1-12話:少しだけ知るだけのはずが、だいたい世界のほうが先に重たさを見せてくる
マナトが去っていった方を見送りながら、コハルは大きく息を吐いた。
休日の遊歩道は、拍子抜けするくらい穏やかだった。
木の葉が揺れる音。
遠くで聞こえる子どもの笑い声。
犬の爪がアスファルトを軽く叩く音。
ついさっきまで、黒い泥みたいな何かが人を襲っていて、そのすぐ横で雷が弾けていたとは、とても思えない。
「……夢じゃないよね、これ」
自分の頬をつねる。
普通に痛い。
夢ではなかった。
コハルは近くのベンチに腰を下ろした。
足から、少しずつ力が抜けていく。
(疲れた……情報量が多すぎる……)
朝ラーを食べた。
ノアに遭遇した。
少しだけ散歩した。
帰還者に襲われた。
その帰還者をマナトが瞬殺した。
しかもそのうえ、自分は今、あの人に対してちょっとどころではなく動揺している。
「最悪だなあ……」
最悪、のはずなのに。
言いながら、ほんの少しだけ口元が緩むのがまた最悪だった。
その時だった。
ざり、と靴音がして、コハルは顔を上げる。
マナトが戻ってきていた。
襟元はきっちりしている。
呼吸も乱れていない。
表情もほとんど変わっていない。
ついさっき、気絶した男を引きずって去っていった人間とは思えないくらい、いつも通りだった。
「かなりすぐでした」
「その報告いらないです」
即答すると、マナトが目を細めた。
「……どうしました?」
「何がですか?」
「疲れた顔してるので」
「誰のせいだと思ってるんですか!?」
「俺です」
「分かってるならよろしい……とは、ならないけど」
呆れたように返してから、コハルは少しだけ真面目な声になる。
「……あの人、本当に大丈夫なんですか?」
マナトは一拍置いた。
その一拍が、重かった。
「死んではないです」
「いや、そこじゃなくて」
「……分かってます」
マナトはコハルの隣には座らず、離れた位置に立ったまま、川の方へ目を向けた。
「帰還者って、全員が全員、元の世界にうまく戻れるわけじゃないんです」
「……」
「向こうで生き延びても、こっちへ帰ってから壊れる人もいる」
「壊れる……」
「向こうの常識と、こっちの常識が噛み合わなくなるんです。力を持って帰ってくる人ほど、そのズレが大きい」
風が吹く。
木がざわ、と揺れた。
コハルは黙ってその言葉を聞いた。
「異世界では、力があるほうが正しい場面が多いです」
マナトは淡々と言う。
「敵は明確で、倒す理由も単純で、生きるか死ぬかの判断も早い。迷ってる時間がない」
「……うん」
「でも、こっちは違う。殴ったら終わりだし、雷を落としたらニュースになるし、気に食わない相手がいても消していいわけじゃない」
「当たり前だよ」
「当たり前なんですけど」
そこでマナトは目を伏せた。
「その当たり前を、忘れてしまう人がいるんです」
「そっか……」
あの黒パーカーの男を思い出した。
目の下の濃い隈。
爛々とした目。
軽口の底にあった、粘つくみたいな冷たさ。
「……あの人も?」
「おそらく」
マナトの声は静かだった。
責めるでもなく、庇うわけでもなく、ただ事実をそこに置くような声音だった。
「途中帰還者って、言い方だけ聞くと軽いんですけど」
彼は続ける。
「向こうから見たら、“途中で切られた人”でもあるんです。選ばれなかった、届かなかった、役目を終えられなかった――そういう感覚が残る」
「……」
「しかも、半端に力だけある」
「それ、きついね……」
「きついです」
その返事には、苦味が混じっていた。
コハルはそこでようやく気づく。
これは、あの男の話だけではない。
たぶん、マナト自身の話も混ざっている。
「……マナトさんも?」
聞くか迷った。
でも、もう口から出ていた。
マナトはすぐには答えなかった。
川面を見る目が、少しだけ遠くなる。
「俺は、一応勇者なんですよ」
「勇者……」
「はい。魔王討伐をした人間に与えられる称号ですね」
「じゃあ、あの人とは違うじゃないですか」
「違うところもあります」
一拍。
「でも、全部は違わないです」
その言葉は、思ったより重かった。
「こっちへ帰ってきた最初の頃」
マナトはぽつりと言う。
「エレベーターの閉まる音で、剣を抜きかけました」
「え」
「実際に剣はないので、代わりにボールペンを構えてましたけど」
「そこだけ現代的だな……」
「コンビニの冷蔵ケースの反射に、敵の気配を見ました」
「……」
「寝てる時に、何度か天井を壊しました」
「最後さらっと言わないで」
「大家さんには謝りました」
「そこじゃないでしょ……」
思わずツッコむと、マナトが少しだけ笑った。
でも、その笑いはいつもより薄かった。
「しばらく、本当にうまく戻れなかったんです」
「……」
「日常って、思ってるより弱いんですよ。こちらが神経を擦り減らして合わせないと、すぐに形を失う」
コハルは膝の上で指をぎゅっと握った。
分かる気がした。
自分だって、まだ数日なのにもうぎりぎりだ。
満員電車でも、会社でも、普通に過ごしているだけで神経を使う。
課長の声に無駄に反応するし、ノアの目線に挙動不審になるし、心臓ひとつまともに扱えない。
そこに異世界の記憶だの、戦いだの、力だの、そういうものが丸ごと乗るのなら。
壊れそうになる人がいても、たしかにおかしくはなかった。
「……それでも」
コハルは小さく言った。
「マナトさんは、ちゃんと戻ってきてるじゃないですか」
マナトがこちらを見る。
正面から目が合ってしまって、コハルは少しだけ息を止めた。
でも、逸らさない。
「家電は死ぬし、酔うと最悪だけど」
「フォローが雑ですね」
「そこは認めてください」
「認めます」
「でも」
コハルは続ける。
「普通に働いてるし、後輩である私の面倒も見てくれるし、悪い人から私を守ってくれました」
「……」
「だから、立派に社会復帰してます。少なくとも、私にはそう思える」
マナトは何も言わない。
コハルは少しだけ視線を泳がせて、それでも最後まで言い切った。
「あと……その……言葉がうまく出てこないけど」
「はい」
「かっこいいって思います」
言った瞬間、自分で何を言ってしまったのか理解して、コハルは一気に顔が熱くなった。
(何言ってんの私!? 今のはだめでしょ!? 勢いで言う内容じゃないでしょ!?)
マナトはしばらく何も言わなかった。
風だけが二人の間を通る。
やがて、彼は小さく息を吐く。
「……ありがとうございます」
「いえ」
「そう言ってもらえると、ちょっと救われます」
「その言い方ずるいなあ……」
思わず本音が漏れる。
マナトが少しだけ首を傾げた。
「ずるいですか」
「ずるいです」
「何が」
「そうやって普通に言うところが」
「普通に言ってます」
「普通に言うからだめなんですよ」
そこまで言ってから、コハルははっとした。
何を言っているのか自分でも分からない。
でも、もう遅い。
マナトは一瞬だけ目を丸くしてから、ふっと口元を緩めた。
「……コハルさん」
「何ですか?」
「俺、あなたの世話役でよかった」
「ええっ!?」
即座に顔を覆う。
さっきまで世界観の重い話をしていたのに、どうしてこうなるのか。
情緒が乱高下しすぎている。
「ほんと、やめて……」
「すみません」
「全然すみませんって思ってないですよね」
「はい」
「素直かっ!!」
マナトが笑う。
今度の笑いは、さっきよりちゃんといつも通りだった。
それがちょっと嬉しくて、また腹が立つ。
「……帰りますか」
コハルが言う。
「送ります」
「やっぱりそうなるんだ」
「さっきみたいなのがまた出たら困るので」
「それはまあ……そうなんだけど」
立ち上がる。
今度はふらつかなかった。
マナトがさりげなく前へ出て、歩幅を合わせてくる。
その自然さが、また妙に心臓に悪い。
遊歩道を駅前の方へ戻りながら、コハルはふと思ったことを口にした。
「……帰還者って、結構いるんですか」
「多くはないです」
「じゃあ、どのくらい」
「女神の系統にもよりますけど」
マナトは少し考えてから言った。
「俺が把握してる範囲だと、全国に数百人くらいです」
「割といるな……」
「割といます」
「その中で、こういう……危ない人もいる?」
「います」
「どのくらい?」
「半分まではいかないです」
「それでも多くない?」
「力を持った人間は、欲深くなりやすいので」
「嫌なリアルさだな……」
「そんなもんです」
「じゃあ、勇者はどのくらい?」
「かなり少ないです。俺とコハルさん含めても、数人しかいないと思いますよ」
「うわ、急にレア」
「後で紹介します」
「う、うん……ちょっと怖いな……」
コハルはちょっとだけ黙る。
世界が狭まった気がした。
普通の人しかいないと思っていた街の中に、自分と同じような“帰ってきた人”がいて、その中には壊れかけた人もいる。
知らなかった頃には戻れない。
それだけは、はっきりしていた。
「……怖いですか?」
マナトが聞いた。
コハルは考える。
怖い。
たぶん普通に怖い。
でも。
「ちょっとは」
「はい」
「でも、それ以上に」
一拍置いて。
「一人じゃないのは、少しだけ安心しました」
マナトが静かにこちらを見る。
「そうですか」
「……はい」
「じゃあ、俺が先輩でよかったですか?」
「何その確認」
「大事なので」
「自分で言うんだ……」
コハルは小さく笑って、それから少しだけ視線を落とす。
「……よかったですよ」
「え」
「マナトさんで」
「……」
「何ですかその顔」
「いや」
マナトは困ったように笑った。
「嬉しかったので」
「っ……!」
またそれだ。
また急にそういうことを言う。
「ほんと、そういうのずるい……」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「違います」
「じゃあ訂正します?」
「しません」
「じゃあ合ってますね」
「論理が雑!」
でも、笑ってしまった。
駅前のざわめきが、少しずつ近づいてくる。
日常の音が戻ってくる。
人の声。車の音。信号の電子音。
その中を、マナトと並んで歩く。
世界は少しだけ広がって、少しだけ面倒になって、たぶん少しだけ危険にもなった。
けれど同時に、心強くもなったのだと思う。
「……マナトさん」
「はい」
「さっきの」
「どれですか」
「戦闘です。結構周りに人が居たのに、誰も騒ぎませんでした」
「そうですね」
「見えてないんですか?」
マナトは少し考えた。
「認識阻害ですね」
「えっ」
「一定範囲の結界みたいなものです」
「そんなのあるんだ……」
「東京だけです。だから東京に帰還者や勇者は集まりやすい」
「なるほど……魔法そのものが見えてない感じなのか……」
妙に納得がいった。
それならば。
コハルは顔を上げた。
「なんで万能の心得は見えてるの!?」
「認識阻害でぼかせるのは、魔力で起きてる現象のほうです。でも、万能の心得は身体そのものを書き換えてる。書き換わったあとの肉体は、もうただの“現実”として存在するので、隠しきれません」
「うわっ、急に難しくてよく分かんないけど!!とりあえず最悪!!」
駅前が見える。
平和な街の輪郭が戻ってくる。
それでもコハルは、もう知っていた。
この街のどこかに、自分たちみたいな帰還者がいて、日常にうまく戻れない人もいて、それでもなんとか暮らそうとしているのだと。
そしてたぶん、自分もその側にいる。
「……少しだけ」
コハルがぽつりと呟く。
「何ですか」
「いや……なんでも」
「気になります」
「だから、何でもないですって」
「教えてください」
「しつこいなあ」
少し迷ってから、コハルは小さく言った。
「……少しだけ、この世界のこと分かった気がして」
「はい」
「少しだけ、怖くなくなったかも」
マナトが微笑む。
その表情は、いつもよりもずっとやわらかかった。
「それなら」
彼は静かに言う。
「かなり、よかったです」
「何その言い方」
「気分です」
「気分……」
そう返しながら、コハルは思う。
静かに過ごすはずだった土曜日は、やっぱりどこにも戻ってこない。
でも、その代わりに。
世界の重さを知って、
隣の人を知って、
自分の気持ちまで見えそうになってしまった。
それはたぶん、平穏とは全然違う。
でも、悪いだけでもなかった。




