1-8話:静かに寝たい夜に限って、だいたい酔っ払いが全部ひっくり返してくる
その日の退勤までは、ほとんど地獄だった。
課長には妙に気を遣われるし、ノアには物凄い勢いで怪しまれるしで、気分としてはもう、普通に出社した会社員ではなく、薄い氷の上をヒールで歩かされている人だった。
針のむしろ。 まさにそれである。
だが、それでも。
定時になった瞬間、月岡コハルは、ためらいなくノートPCをぱしゃりと閉じた。
「よし……」
会議資料は完璧だった。
たぶん過去一で出来がいい。 そこだけは、万能の心得に感謝してやってもいい気がした。本当にそこだけだが。
ちらりと隣を見る。
ノアはまだ仕事が終わっていなかった。
「あ、コハルちょっと待ってて~! あと少し――」
言い終わる前に、コハルは立っていた。
「お先失礼します! お疲れ様でしたー!」
バッグを肩に引っかけ、そのまま退散する。
もはや撤収ではなく逃走だった。
「危なっ……!」
誰にも呼び止められないうちに打刻を済ませ、会社を出る。駅へ向かう足も、今日はやたら軽い。
そして、奇跡的に何事もなく、家に帰れたのだった。
「助かった……」
アパートのドアを閉めた瞬間、コハルは心の底から息を吐いた。
金曜の夜。
とりあえずこの週末は、静かに、平和に、何も起こらずに過ごしたかった。
それだけである。それだけなのに、最近はその難易度がやたら高い。
ぴろん。
スマホが鳴る。
「うわ」
反射で身構えたが、画面に出た名前を見て少しだけ力が抜けた。マナトだった。
『今日は大丈夫でした?』
相変わらず、まず心配してくる文面だった。
簡潔で、でもちゃんと気にしている感じがある。そういうところが、地味に良くない。
コハルは数秒考えてから打ち込む。
『棚を壊しかけました』
すぐに返信が返ってきた。
『それは災難ですね。弁償レベルですか?』
『そこまでじゃないです』
『ならよかったです』
「マナトさんの基準が分からない……」
低めの声でひとりごちる。
いや、自分の声は今普通だ。そこは大丈夫だ。たぶん。
さらに通知が続く。
『そうだ。俺、今日会社の飲み会なんですよ』
ぴろん。
『連絡、取りづらくなるかもしれません』
ぴろん。
『なので、くれぐれも変なことには巻き込まれないでください。駆けつけられないので』
その文面を見た瞬間、コハルはちょっとだけ安心した。
と、同時に。少しだけ、がっかりした。
「……は?」
自分で自分に引いた。
(私、何で今、ちょっとがっかりした?いやいやいや! 何を期待してたの!? 怖い怖い怖い!!)
慌ててそれ以上考えるのをやめる。
『了解です』
とだけ返して、スマホを伏せた。
◇
冷蔵庫に残っていた卵二つで炒飯を作る。 夕飯としてはだいぶ雑だが、今のコハルには十分だった。
お風呂も済ませた。髪も乾かした。趣味のWEB漫画漁りも一通り終えた。
「今日はもう寝よう……」
そう呟いてベッドへ向かおうとした、その時だった。
着信。
時刻は、二十三時四十分。
「……やだ」
嫌な予感しかしない。 だが画面を見ると、そこにはマナトの名前があった。
「えっ」
一瞬迷ってから、出る。
「……もしもし」
『あっ、コハルさん』
マナトの声だった。 ただし、いつもと何となく雰囲気が違う。
口調自体はいつも通りなのに、どこか舌足らずで、妙にやわらかい。
『ごめんなさい、こんな時間に。ちょっと、出てきてもらっていいですか? アパートの下、いるんで』
「…………」
コハルは無言になった。
(いるんで、じゃないのよ! 何でいるの!? しかもこの時間に……しかもたぶん酔ってる?)
「どうしたんですか?」
できるだけ平静を装って聞く。
『お願いごとがあって』
その言い方が、もう完全に酔っていた。
◇
ジャージを引っかけ、恐る恐る階段を下りる。
アパートの下には、マナトがいた。
「あ……コハルさん。お疲れ様です」
顔が赤い。
目線が少し虚ろだ。
あと、近づく前から分かるくらい酒くさい。
「大丈夫ですか? めっちゃ酔ってる……?」
「んあ? へーきっす。全然」
「その感じ……全然大丈夫には見えないんですけど」
「大丈夫です。たぶん」
「“たぶん”が入った時点でもうだいぶ危ないんですよ」
マナトは、少しだけふらつきながら、それでも真顔っぽい顔で頷いた。
「で、お願いごとって何ですか?」
「あーー……」
マナトは考え込んだあと、辺りを見回してから言った。
「ここじゃ危ないんで、来てもらっていいすか?」
「え?」
次の瞬間。
ぐい、と手を引かれた。
「ちょ!? えっ!?」
心臓が跳ねる。やばい。いろんな意味でやばい。
(無理無理無理無理!! 近い近い近い!! 今それはまずいって!)
理性でどうにか押しとどめる。男体化だけは、ここではまずい。本当にまずい。
そのまま連れて行かれた先は、少し離れた河川敷だった。
「ど、どうしてこんなところに……?」
夜の河川敷は、人がほとんどいない。
風が冷たく、街灯もまばらで、無駄に雰囲気だけはある。 今はそういうのいらなかった。
するとマナトは、そこで突然、がばっと土下座した。
「え!?」
コハルは飛び上がった。
「何急に!?」
マナトは地面に額がつきそうな勢いのまま、真剣な声で言った。
「コハルさん、男になってもらえないですか」
「え!?」
「ダメですか?」
「何でそうなるんですか!?」
自分で自分の悲鳴に驚くくらいには、綺麗な混乱だった。
「実は、めっちゃ酒癖悪い上司がいて」
「はい」
「ものすごくイライラしまして」
「はい」
「俺、今めっちゃ帯電してるんです」
「はい?」
「このまま放電しないで帰ると、家電が死にます」
「えええええ!?」
すごい勢いで嫌な情報が出てきた。
「だから、その……男に」
「受け止めろってこと!?」
「コハルさんの男体化なら、俺の雷帝掌握もたぶん耐えられるはずなんで」
「たぶんで言わないで!」
「理論上は」
「その理論が怖いの!」
「俺を助けると思って……ね?」
立ち上がったマナトが、少し潤んだ目でこちらを見る。
酔っているせいで、普段よりだいぶ表情がやわらかい。そしてその顔が、普通に良い。
やめてほしかった。
「いや、そんな顔されても! 絶対痛いじゃないですかそれ!」
「じゃあ……」
マナトがふらりと一歩近づく。
「これで、男体化してくれますか……?」
「は?」
その意味を理解するより先に。
唇に、やわらかい感触が触れた。
「――っ」
世界から音が消えた。
思考が止まる。
呼吸も止まる。
心臓だけが、馬鹿みたいにうるさくなる。
「えっ……えっ……うそ……」
離れたマナトが、ぼんやりとした目でコハルを見つめる。
「困り顔のコハルさん……かわいい……」
無理であった。
身体の奥が、一気に熱を持つ。
視界が持ち上がる。
骨が伸びる。
腕が太くなる。
脚が長くなる。
「うわああああああ!?」
「おお」
「何その反応!?」
「さすがっすね……」
対して本人は、なぜかちょっと感心していた。事の重大さを、全然分かっていない。
「それじゃ、本気で放電させてもらいますね」
据わった目のマナトが口角を上げる。
「俺もう、限界なんで。今にも漏れそう……」
「ちょ!!? 言い方!!?」
マナトの指先から青白い火花が飛び散る。
「ちょっと待って怖い怖い怖い!!」
「俺の電撃、受け止めてください」
「いやああああああ!!」
次の瞬間。
ばちばちばちばちっ、と青い稲妻が夜の河川敷を裂いた。
「うわあああああああ!!」
もうどうにでもなれ、と思った。
コハルは半ばやけくそで、その電撃を包み込むように受け止めた。
◇
結果から言うと。
結構痛かった。
「痛っっっっっっっ……!!」
普通に叫んだ。普通に無理だった。
ただ、もっと酷いことになるかと思っていたので、それだけで済んだのは間違いなく万能の心得が凄すぎたせいだった。
常人が受け止めていた場合、骨すら残さず消し炭になっていた可能性すらある。
そして放電し終わったマナトはというと。
「……すっきりした……」
そう呟いたあと、そのままぱたりと倒れた。
「えっ……えっ!? ちょっと待って、そこまでがセットなの!?」
最悪である。
結局コハルは、男体化したまま気絶したマナトを抱え、自分のアパートまで戻ることになった。
「何で私、金曜の深夜に男の人抱えて帰ってるんだろ……」
しかも自分は男のままである。
状況がひどい。
絵面もひどい。
誰にも見られなくて本当によかった。
どうにか部屋へ運び込み、マナトをソファへ寝かせる。
靴を脱がせ、ブランケットまで掛けた自分がちょっと悔しい。
だが放っておけるほど薄情にもなれなかった。
「自分の家に男の人がいるって……眠れるわけない……」
そう呟きながらも、コハル自身、電撃を真正面から受け止めた疲労がかなり大きかった。
ベッドに倒れ込む。男のまま。最悪である。
だが、次の瞬間には意識が沈んでいた。
◇
翌朝。
「あの、起きてください」
低くて落ち着いた声がした。
「ひゃあ!!!」
コハルはベッドの上で飛び起きた。心臓が口から出るかと思った。
見ると、少し寝癖のついたマナトが、ベッドのそばで気まずそうに立っている。
「あの……」
マナトは頭をぽりぽりとかきながら言った。
「俺、昨日コハルさんの家に押しかけたところまでは覚えてるんですけど……」
「…………」
「その」
マナトの視線が、コハルの今の姿――男のままの状態――へ向けられる。
「たぶん、やっちゃいましたよね?」
「あっ……」
そこでコハルは、自分がまだ男のままだと気づいた。
昨日のことが、一気に蘇る。
河川敷。
土下座。
放電。
そして――キス。
「…………」
顔が熱い。
いや今は男だから、熱くても分かりづらいのが余計に腹立たしい。
マナトは珍しく、少しだけ目を逸らした。
「……何か、すみません」
「いや……」
「酔ってる時の自分、ちょっと信用なくて」
「ちょっとじゃないと思います」
「そうですね……」
「そこは認めるんだ……」
しばらく気まずい沈黙が落ちる。
だが、ここで正直に言うわけにはいかなかった。
“キスされて男体化しました” ――そんなことを口にした瞬間、自分が二度と平静でいられる気がしない。
だから、コハルは必死に平然を装った。
「……大丈夫です」
「え?」
「何もなかったんで」
「何も?」
「何も」
「本当に?」
「本当に」
自分でも分かるくらい、言い方が硬い。だがもう押し切るしかない。
マナトは少しだけ怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追及してこなかった。
「……なら、よかったです」
「よくはないです」
「ですよね」
「全然よくないです」
「はい……」
朝のワンルームに、なんとも言えない沈黙が落ちる。
ソファには酔っ払いが寝ていた痕跡。ベッドの上には男のままの自分。 しかも昨夜の記憶は、変に鮮明だ。
コハルは思った。
静かに週末を過ごしたいだけだった。
ただそれだけだったのに。
なぜ金曜の深夜にキスされて、放電を受け止めて、土曜の朝に気まずい会話をしなければならないのか。
「……もうやだ……」
低い声で呟くと、マナトがすごく申し訳なさそうな顔をした。
だが、今のコハルにはそれすら少し危なかった。
どうやら次に本気で攻略しなければならないのは、ノアでも、会社でも、女神の説明不足でもなく。
たぶん――酔ったマナトだった。




