“昨夜キスしてきた酔っ払いと一緒に外食に出る日”ではなかった。
(何でこうなった……どう考えても予定にない。人生のしおりに挟まってないイベントなんだけど)
隣を歩くマナトは、相変わらず作業着のままだった。
休日の街中に、妙に似合っているのが腹立たしい。
普通、浮くはずなのに。なぜか“そういう人”として成立している。
ちょっとずるい。
「……その格好のままなんですね」
何となく言うと、マナトは自分の胸元を見下ろした。
「着替えに帰るタイミングなかったんで」
「いや、それはそうなんですけど」
「変ですか?」
「変ではないです」
「じゃあ問題ないですね」
「問題ないとは言ってないです」
「でもコハルさん、さっきまで男だったじゃないですか」
「比較対象が強すぎる!」
即座に返すと、マナトがやわらかく笑った。
こういう時の笑い方が、いちいち自然で困る。
からかわれているのは分かるのに、嫌な感じがしないのが余計に困る。
駅前へ向かう道は、思ったより人が多かった。
家族連れ。買い物帰りっぽい夫婦。部活帰りらしい高校生の集団。
そしてその中を、自分はたぶん少しぎこちなく歩いている。
(落ち着け)
自分に言い聞かせる。
(普通に歩け!“昨日キスした人と、今日ご飯行く人”みたいな歩き方するな)
「コハルさん」
「何ですか」
「めっちゃキョロキョロしてます」
「してません」
「してます」
「してないです」
「不審者一歩手前で」
「言い方!!」
反射で言い返した拍子に、前から来た小学生くらいの子と危うくぶつかりかける。
「わっ」
「危なっ」
その瞬間、マナトがすっと腕を引いた。
肩に触れた手が近い。
距離が近い。
近い近い近い。
「……っ」
何でもないふりをしたかった。
だが、そんな器用なことができるほど、今のコハルは落ち着いていなかった。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です」
「顔赤いですけど」
「歩いてるからです!」
「今ほぼ止まってましたよ」
「細かい!!」
「そこ大事じゃないですか」
「大事じゃないです!」
「そうですか」
「そうです!!」
言い切ったあとで、自分の声がちょっと大きかったことに気づく。
近くを通ったおばさんが一瞬だけこちらを見た。
死にたかった。
◇
駅前のラーメン屋は、タイミングよく二人で入れた。
午前九時。朝ラーというやつである。
狭いカウンター席に並んで座る。
逃げ場がない。
テーブル席より物理的距離が近いの、何の罰ゲームなんだろう。
メニューを開く。
でも、内容が頭に入らない。
味噌か醤油か、そういう問題ではなかった。
「何にします?」
「……醤油」
「即決ですね」
「お腹減ってるので」
「さっきから聞いてます」
「その話いつまで擦るんですか」
「お腹が鳴った事実は強いので」
「最悪だ……」
結局、醤油ラーメン半炒飯付きになった。
「ここの炒飯、めっちゃ美味いんです。損はさせません」
「頼む気なかったんですけど」
「押し切ります」
「宣言しないでください」
「俺の奢りなんですから、遠慮なく高いの頼んだらいいんですよ」
「朝ラーでそんな豪遊する人いないです」
「じゃあ半炒飯は妥当ですね」
「押し切られた……」
なぜか当然みたいな流れで、マナトが奢ることになっていた。
(まあ……償いたいって言ってたし。ここは気持ちよく奢られておくべき、なのかもしれない)
そんなことを考えているうちに、ラーメンが来る。
湯気が立つ。
いい匂いがする。
ひと口すすった瞬間、コハルは小さく息を吐いた。
「……おいしっ」
素で漏れた。
続けて炒飯もひと口食べる。
「えっ……なにこれ……別格……」
その声に、隣でマナトが口元を緩める。
「よかったです」
「いや、あなたが作ったわけじゃないでしょ」
「でも店は選びました」
「功績を盛らないで」
「炒飯もつけました」
「そこはちょっと感謝してます」
「素直ですね」
「めちゃくちゃ美味しいので……」
しばらく無言で食べる。
その沈黙は、朝の部屋にあったものとは少し違った。
気まずいけれど、前ほど息苦しくはない。
むしろ、変に落ち着く。
(……何これ。嫌じゃないのがいちばん困るんだけど)
ふと横を見ると、マナトも黙って食べていた。
箸の持ち方が綺麗だとか、食べ方が思ったより丁寧だとか、そういう余計なことに気づいてしまう。
その瞬間。
「そんなに見られると、ちょっと食べづらいです」
「ぶっ」
危うくラーメンを吹きそうになった。
「見てません!!」
「見てました」
「見てないですって!」
「視線感じました」
「感じないでくださいよ!」
「無茶言いますね」
「何でそんな冷静なんですか!?」
「コハルさんが分かりやすいからです」
「うるさいです!!」
マナトは平然としている。
でも、口元が笑っている。
絶対、分かっていて言っている。
悔しい。
だがその悔しさの中に、ほんの少しだけ別の感情も混ざっていて。
それを認めるのが、いちばん厄介だった。
◇
「ごちそうさまでした」
「いえいえ。こちらこそ、付き合ってもらってありがたいです」
ラーメン屋を出ると、広場の方から賑やかな音が聞こえてきた。
何かイベントでもやっているらしい。
子ども向けっぽい音楽に、司会らしき人の元気な声。
「……帰ります?」
コハルが聞くと、マナトは少し考えた。
「帰ってもいいですけど」
「けど?」
「せっかくなんで、少し歩きます?」
「……」
その言い方は、かなり危なかった。
いや、危ないどころではない。
ほぼそれだった。
だが、そこを正面から受け止めた瞬間、こっちが終わる。
「……別に、いいですけど」
「ほんとですか」
「ラーメン食べてすぐ帰るのも、不健康ですし……」
「普段、運動とかするんすか?」
「全然……」
「俺はジム通ってますよ」
「偉いなぁ……」
(確かに、腕とかも程よく筋肉ついてるし……モテそうな身体つきしてるよね)
――と、考えたところで、コハルはぶんぶん頭を振った。
(やばいやばい!! また変なこと考えそうだった!)
そのまま駅前の広場をぐるっと回るように歩き出す。
休日の空気は柔らかくて、ちょっとだけ眠くなるような心地よさがあった。
だが、その平和は長く続かなかった。
「コハル〜!」
「……え?」
嫌な予感しかしない呼び方だった。
聞き覚えのある、妙に明るい声。
振り向くと、そこにいたのは――
「ノア!?」
「やっほー!」
高峰ノアが、ショップバッグ片手に満面の笑みで立っていた。
死にたかった。
「何でいるの!?」
「何でって、普通に買い物」
「よりによって今日!?」
「土曜なんだから、そりゃいる日もあるでしょ」
「そうだけど!」
「あれ、その人」
ノアの視線が、すうっとマナトへ向く。
そして一秒で、目が輝いた。
「やっぱりあの時の作業着の人!!」
「終わった……」
「終わってないです」と、マナトが冷静に言う。
「いや終わってるんですよ、私の中で!」
ノアはずいっと距離を詰めてきた。
「へえー。へえー。そっかー」
「その“へえー”やめて」
「今日は長身さんいないんだ」
「ひぇ!!?」
「じゃあつまり、今日は二人きり?」
「何で確認するの!?」
「大事じゃん」
「大事じゃない!」
マナトが横で肩を震わせた。
笑っている。
この状況で。
信じられなかった。
「マナトさん、ですよね?」とノアが当然のように言う。
コハルが固まる。
「何で名前知ってるの!?」
「昨日コハルのスマホから、ちょっとだけメッセージ画面見えた」
「最低!!」
「事故! 事故だから!」
「事故で人のプライバシー踏み抜かないで!」
「いやーでも納得した。コハルが最近挙動不審なの、この人のせいか」
「ち、違うからっ!!」
「いやだって明らかにそうじゃない」
「ノア!!」
「だって今も顔赤いし」
「気のせい!!」
「いや真っ赤だよ」
「見ないで!!」
「その距離感は交際までもう少しって感じ?」
「変な考察しないでっ!!?」
コハルは本気で顔を覆った。
もう無理だった。
静かな週末どころか、普通の外食すら成立していない。
その時。
ノアがふっと真面目な顔になった。
「……でもさ」
「何」
「その人、ちゃんと良さそうな人だね」
「え」
予想外の言葉だった。
コハルだけでなく、マナトまで目を丸くする。
「コハル、変なとこで無理するから」
ノアはショップバッグを揺らしながら続ける。
「こういう時、ちゃんと隣に立ってくれる人のほうがいいよ」
「……ノア」
「まあでも」
次の瞬間には、いつもの顔に戻っていた。
「詳しくは今度ちゃんと聞くけど」
「台無し!!」
「じゃ、私は空気読んで消えるわ」
「最初から読んで!?」
「あとひとつだけ」
ノアはにやっと笑って、マナトを見た。
「この子、恋愛ほんとに不器用なんで。引っ張ってあげてくださーいっ」
「ちょっと!?」
「じゃあねー!」
最後まで好き勝手言って、ノアは本当に去っていった。
残されたのは、コハルとマナト。
そして、気まずさの何倍も気まずい沈黙だった。
「……」
「……」
「……すみません、今のは」
コハルが先に口を開く。
「勘違いされちゃいましたね」
マナトはそう言って、少しだけ笑った。
「ご、ごめんなさいっ!!迷惑でしたよね!!?」
「いや」
真っ直ぐにコハルを見つめるマナト。
「そんなふうには思ってないですよ。全然」
「えっ!?」
「俺、コハルさんといるの、楽しいですから」
「……」
途端に、何も言い返せなくなった。
コハルは両手で顔を覆う。
もう本当にだめだった。
今日ずっと心臓が働きすぎている。
「……コハルさん」
「何ですか……」
「勘違いされるの、嫌でした?」
「は?」
「いや、コハルさんはどうだったかなって……」
その言い方が、少しだけ弱かった。
珍しく、自信がなさそうで。
だから、反射で出てしまった。
「全然問題ないです!!」
また大きな声だった。
コハルは我に返って、はっと口を閉じる。
だが、もう遅い。
マナトは僅かに目を見開いて、それからふっと笑った。
「……それなら、よかったです」
その声が、妙に優しかった。
「でも」
「……」
「今の聞いて、安心しました」
その言い方が、あまりにもまっすぐだった。
「コハルさんが、俺と歩いてるの嫌じゃなさそうで」
「……」
「俺だけ嬉しいわけじゃないのかなって、思えたんで」
反則である。
ラーメンの時から思っていたが、この人はたまに急に直球を投げてくる。
しかも避ける暇がない。
「……嬉しいですよ」
「ほんとですか?」
「え、あ」
「……」
「はい」
「え」
「いや違う、今のは!」
「どっちですか」
「知らないです!!」
マナトが吹き出した。
その笑いにつられて、コハルも笑ってしまう。
もう認めるしかないのかもしれなかった。
静かな週末は壊れた。
予定はぐちゃぐちゃだ。
心臓はうるさいし、ノアには遭遇するし、たぶんこの先も平穏ではない。
でも。
隣にいるのがマナトなら、
それはそれで少しだけ悪くない――なんて。
そんなことを思ってしまう自分が、
いちばん腹立たしかった。
「……で、これからどうするんですか」
コハルが聞く。
マナトは数秒考えてから言った。
「コーヒーでも飲みます?」
「ラーメン食べたばっかりで?」
「じゃあ散歩の続き」
「さっきからやってるでしょ」
「じゃあ」
一拍置いて。
「もう少し、一緒にいます?」
「……」
コハルは答えない。
答えられない。
でも、沈黙のまま、足だけは止まらなかった。
マナトも、何も急かさなかった。
ただ隣に並んで歩く。
土曜の空はやたら明るくて。
休日の街はうるさいのに、なぜか今だけちょっと静かに感じた。
(ほんとに。静かに過ごすはずだったのに)
でも。
たぶん、もう少しだけなら。
この予定外も、悪くない。
コハルは小さく息を吐いて、そっぽを向いたまま言った。
「……少しだけですよ」
「はい」
「ほんとに少しだけ」
「分かってます」
「分かってなさそう」
「じゃあ、かなり少しだけで」
「何その言い方」
「気分です」
「適当だなあ……」
そう言いながら。
コハルの足取りは、やっぱり少しだけ軽かった。




