1-11話:少しだけ歩くだけのはずが、だいたい平穏のほうから先に逃げていく
少しだけ。
かなり少しだけ。
そう言ったはずなのに、気づけば駅前の大通りを外れ、川沿いの遊歩道まで来ていた。
木が並び、ところどころにベンチがある。
昼前の空気はゆるやかに流れ、家族連れや犬の散歩をしている人の姿もちらほら見えた。
さっきまでの駅前より、ずっと静かだ。
こういう場所なら、たしかに“少し歩く”にはちょうどいいのかもしれない。
――隣にいるのが、昨夜キスしてきた酔っ払いでなければ。
(ほんと、なんでこうなった!? 何で朝ラーのあとに川沿い散歩してるの……? イベントの密度どうなってるの!?)
「どうしました」
「えっ」
「さっきから、三歩に一回くらいため息ついてます」
「そんなについてないです」
「ついてます」
「気のせいです」
「じゃあ、俺の耳がいいんですね」
「便利な体質だな……」
コハルはそっぽを向いた。
その横で、マナトがわずかに笑う気配がする。
こういう、笑ってるのか笑ってないのか分からない微妙な笑い方が、いちいち腹立たしい。
でも、嫌じゃないのがもっと腹立たしかった。
「コハルさん」
「何ですか」
「少し落ち着きました?」
「……朝ラー食べる前よりは」
「よかったです」
「でも、まだだいぶ心臓に悪いです」
「何がです?」
「全部です」
「広いなあ」
「広いですよ」
言い返しながら、コハルは小さく息を吐く。
風が少し涼しい。
歩いているだけなら、たしかに悪くない。
その時だった。
ぞく、と背筋に変なものが走った。
「……え」
足が、ぴたりと止まる。
「どうしました」
マナトも足を止めた。
遊歩道の先。
木陰のベンチに、ひとりの男が座っていた。
黒いパーカー。
フードを深くかぶっていて、顔はあまり見えない。
季節外れというほどではない。
休日の遊歩道にいても、おかしくない格好だ。
なのに、妙だった。
こちらを見ている。
しかも、ただ見ているだけではない。
品定めみたいに。
値踏みみたいに。
獲物を確認するみたいに。
そういう視線だった。
「……マナトさん」
「はい」
「前の人、何か嫌な感じしません?」
その瞬間、マナトの空気が変わった。
さっきまでの柔らかさが、すっと消える。
表情そのものはほとんど変わらないのに、空気だけが一気に冷えた。
「コハルさん」
「え」
「俺の後ろに」
「え、何――」
言い終わる前だった。
ベンチの男が、ゆっくり立ち上がる。
そしてその足元から、ぬるり、と黒いものが広がった。
「は?」
影ではなかった。
液体みたいな。泥みたいな。
けれど、どう見ても普通の何かではない黒い塊が、地面を這うようにこちらへ伸びてくる。
「うわっ!?」
コハルが反射的に下がる。
ついさっきまで立っていた場所を、黒い塊がびしゃっと打った。
アスファルトが、ばき、と嫌な音を立てる。
「な、何今の!?」
叫んだコハルの前に、マナトが一歩出た。
「ああ」
ものすごく平坦な声で、マナトが言う。
「帰還者です」
「帰還者って、あんな感じで襲ってくるの!?」
「人によります」
「人によるの幅が広すぎる!!」
黒パーカーの男が、喉の奥で笑った。
顔を上げる。
四十歳前後くらいだろうか。痩せていて、目の下に濃い隈がある。
いかにも寝てなさそうな顔なのに、目だけが妙に爛々としていた。
「へえ」
男が口元を歪める。
「金色マナト――会いたかったぞ」
にたり、と笑う。
歯の見え方が嫌だった。まるで獲物を刈り取る獣みたいだった。
「ずっと探してたんだぜ」
その目つきに、コハルは思わず身震いする。
「……知り合いですか?」
「知り合いというか」
マナトが言葉を探す。
「何度か取り逃がしてます」
「冷たいなあ」
男は肩をすくめた。
「こっちは会いたくて仕方なかったのに」
そう言いながら、指先をくい、と動かす。
すると黒い泥が生き物みたいにうねり、蛇みたいに細く伸びたかと思えば、またどろりと膨らんだ。
完全に、日常にいていいものではない。
「え、ちょっと待って」
コハルは半歩下がりながら言った。
「何でそんな普通に会話してるんですか!?」
「大丈夫です、格下なんで」
「全然大丈夫そうに見えないんだけど!?」
「ルナとは別の女神経由ですね」
「別経由!?」
「魔王討伐が難しいと判断されると、途中で戻されるんですよ」
「途中で帰して貰えるもんなの!?」
「そうらしいです」
そこで説明は切れた。
マナトはそれ以上、あまり喋らなかった。
代わりに、男のほうが笑う。
「半端者、って言いたいんだろ? ほんと感じ悪いな、お前」
「そんなことないですよ」
「憐れんでるんだろ?」
男の笑みが、すっと薄くなる。
「でもな。半端でも、死にきれなかったやつはしつこいんだよ」
その言い方が、少しだけ怖かった。
軽口のままなのに、底のほうだけ粘ついている感じがする。
視線が、またコハルを舐めるように動く。
「そっちの女、妙だな。匂いが違う」
「見ないでください」
思わずコハルが言うと、男は楽しそうに目を細めた。
「やっぱりな。珍しい。上物だ」
「言い方!」
「コハルさん」
マナトの声が落ちる。
落ち着かせるような、低い声だった。
「下がってて」
「でも」
「大丈夫なんで」
その言い方が、妙にいつも通りだった。
だからこそ逆に、コハルはぞっとする。
この人、たぶん“ちょっと危ない”くらいじゃこういう声にならない。
男が首を鳴らした。
「今日こそ、お前を殺す」
「アンタじゃ無理だと思いますよ」
「やってみなきゃ分からんだろうが!!」
次の瞬間、黒い泥が一気に跳ねた。
「うわっ!!」
コハルが声を上げるより早く、マナトの右手が上がる。
ばちっ。
青白い火花が散った。
それだけで、空気がびりっと震える。
黒い泥が雷に触れた瞬間、弾けて散った。
「え」
コハルが目を見開く。
今、何かとんでもなく自然に、すごいことが起きなかったか。
だが、驚いている暇はなかった。
男が舌打ちし、今度は左右から黒い塊を放つ。
さっきより明らかに速い。
「ちょ、マナトさん!!」
「大丈夫です」
その瞬間。
ばちばちばちっ、と連続で火花が散る。
雷が網みたいに広がって、左右から来た黒い塊をまとめて焼き切った。
焦げた匂い。
風に舞う黒い煙。
男の目つきが変わる。
「……やっぱ面倒だな、お前」
「俺もそう思ってます」
その返事と同時に、マナトが一歩踏み込んだ。
速い、と思った時にはもう近い。
ついさっきまでコハルの隣にいたはずなのに、次の瞬間には男の目の前にいる。
「は?」
男が反応しきる前に、マナトの手がその胸元を掴んだ。
「終わりです」
「っ、待――」
ばちん、と音がした。
いや、“ばちん”では済まない。
青白い閃光が一瞬だけ走って、男の身体がその場で硬直する。
「が、……ッ」
喉の奥で変な音を立てて、男が膝から崩れ落ちた。
黒い泥が、一斉に消える。
「…………」
静かだった。
あまりにも一瞬すぎて、コハルの脳が全然追いつかない。
「え?」
ようやく出た声が、それだった。
マナトは倒れた男を見下ろしている。
呼吸ひとつ乱れていない。服もほとんど乱れていない。
ついさっきまで朝ラーの炒飯を勧めていた人と、同一人物とは思えないくらい静かだった。
「何今の!?」
「え」
「いや、え、じゃなくて!! 何今の!?」
「ああ」
マナトが振り返る。
「帰還者です」
「それはさっき聞いた!! そうじゃなくて、そのあと!!」
「瞬殺ですか?」
「自分で言うんだ!?」
「いや、まあ……そうですね」
「そうですね、じゃないのよ!?」
コハルは半歩、いや一歩下がった。
怖いわけではない。
でも、さっきまで知っていた“ちょっと不器用で、酔うとやらかす帰還者の先輩”の輪郭に、急に別の何かが重なった気がしたのだ。
「……マナトさん」
「はい」
「強くない?」
「まあ、そこそこ」
「そこそこ!?」
マナトはそこで、困ったように笑った。
「怖がらせました?」
「いや……」
コハルは言葉に詰まる。
怖い、とは少し違った。
ただ単に、情報量が多すぎる。
朝ラーを奢ってくれて、
炒飯を勧めてきて、
ノアの圧にも静かに耐えて、
そのあと散歩してた相手が、
帰還者を三秒くらいで無力化したのである。
脳が追いつくわけがない。
「……ちょっとだけ」
「すみません」
「謝るんだ……」
「でも、あの人は放っておくと面倒なので」
「いや、それはもう見れば分かるけど……」
地面に倒れている男を見下ろす。
ぴくりとも動かない。
「……死んでないですよね?」
「気絶です」
「ほんとに?」
「加減はしました」
「加減してあれ?」
「しました」
「怖いなあ……」
コハルが本音を漏らすと、マナトは目を伏せた。
「……すみません」
「いや、だから何で謝るの」
「あなたの前で、あんまりこういうの見せたくなかったので」
「……え」
「普通に歩いて、普通に帰したかったんですけど」
その言い方が、あまりにも自然だった。
コハルの心臓が、また変な跳ね方をする。
(いやいやいや!! 今それやめて!? 戦闘の直後にそういうこと言わないで!!)
「……っ」
胸の奥がどくんと鳴る。
まずい、と思った瞬間。
「うわ」
「どうしました!?」
「いや、ちょっと、今それだめ……!」
「え?」
「心臓が!うるさい!」
コハルは顔を覆った。
さっきの戦闘で落ち着くどころか、別方向に乱されている。
マナトが一瞬だけ黙って、それから小さく息を吐く。
「……それ、もしかして」
「言わないでください!!」
「まだ何も言ってないです」
「分かるから!何言おうとしたか分かるから!!」
すると、その時。
「ぅ……」
足元で男が呻いた。
「うわ、生き返った!?」
「死んでないですって」
マナトは即座に男のほうへ向き直る。
その切り替えが早い。
「帰ってもらいます」
「気絶してる相手を!?」
「起きたら面倒なので」
そう言って、マナトは男の襟首を掴んだ。
完全にゴミ袋を運ぶテンションである。
「ちょっと待って、その処理の仕方ある!?」
「あります」
「あるんだ……」
マナトは男をずる、と引きずりかけて、ふと止まった。
「コハルさん」
「何」
「少しだけ、ここで待っててもらえます?」
「いや、怖いんだけど」
「すぐ戻るんで」
「その“すぐ”信用していい?」
「かなりすぐです」
「何その言い方」
「気分です」
「うつってる……」
そう言っているうちに、ちょっとだけ笑ってしまう。
こんな状況で。
こんな状況なのに。
笑ってしまった自分に、コハルは驚いた。
マナトはそんなコハルを見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「大丈夫です」
「……何が」
「コハルさんは、俺が守りますから」
その言い方が、妙に頼もしくて。
でも妙にずるくて。
コハルは顔をそらした。
「だから、怖がらなくて大丈夫です。すぐ戻ります」
「……じゃあ、本当にかなりすぐでお願いします」
「はい」
そうしてマナトは、気絶した帰還者を引きずって歩き出した。
休日の遊歩道に、あまりにも似つかわしくない光景だった。
「……ほんと、何なのこれ……」
コハルはぽつりと呟く。
静かに過ごすはずだった土曜日は、とっくにどこかへ消えた。
朝ラーを食べて、
ノアに遭遇して、
少しだけ散歩するはずが、
帰還者に襲われて、
その帰還者をマナトが瞬殺して、
今そのマナトが敵を引きずっている。
意味が分からない。
でも。
意味は分からないのに、ひとつだけはっきりしていることもあった。
「……マナトさん、思ってたよりずっと危ない人かも」
低く呟いてから、首を振る。
「いや、違うな……」
危ない、ではなく。
「……思ってたよりずっと、頼りになる人……かも」
そう言った瞬間、自分でちょっとだけ恥ずかしくなって、コハルは慌てて顔を覆った。
どうやら次に本気で攻略しなければならないのは、
襲ってくる帰還者でも、
女神の後出し説明でもなく。
たぶん――
こういう時に、さらに心臓を忙しくしてくる金色マナトその人だった。




