1-13話:少しだけ知っただけのはずが、だいたい日常の裏には面倒な連中が先に住んでいる
駅前のにぎわいが近づくにつれて、さっきまでの遊歩道の静けさが徐々に遠ざかっていった。
車の音。
信号の電子音。
誰かの笑い声。
買い物袋の擦れる音。
どれも見慣れた、聞き慣れた日常のはずだった。
でも、もう少し前までの自分とは、違って聞こえる。
(この中にも、帰還者がいたりするんだろうか。普通にスーツ着て、普通に信号待ちして、でも内側だけ全然普通じゃない人とか)
いつもより周囲を観察してしまう。
(嫌だなあ……いや、私もそっち側なんだけど)
自分で思って、自分でへこんだ。
「どうしました」
「最近、その台詞多くないですか」
「分かりやすいので」
「嫌な評価だなあ……」
マナトはいつもの調子でそう言う。
でも、その“いつもの調子”が、さっきよりありがたかった。
駅前の横断歩道で信号待ちをしていた時だった。
「あ」
コハルの視線が、歩道の向こうでぴたりと止まる。
「何ですか」
「……あの人」
指をさしかけて、途中でやめた。
よく見れば、ただの会社帰りっぽい女性だった。ベージュのトレンチコートに、コンビニのコーヒー。スマホを見ながら信号を待っている。
「違いました」
「何がですか」
「いや……何か、帰還者っぽいかなって」
「もう見る目がだいぶ毒されてますね」
「そっちが毒流し込んできたんですよ!」
思わず言い返すと、マナトが少しだけ笑う。
「でも、そういうのはそのうち分かるようになりますよ」
「えっ、分かるようになるの!?」
「何となくですけど」
「嫌な成長だな……」
青信号になって、人が一斉に動き出す。
コハルもそれに合わせて歩きながら、小さく息を吐いた。
「……さっきの人も、何となくで分かったんですか」
「半分くらいは」
「半分」
「残り半分は、コハルさんが気づいたので」
「え」
「嫌な感じがするって言ったじゃないですか」
「……あ」
「たぶん、あれもスキルの影響ですね」
「そんな便利な言い方で済ませていいやつ?」
「便利とは言ってないです」
「でも便利そうだったじゃないですか」
マナトは首を傾げた。
「便利というより、危ないものに反応しやすいんだと思います」
「地味に最悪なんですけど」
「巻き込まれる確率も上がるので」
「やっぱり最悪じゃないですか」
コハルは本気で頭を抱えたくなった。
ただでさえ、心拍数ひとつで男になったり戻ったりする厄介仕様なのに、危ないものまで察知しやすいとなれば、もはやトラブル吸引機ではないか。
(何なのこのスキル!? 万能って言う割に、人生を雑にかき回す方面の万能じゃん! もっとこう……家事を完璧にできるとかでよかったんだけど)
だが、隣を歩くマナトは考えるような顔をしたあと、静かに言った。
「でも、助かる時もあると思います」
「……」
「さっきも、あれがなかったらもう少し近づいてたかもしれないので」
「それは、まあ……」
「危ないものを危ないと感じられるのは、悪いことじゃないです」
「……」
「特に、こっち側では」
その言い方が、引っかかった。
「こっち側?」
「帰還者側、ってことです」
「ああ……」
コハルは小さく頷く。
“こっち側”という言葉が、妙に現実味を持って胸に残った。
もう自分は、完全に普通の側だけではいられない。
会社に行って、コンビニでお昼を買って、ノアに振り回されて、課長に気を遣われて――そういう日常の中に戻っても、その裏には別の層がある。
女神。
異世界。
帰還者。
勇者。
途中で切られた人たち。
世界はひとつなのに、見えている階層だけが違うみたいだった。
「……あの」
コハルは迷ってから聞いた。
「帰還者同士って、どうやって連絡取ってるんですか」
マナトは、思ったよりあっさり答えた。
「人づてです」
「アナログだなあ!?」
「あと女神経由」
「そっちはそっちで信用ならないなあ!?」
「信用ならないです」
「断言するんだ……」
マナトは平然と続ける。
「ルナみたいに勝手に人を繋げるタイプもいますし、逆に情報を全然渡さないタイプもいます」
「何その運ゲー」
「だいぶ運ゲーです」
「ひど……」
コハルは思わず顔をしかめた。
というか、ルナへの評価がいよいよ下がる一方である。
「じゃあ、ちゃんとした組織とかはないんですか?」
「一つだけ大きな組織はあります。表向きは人材派遣会社ですけどね。認識阻害の結界を張っているのもその組織です。あとは、各々で少数の徒党を組んでいる人たちもいます」
「勇者の人たちって……その組織に入ってるの?」
「俺含めて入ってません」
「何で!?」
「仕切ってる人の一人は勇者ですが、みんな協調性がないので」
「最悪の理由だった」
「ですが、横の繋がりはあります」
「横の繋がり……」
「悪さをした帰還者を捕らえて引き渡すと、お金がもらえるんです。いわゆる、賞金首ってやつですね」
「何か急に異世界が踏み込んできたな……」
コハルはごくりと唾を飲み込む。
「実は、さっきの人は賞金首だったので、その組織に引き渡してきました」
「そういうことだったのか……」
妙に納得した。
けれど同時に、別のことが気になってしまった。
「あの人はいくらになったの?」
「俺の給料の三ヶ月分くらいにはなりました」
「いや、俺の給料が分かんないんだけど!」
「知りたいですか?」
「いや、知りたいけども! 聞けないんですけど!?」
駅前のアーケードに入る。
人通りが増えて、外より空気がぬるかった。
コハルはガラスに映る自分をちらりと見る
見た目はちゃんと、いつもの自分だ。
でも中身は、数日前とはだいぶ違ってしまった気がする。
「……勇者って、どんな人が多いんですか?」
「いろんなタイプがいますね」
「つまり変な人もいるんだ」
「います」
「どのくらい」
「かなり」
「嫌な言い淀み方したな……」
マナトは少し考えてから、淡々と説明するみたいに言った。
「勇者って、最後まで役目をやりきった人間なんで」
「うん」
「良くも悪くも、普通ではないです」
「それはそうか」
「何かを守るのが異様に上手い人もいるし、逆に、守るためなら他を切り捨てるのが早すぎる人もいる」
「うわあ……」
「あと、現代社会に馴染む気があんまりない人もいます」
「働いてないってこと?」
「働いてない人もいますし、働いてても全然周囲に合わせる気がない人もいます」
「絶対会うの怖いでしょそれ」
「なので、まだ紹介してないです」
「やっぱり意図的だったんだ!?」
コハルが足を止めかける勢いで振り向く。
「急に会わせるのは違うかなと思って」
「いや、そこは正解なんですけど」
「今のコハルさん、ただでさえ処理能力がぎりぎりそうなので」
「ひどい」
「事実です」
「最近ほんと、事実で殴ってくるなこの人……」
でも、その配慮が少しだけ嬉しかった。
それがまた腹立たしい。
(何でこう……ちゃんと助けるところは助けてくるの? ずるいなあ、ほんと)
「……ちなみに」
コハルは声を落として聞く。
「マナトさんって、その中ではどのくらいまともなんですか」
マナトは一瞬だけ黙った。
それから、すごく真面目な顔で言った。
「かなりまともな方です」
「自分で言うんだ」
「比較対象がひどいので」
「怖いなあ!?」
コハルは本気で嫌そうな顔をした。
マナトの口が緩む。
「でも、ちゃんとした人もいますよ」
「“ちゃんとした”の基準が不安」
「コハルさんより社会性ある人もいます」
「それ、もう褒めてないですよね?」
「そうですね」
「認めるな!!」
その時、ふと。
コハルのスマホが震えた。
「うわ」
反射で肩が跳ねる。
画面を見ると、ノアからだった。
『今どこ!?』
『今日絶対なんかあったでしょ!?』
『あとその作業着の人、やっぱり絶対ただ者じゃなくない!?』
「何で分かるのあいつ……」
「何ですか」
「ノアからです」
「ああ」
「“やっぱりただ者じゃなくない?”だって」
「鋭いですね」
「そこ感心するとこ!?」
コハルは頭を抱えた。
ノアの嗅覚が妙に鋭いのはいつものことだが、今回に関しては鋭すぎて困る。
「どう返そう……」
「“作業着なのに朝ラーが似合う人でした”でいいんじゃないですか」
「雑すぎるし、何も誤魔化せてない」
しかも事実なのが腹立つ。
結局、コハルは
『ちょっと色々あった』
『今度話す』
とだけ返した。
「それで済みます?」
「済まないです」
「ですよね」
「でも今は無理です」
「それもそうです」
アーケードを抜けると、駅前ロータリーが見えてきた。
人の波が、昼前の光の中でゆっくり流れている。
マナトはそこで足を少し緩めた。
「この辺までなら、まあ大丈夫そうですね」
「え」
「人が多いので」
「……あ」
そこでようやくコハルは気づく。
この人は、送ると言ったとおり、本当に“安全圏”まで付き添うつもりだったのだ。
「じゃあ、ここでいいです」
「ほんとに?」
「はい」
「無理してないですか」
「してないです」
「顔はちょっとしてます」
「うるさいなあ……」
けれど声は、思ったよりやわらかく出た。
マナトはコハルの顔を見て、それから小さく頷く。
「分かりました」
「……はい」
「じゃあ、今日はこのへんで」
「はい」
なのに、どちらもすぐには動かなかった。
人が横を通り過ぎる。
車がゆっくり曲がる。
駅のアナウンスが遠くで響く。
日常の真ん中で、二人だけが取り残されたみたいだった。
「……あの」
コハルが先に口を開く。
「勇者の人たちのこと」
「はい」
「今すぐじゃなくていいですけど」
「はい」
「そのうち、教えてください」
「……」
「ちょっと怖いけど、知らないままの方がもっと嫌なので」
マナトが頷く。
「分かりました」
「……はい」
「その代わり」
「何ですか」
「変な人に会わせる時は、ちゃんと俺がいます」
「何その保護者みたいな言い方」
「保護者みたいなものなので」
「世話役でしょ」
「それもそうですね」
「……」
「でも、本当に無理そうなら断ってください」
「……えっ」
「コハルさん、無理して頑張る方なので」
「そんなこと」
「あります」
「即答……」
「見てれば分かります」
その言い方に、また胸が忙しくなる。
嫌だ。ほんとにこういうのが良くない。
「……じゃあ」
コハルはごまかすように言う。
「今日は、ちゃんと帰ってくださいね」
「はい」
「寄り道しないで」
「しません」
「帰還者とか捕まえないで」
「今日はもう捕まえました」
「そうだった……」
自分で言って、自分で少し笑ってしまう。
マナトも、同じようにつられて笑った。
「コハルさん」
「何ですか」
「今日は、ありがとうございました」
「……何に対してですか」
「色々です」
「雑だなあ」
「でも、本当に」
「……」
「助かりました」
コハルは目を逸らす。
またそれだ。
また、真正面からそういうことを言う。
「……こっちも」
「え」
「その……助かりました」
「はい」
「だから、えっと……」
言葉がつかえて、ちょっと視線が泳ぐ。
「……今日は、よかったです」
「何がですか」
「全部が全部じゃないですけど!」
「広いなあ」
「広いですよ!」
思わず言い返した瞬間、マナトが静かに笑う。
その笑い方が、最初よりずっと自然に見えた。
「じゃあ」
彼が言う。
「また連絡します」
「はい」
「今日は、ちゃんと休んでください」
「そっちもです」
「努力します」
「努力じゃなくて実行してください」
そう言ってようやく、マナトが一歩下がる。
離れる。
それだけなのに、胸の奥がすうっとした。
さみしい、とか。
そういう言葉にしたら負けな気がしたので、コハルは考えないことにした。
「……気をつけて帰ってください」
「はい」
そしてマナトは、本当に今度こそ背を向けた。
人混みの向こうへ、作業着の背中が少しずつ遠ざかっていく。
コハルはその背中をしばらく見てから、小さく息を吐いた。
「……ほんと、何なのあの人」
静かに過ごすはずだった土曜日は、結局どこにも戻ってこなかった。
その代わりに、帰還者のことを知った。
勇者が数人しかいないことを知った。
この街の裏側に、普通じゃない層があることを知った。
そしてたぶん、それ以上に厄介なことも知ってしまった。
「……私、だいぶまずいかも」
ぽつりと呟いて、コハルは両手で顔を覆う。
怖くなくなったわけじゃない。
問題が減ったわけでもない。
むしろ面倒ごとは増えている。
それでも。
知らなかった頃より、少しだけ心強い。
スマホが、また小さく震える。
今度はマナトからだった。
『言い忘れました』
『今日の件、他の帰還者にも共有しておきます』
『しばらくは一人で人気の少ないところ、行かないでください』
「いや最後」
コハルは思わず画面に向かってつぶやく。
「今さら言う!?」
慌てて返信を打つ。
『先に言ってください!!』
『もうだいぶ歩いたあとなんですけど!?』
数秒で返ってくる。
『すみません』
『次から気をつけます』
「次からって何……」
嫌な予感しかしない。
『次がある前提なんですか?』
送る。
返事はもっと早かった。
『あると思ってた方が安全です』
コハルはしばらく画面を見つめて、それから深く、深くため息をついた。
「……最悪だ」
けれど、そのため息は朝のものより軽かった。
駅前の空はやたら明るい。
人は多いし、音もうるさい。
世界は思っていたよりずっと複雑で、危なくて、面倒だ。
でも。
その中で、頼ってもいい相手ができてしまったことだけは、どうやらもう、ごまかせそうになかった。




