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1-14話:出歩くなと言われた夜ほど、だいたい空腹が理性を先に裏切ってくる

 部屋に戻ってしばらくごろごろしたあと、コハルはベッドの上で天井を見つめていた。

 カーテンの隙間から差し込む日の光はやわらかく、どう考えても昼寝向きの時間だった。

 部屋の中は静かで、遠くから車の走る音だけがかすかに聞こえる。

 それだけなのに、頭の中だけが妙にうるさい。

 帰還者。

 勇者。

 途中で切られた人たち。

 賞金首。

 女神経由の連絡網。

 まとまった組織なんてないくせに、裏では危ないやつを捕まえる仕組みだけはちゃんとある世界。


「……何それ……」


 小さく呟いた声が、やけに頼りなく響いた。

 静かに週末を過ごしたいだけだった。

 本当に、それだけだったのに。

 気づけば、自分の知っている日常の裏側に、もうひとつ別の層があることを知らされていた。

 妙に現実的で、妙に中途半端で、でも確実に危ない層だ。


(帰還者が全国に数百人。勇者はその中でも数人。しかも、まともじゃない人もいる。……いや、“かなりいる”って言ってたな)


 頭の中で情報を並べようとして、途中でやめた。

 整理しようとすればするほど、余計に気が遠くなる。

 知らなかった頃には戻れない。

 でも、知ったからといって、今すぐ何かできるわけでもない。

 それが一番、厄介だった。


「……私、普通に会社行けるのかな……」


 課長の顔が浮かぶ。

 ノアのにやにやした顔も浮かぶ。

 ついでに、作業着のまま人混みの向こうへ消えていったマナトの背中まで浮かんできて、コハルは勢いよく布団を頭までかぶった。


「うわあああ……もう無理……」


 考えることが多すぎる。

 世界のこと。

 自分のスキルのこと。

 帰還者のこと。

 そして、どうしても最後に混ざってくる、隣にいてほしい相手が分かり始めてしまった、という最悪に面倒な事実。

 布団の中は少し暑い。

 でも、その窮屈さが逆に落ち着いた。

(ちょっとだけ寝よう。ちょっとだけ――頭、全然回んないし)


 そう思ったところまでは覚えていた。


          ◇


「……っ」


 目が覚めた時、部屋は真っ暗だった。

 コハルはしばらく、ここがどこなのかも分からないまま天井を見つめた。

 エアコンの小さな動作音。冷えた空気。見慣れたカーテン。自分の部屋だ。


「……何時」


 手探りでスマホを探し、画面を見る。


 21:47。


「うわっ」 


 思わず飛び起きた。

 寝すぎた。完全に寝すぎた。

 しかも、起きた瞬間にはっきり分かる。

 お腹が減っていた。

 かなり、減っていた。


「……お腹すいた……」


 情けない声が出る。

 朝ラー以降、ろくに何も食べていない。

 とりあえず冷蔵庫を開ける。

 調味料。

 使いかけのドレッシング。

 賞味期限がちょっと怪しいヨーグルト半分。

 以上。


「終わってる……」


 冷凍庫も開ける。

 氷。

 保冷剤。

 デカい霜。

 終わり。


「嘘でしょ……」


 自分でもびっくりするくらい終わっていた。

 冷蔵庫の扉を閉め、そのまま額をぴたりとつける。

 コンビニに行けばすぐだ。五分もかからない。

 おにぎりでも、サンドイッチでも、最悪カップ麺でもいい。とにかく何か胃に入れたかった。

 だが、その瞬間。

 昼間のメッセージが脳裏をよぎる。


『しばらくは一人で人けの少ないところ、行かないでください』


「……」


『あると思ってた方が安全です』


「……いやでも」


 コハルは顔を上げ、自分に言い聞かせるように呟いた。


「日本に数百人って、結構少ないよね……?」


 全国に数百人。

 県単位、市単位まで落とせば、そうそう鉢合わせる数じゃないはずだ。

 しかも今から行くのは近所のコンビニ。ほんの数分。住宅街の中。別に山奥へ向かうわけでもない。


「そんな、毎回毎回、簡単に遭遇するわけないでしょ……」


 言ってから、少しだけ嫌な感じがした。

 でも、お腹は減っている。かなり。

 理性が危機管理と綱引きした結果、空腹が勝った。


「……大丈夫。すぐ行って、すぐ帰る」


 誰に向けた言い訳かも分からないまま、コハルは財布とスマホだけ持って部屋を出た。


          ◇


 夜の外気は、思ったより冷たかった。

 昼間はあんなに人の多かった駅前のざわめきも、ここまでは届かない。

 住宅街の道は静かで、街灯の光がところどころアスファルトを白く照らしている。

 遠くで犬の鳴き声がした。

 それ以外に聞こえるのは、自分の足音くらいだ。


(……普通だ。普通の夜道。全然、大丈夫そう)


 コンビニでおにぎり二つとサラダチキン、それからホットスナックを買った。

 ついでに甘いカフェラテとプリンまで手に入れて、少しだけ機嫌が戻る。


「勝った……」


 誰に対する勝利なのかは不明だが、今のコハルにとっては大きかった。

 袋のぬくもりだけで、だいぶ安心する。

 帰り道も、このまま何事もなく終わる。

 そう思っていた。

 最初に違和感を覚えたのは、交差点を一つ曲がったあたりだった。

 足音。

 自分のものとは別に、もう一つ。

 しかも、少し遅れてついてくるような音。


「……」


 コハルは歩く速度をほんの少しだけ上げた。

 後ろは振り返らない。ただ、耳を澄ます。

 足音も、少しだけ速くなる。

 ぞわ、と背中が粟立った。


(気のせいじゃない!?)


 昼間、マナトが言っていた言葉が脳裏によみがえる。

 危ないものに反応しやすい。

 巻き込まれる確率も上がる。


「最悪……」


 小さく呟いた、その瞬間だった。


「その反応、やっぱり“こっち側”か」


「っ!」


 真後ろから男の声がした。

 反射的に振り返る。

 街灯の下に立っていたのは、細身の男だった。

 三十前後。黒いパーカー。痩せた頬。

 目だけが妙にぎらついている。

 昼間の賞金首とは違う。

 けれど、あの時と同じ種類の、まとわりつくような嫌な感じがあった。 


「……誰ですか?」


 声がわずかに強張る。

 男は答えず、コハルの持つコンビニ袋をちらりと見てから、くつくつと笑った。


「へえ。女か……珍しいな」


「……」


「そんな顔しなくてもいいだろ。別に今すぐ殺すつもりはないよ」


「その言い方する人、だいたい信用できないんですけど」


「そう?」


 男が一歩、前へ出る。

 その瞬間、街灯の影が不自然に揺れた。

 地面に落ちた電柱の影。

 塀の影。

 男の足元にたまる黒さ。

 それらがじわりと滲み、細く伸び、糸のように集束していく。


(……泥じゃない)


 昼の相手とは違う。

 重たい塊ではない。もっと薄く、鋭く、冷たい。


「昼間、妙な気配が一つ増えたと思ったんだよな。まさか、こんな新入りとは思わなかったけど」


 コハルはゆっくりと袋を足元に置いた。

 手が空く。

 心臓がうるさい。


「新入りだろうが何だろうが、関係ないですよね。私、帰りたいんですけど」


「帰れば?」


 男は笑う。


「帰れるならな」


 次の瞬間、男の指先がわずかに動いた。


「――っ!?」


 見えない。

 そう思った時には、もう頬の横を何かが掠めていた。

 髪が数本、ふわりと落ちる。

 遅れて、後ろのカーブミラーの支柱がすぱん、と斜めに裂けた。


(刃……!?)


 影が細く凝縮されている。

 針より細い。糸みたいな刃。

 静かすぎて、気配が薄い。


「避けるじゃん」


 男が楽しそうに笑う。


「やっぱ勇者か」


「っ……!」


 逃げるべきだ。

 分かっている。

 でも、この距離では背を向けた瞬間に切られる。

 心臓が跳ねる。

 嫌でも分かる。

 来る。


「……っ、もう!」


 身体の奥が熱を持った。

 骨が軋む。

 視界が持ち上がる。

 手足が一気に伸びる。

 万能の心得(フルポテンシャル)

 次の瞬間、コハルの身体は、一瞬で男のものへ変わっていた。

 高い視界。広い肩。重い重心。

 いつもの自分とは、まるで別物の肉体。


「はは、すご」


 男が口元を歪める。


「面白いじゃん、新人」


 今度は影の刃が複数走った。

 コハルは反射で腕を振るう。

 拳圧だけで一本は逸れた。

 だが、残りは速い。踏み込んで避けるつもりが、飛びすぎて電柱に肩をぶつけた。


「っ……!」


(うまく使えない……!)


 力はある。

 ありすぎるくらいある。

 でも、それだけだった。

 このスキルが引き出すのは最大出力だ。

 戦い方まで教えてくれるわけじゃない。

 異世界でも、これをまともに使ったことはほとんどない。

 強すぎて、加減が利かなくて、何より身体感覚が変わりすぎる。

 男になるから、というだけじゃない。

 腕の長さも、脚の重さも、重心も、呼吸の仕方まで別物になる。

 慣れた身体で戦うのと、知らない身体で暴れるのは、まるで違う。

 踏み込むだけで地面を蹴りすぎる。

 腕を振れば威力が出すぎる。

 避けたつもりが飛びすぎる。

 強い。

 でも、使いづらいじゃ済まない。

 これではただ、危険な暴走だ。


「退屈させるなよ!」


 男の足元から、今度は影の帯が伸びた。

 黒い線のまま地面を走り、コハルの影と重なった瞬間、足が急に重くなる。


「……っ、何これ!」


「影を縫ってるんだよ」


 男が笑う。


「止まっただろ?」


 次の瞬間、横腹に鋭い衝撃が入った。

 刃は見えなかった。

 斬られたと理解した時には、もう呼吸が止まっていた。


「――っ、ぁ!」


 息が詰まる。

 痛みより、体勢が崩れたことの方が致命的だった。

 立て直そうとしても、膝が笑う。

 消耗が早い。

 マナトの電撃を受け止めた後遺症も残っている。

 そこに圧倒的な恐怖が重なって、身体が勝手に削れていく。


「何だよ、全然じゃん」


 男が笑う。


「勇者って、もっとマシかと思ってた」


 悔しいとか、腹が立つとか、そういう感情より先に焦りが来た。

 まずい。

 ほんとうにまずい。

 このままだと、普通に死ぬ。

 視界の端がじわじわと白む。


(こんなところで――)


 その時だった。

 ふ、と風が吹いた。

 夜道には不自然なくらい、まっすぐで鋭い風。

 男の笑みが、一瞬だけ止まる。


「……は?」


 次の瞬間。

 しゅ、と音がした。

 それはあまりにも静かで、コハルには見えなかった。

 ただ、男の頬に一筋、赤い線が走る。

 さらにその背後。

 ガードレールが音もなく横一文字に断たれ、数秒遅れて上半分がずるりと滑り落ちた。 


「っ!?」


 男が飛び退く。  その目が初めて、明確な警戒を帯びた。


「誰だ!」


「いやー、間に合ってよかった」


 のんびりした声だった。

 曲がり角の暗がりから、一人の男が歩いてくる。

 長身。細身。

 手をポケットに突っ込んだままの、気楽そうな立ち姿。

 なのに、空気だけが妙に静まっていた。

 肩までかかる少し長めの髪が、夜風に揺れる。

 眠そうにも見える目元。

 けれど、その視線だけはひどく冷静だった。

 街灯の光が横顔を照らした瞬間、思わず息を呑むほど整った顔立ちが浮かび上がる。


「……木崎レンマ」


 目の前の男が、忌々しそうに吐き捨てる。


「そうだよ」


 軽い調子で返しながら、レンマと呼ばれた男はコハルの横まで来た。

 ちらりとこちらを見る。


「大丈夫?」


 声は拍子抜けするくらい軽い。


「無事?」


「……あ、え……」


 コハルはうまく答えられない。

 大丈夫ではない。

 無事かと聞かれれば、たぶんぎりぎり無事だ。

 でも、そんなことを整理する余裕がなかった。


「返事ないってことは、まあ大丈夫じゃないか」


 レンマは少しだけ困ったように笑う。


「後でちゃんと休んだ方がいいよ。顔色、ひどいし」


「今、男なんですけど……」


「うん、そこは見れば分かる」


 さらっと言ってから、レンマは少しだけ首を傾げた。


「でも、中身は女の子だよね」


 妙にあっさり返されて、コハルは変な気持ちになった。

 この人、全然動じていない。

 対する途中帰還者の男は、露骨に苛立った顔をした。


「……邪魔すんなよ」


「したくてしてるわけじゃないんだけどね」


 レンマは肩をすくめる。


「でも、見ちゃったし」


「こいつ、新人だぞ? まだ何も分かってない」


「だから?」


「だから、奪いやすいって話」


 その言葉に、空気が一気に冷えた。

 コハルの背筋に、ぞくりと悪寒が走る。

 レンマの表情から、わずかに笑みが消えた。


「それ、本人の前で言うんだ」


「何が悪い」


「別に」


 レンマは静かに言った。


「ただ、趣味悪いなって思っただけ」


 次の瞬間、また風が鳴った。

 今度こそ、コハルにも少しだけ分かった。

 レンマは動いていないように見える。

 けれど、彼の周囲だけ空気の密度が変わっていた。

 見えない刃が、最短距離だけを正確に選んで走っている。

 男が影の刃を何本も展開する。

 だが、そのすべてが放たれる前に断たれた。

 影が裂ける。

 腕が裂ける。

 肩が裂ける。

 足元の影そのものが切り離され、男の術式が一瞬で崩れる。

 血飛沫が、夜気に細く散った。


「っ、ぐ……!」


「遅いよ」


 レンマの声は、ひどく静かだった。


「その程度の精度なの?」


 男が歯を食いしばり、今度は周囲の街灯すべての影をまとめて引き寄せる。

 住宅の壁。

 塀。

 電柱。

 道路標識。

 黒が一気に膨れ上がる。

 ぞっとする量だった。

 だが、レンマは一歩も退かない。


「……学習してね」


 その一言のあと、レンマが片手をポケットから抜いた。

 指先がほんの少し動く。

 その瞬間だった。

 風が、夜道を支配した。

 ごう、と鳴るような派手さはない。

 ただ、目に見えない無数の細い斬線が、一瞬で空間を塗り替えた。

 影が消える。

 黒がほどける。

 男のパーカーが、遅れて何本もの線で裂けた。

 その背後の街路樹が、幹を傷つけず、葉だけをすべて断たれ、ざあっと緑の雨みたいに落ちてくる。


「――っ」


 男の顔から、初めて余裕が消えた。

 レンマは穏やかな声で言う。


「帰りなよ」


 一歩、近づく。


「これ以上やると、次はちゃんと立てない場所を切るから」


 脅しには聞こえなかった。

 事実として、そうなるのだと分かる声音だった。

 男は歯噛みし、コハルを睨み、それからレンマを睨み返す。

 だが次の瞬間、舌打ちとともに黒い影のように夜の向こうへ消えた。

 静寂が戻る。

 その途端、膝から力が抜けた。


「うわ」


 倒れかけたコハルを、レンマが片手で軽く支えた。


「ほんとに大丈夫じゃないじゃん」


「……すみません」


「謝らなくていいよ」


 レンマは軽く言う。


「マナトから報告があった新入りちゃんでしょ」


 マナトの名前が出た瞬間、コハルは少しだけ安心した。


(この人、マナトさんの知り合い……)


 荒い呼吸を整えながら、なんとか相手の顔を見る。

 やわらかそうな雰囲気なのに、目だけは妙に澄んでいる。

 さっきまで人を圧倒していた気配が嘘みたいに、穏やかな顔だった。


「……あなたは?」


 レンマは少しだけ笑った。


「木崎レンマ――さっき名は聞いてたと思うけど」


 風が、彼の髪をさらりと揺らす。


「勇者だよ。暴風の勇者って呼ばれてる」


 その言い方は、あまりにも軽い。

 けれど、足元に落ちた切断された葉と、静かに裂けた夜の残響が、それが嘘ではないと教えていた。

 コハルは、ぼんやりした頭のままで思う。

 また増えた。

 面倒な世界の住人が、また一人。

 しかも今度は、妙に涼しい顔で、空気ごと人を切るタイプだった。

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