1-15話:助けられた直後ほど、お礼の正解がプリンしか見つからない
コハルは、支えられたまま数秒ほどまともに言葉を返せなかった。
呼吸がうるさい。心臓もうるさい。横腹は痛いし、足にはまだうっすら力が入らない。
それなのに、目の前の男――木崎レンマは、何事もなかったみたいな顔でこちらを見ていた。
「……あの」
ようやく絞り出した声は、自分でもびっくりするくらい情けなかった。
「ん?」
「その……助けて、いただいて……」
「うん」
「ありがとうございます……」
「どういたしまして」
返事まで軽い。
軽いのに、不思議と雑ではなかった。
コハルは少しだけ視線を泳がせ、それから、いまさらのように自分の姿を見下ろした。
高い視界。大きい手。見慣れない肩幅。
どう見ても男だ。
「あの、私……」
「うん」
「スキルのせいで男になっちゃってるんですけど……」
言いながら、自分で何を説明しているんだろう、という気持ちになった。
だがレンマは特に驚いた様子もなく、ただ「ああ」と小さく頷いた。
「やっぱりそうなんだ」
「……やっぱり?」
「中身の雰囲気が、そういう感じだったから」
「雰囲気で分かるものなんですか……」
「分かる時は分かるよ」
分からない。
少なくともコハルには、何がどう分かるのか全然分からなかった。
けれど、いまの自分にそれを追及する元気はない。
立っているだけで精一杯だ。
「名前、聞いてもいい?」
レンマがそう言って、少しだけ首を傾げる。
コハルは一拍遅れて、自分がまだ名乗っていなかったことに気づいた。
「あ……月岡です」
「うん」
「月岡コハルです」
「コハルちゃんね」
ちゃん付けだ。
さっきまで空気ごと人を切っていた相手とは思えない気安さに、コハルは少しだけ目を瞬いた。
「帰れる?」
「……たぶん、ぎりぎり……」
「ぎりぎりは、帰れない人が言うやつなんだよね」
さらっと言われて、反論できない。
レンマは周囲を一度見回し、それからごく自然な口調で言った。
「送るよ」
「え、いや、そこまでしてもらうのは」
「そこまでしない方が危ないでしょ」
「……」
「さっき襲われたばっかりなのに、また一人で帰すの、さすがに趣味悪いし」
その言い方が、少しだけおかしかった。
コハルは疲れた頭のまま、小さく息を吐く。
「……すみません」
「だから謝らなくていいって」
レンマはそう言って、地面に置かれたコンビニ袋を拾い上げた。
コハルが「あっ」と声を出すより先に、彼は中をちらりと見て、少しだけ目を細める。
「いい買い物してる」
「……そうですか?」
「カフェラテとプリン入ってるの、信頼できる」
「そこ基準なんですか」
「いい趣味してるから」
こんな状況なのに、ちょっとだけ笑いそうになる。
いや、たぶん普通に笑っていた。
◇
帰り道は、さっきとは別の意味で妙に落ち着かなかった。
夜道は相変わらず静かだ。
でも隣にいるのが、さっきまで見えない斬撃で人を圧倒していた男だと思うと、安心と緊張が同時に居座る。
レンマはコハルの歩幅に合わせるように、ゆっくり歩いていた。
特に無理に話しかけてくるわけでもなく、かといって気まずくなるほど黙り込むわけでもない。
「横腹、痛む?」
「ちょっと……かなり……」
「それは痛い方だね」
「自分でもそう思います」
「変身、解けそう?」
「たぶん、部屋に着いて気が抜けたら……」
そこでコハルは、自分の部屋にこの男の姿のまま入る未来を想像してしまい、うっすら頭が痛くなった。
「……最悪だ」
「何が?」
「このまま帰ったら、オートロックの防犯カメラに、知らない男が負傷して帰ってきたみたいに映って……事件性がありそうな図になるなって……」
「ふふ」
レンマが小さく笑う。
それが意外と柔らかくて、コハルは驚いた。
「笑いごとじゃないんですけど……」
「ごめん。でも、そういう心配するんだなと思って」
「しますよ。むしろそこ大事ですよ」
「うん、コハルちゃんはそういう感じだよね」
そういう感じ、とは何だろう。
だが聞き返す前に、見慣れたアパートの外観が見えてきた。
「あ……ここです」
「着いたか」
建物の前まで来たところで、コハルはようやく少しだけ現実味を取り戻した。
本当に助かったのだ。
もしレンマが来ていなかったら、たぶん今ごろどうなっていたか分からない。
「あの」
コハルは立ち止まり、レンマを見上げた。
「ほんとに、ありがとうございました」
「うん」
「なんか……お礼しないと、気が済まなくて……」
財布を出すのも変だ。
今からお茶に誘うのも変だ。
そもそも自分は男の姿のままだ。
何もかもがおかしい。
数秒迷ってから、コハルは袋の中をがさごそ漁った。
そして、一番角の無事そうな小さなカップを取り出す。
「これ……」
「ん?」
「プリンなんですけど……よかったら」
一瞬、レンマが止まった。
「……くれるの?」
「え、はい……なんか、ちゃんとしたお礼じゃなくて申し訳ないんですけど……」
「いいの?」
「え、はい」
「ほんとに?」
「そんな確認します?」
次の瞬間、レンマの顔がぱっと明るくなった。
さっきまでの静かな強者の雰囲気が、一瞬でどこかへ飛んでいくくらいには分かりやすく。
「やった」
「えっ」
「プリン好き」
「そんなに……?」
「うん!」
めちゃくちゃ喜んでいる。
ここまで露骨に喜ばれると、逆にこちらが面食らう。
「……よかったです」
「うん、すごくうれしい」
「そんなに……」
「今日一番テンション上がったかも」
その妙な喜びようのおかげで、コハルの肩から少しだけ力が抜けた。
怖かった時間が、ようやく終わったのだと実感できた。
「じゃあ、ちゃんと休んで」
「はい」
「今夜はもう外出ちゃだめだよ」
「……はい」
「今の返事、反省してる人のやつだった」
「してます……」
レンマは少しだけ笑って、プリンを手にしたまま軽く片手を振る。
「またね、コハルちゃん」
「え」
「たぶん、そのうちまた会うでしょ」
そう言って踵を返す背中は、やっぱり妙に気楽そうだった。
なのに、見送るこちらは最後まで気が抜けない。
コハルはその背中が見えなくなるまで見送ってから、ようやく部屋へ戻った。
◇
玄関の扉を閉めた瞬間、全身の力が抜けた。
「……はあああ……」
壁にもたれたまま、ずるずるとその場にしゃがみ込む。
そして数秒後、熱が引くみたいに変身が解けた。
視界が下がる。肩が狭くなる。
ようやく、自分の身体に戻った。
「……戻った……」
安心したのも束の間、すぐにさっきのやり取りが頭をよぎる。
というか、これを報告しないのはさすがにまずい。
コハルは震える指でスマホを開き、マナトのトーク画面を開いた。
『帰還者に襲われました……』
送った瞬間、既読がつく。
早い。怖い。
次の瞬間、着信が鳴った。
「ひっ」
反射で背筋が伸びた。
恐る恐る通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『外に出ないでくださいって言いましたよね?』
低い。
思ったよりちゃんと怒っている。
「……はい」
『人けの少ないところに一人で行かないでくださいって言いましたよね?』
「……はい」
『なんで出たんですか』
「お腹が減ってて……」
『そこを我慢してください』
「すみません……」
電話口の向こうで、マナトが一度大きく息を吐くのが聞こえた。
怒っている。
怒っているが、それ以上に、たぶんかなり焦ったのだろう。
『怪我は?』
「横腹ちょっと切られました。でも、たぶん大丈夫です」
『たぶんで言わないでください』
「はい……」
『今はどこですか?』
「今は部屋にいます。変身も解けました」
『……そうですか』
少しだけ声が落ち着く。
その変化に、コハルは逆に申し訳なさを強く感じた。
『自分で追い払ったんですか?』
「いや、助けてもらって……」
『誰にですか?』
「レンマさんに」
『……は?』
間があった。
明らかに変な間だった。
『レンマさん?』
「はい。木崎レンマさん」
『本当に?』
「本当です」
『レンマさんが?』
「はい」
『……他人にかなり興味が薄い方なんですけど……? 本当にレンマさんですか?』
「そこ疑います?」
『いや、疑いますよ。コハルさんを送ったんですか?』
「送ってくれました」
『送った?』
「はい」
『……本当にレンマさんですか?』
「二回目ですよ、それ」
思わずそう返してしまうと、電話の向こうでマナトが短く息を漏らした。
笑ったのか、呆れたのか、どちらともつかない音だった。
『……とにかく、今夜は絶対に出ないでください』
「はい」
『鍵、ちゃんとかけて』
「かけます」
『無理ならすぐ連絡してください』
「はい」
『明日、詳しく聞きます』
「……はい」
少し沈黙が落ちる。
それから、マナトはさっきより少しだけ低い声で言った。
『……無事でよかったです』
「……すみません」
『だから、謝る前に次から気をつけてください』
そこで通話が切れた。
コハルはスマホを見つめたまま、深く息を吐く。
怒られた。
しっかり怒られた。
でもあれはたぶん、本気で心配していた人の怒り方だった。
「……ほんとに、ごめんなさいって感じだな……」
呟いてから、ソファに倒れ込む。
横腹が少し痛んで、顔をしかめた。
今日はもう無理だ。
何もかも多すぎる。
帰還者に襲われて、レンマに助けられて、プリンを渡して喜ばれて、マナトに怒られた。
情報量が多いとかいう次元ではない。
「……何なの、この世界……」
そう呟きながら、コハルはクッションに顔を埋めた。
◇
その頃。
夜道を一人歩くレンマの足取りは、来た時より少しだけ軽かった。
片手はポケット。
もう片方には、もらったプリン。
街灯の明かりが、細い影をアスファルトに落としている。
「ふふ」
誰もいない夜道で、小さく笑う。
それから、機嫌のいい時にだけ無意識に出る、短い鼻歌がこぼれた。
暴風の勇者、木崎レンマは、普段あまり他人に執着しない。
正確に言えば、興味が長続きしない。
危ない人間も、面倒な案件も、見飽きた顔も、だいたいすぐに分類が終わる。
けれど、さっきの新入りは少し違った。
助けたあと、真面目な顔でお礼を言って。
男の姿のまま困っていて。
そのくせ、お礼にプリンを差し出してきた。
「……あの子、めっちゃおもしろいなあ」
夜気に向かって、ぽつりと呟く。
知らない身体で必死に戦って、怖がって、消耗しきっていたのに、最後に考えるのが、“何かお礼しないと”なのだ。
変だ。
かなり変だ。
でも、その変さは嫌いじゃなかった。
「また会えるかな」
鼻歌が少しだけ続く。
レンマはプリンを見下ろして、ふっと目を細めた。
夜道を歩く背中は相変わらず気楽そうで、けれどその足取りは、来た時より少しだけ上機嫌だった。




