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3-2話:準備を始めた時点で、だいたい巻き込まれる覚悟は決まっている

 作戦会議が終わっても、病室の空気はすぐには元へ戻らなかった。


 朱雀商会。

 特異帰還者。

 首傷の番犬。

 帰還者の売買。


 聞かされた言葉の一つ一つが、コハルの胸の奥へ重く沈んでいる。


「……明日の夜、ですか」


 ぽつりと呟くと、レンマが肩をすくめた。


「急だよねぇ」


「急すぎませんか?」


「急すぎるねぇ」


「認めるんですか!?」


「だって、急だもん」


 レンマはいつもの調子で笑った。

 けれど、その目には笑みがなかった。


「でも、こういうのは時間を置くほど面倒になる。向こうに逃げられるし、証拠も消される。回収された帰還者だって、別の場所へ移されるかもしれない」


 マナトが言葉を引き継ぐ。


「朱雀商会が月船の探究者と繋がっている以上、長引かせる方が危険です」


「……ですよね」


 分かっている。

 頭では理解している。

 けれど、心が追いつかない。

 つい最近まで、自分はただの会社員だった。


 仕事をして。

 家に帰って。

 ご飯を食べて。

 お風呂に入って。

 眠る。

 そんな生活を取り戻そうとしていた。


 それなのに今は、病室で帰還者組織の壊滅作戦について話している。

 どう考えても、普通ではない。


「コハル」


 リンカに呼ばれ、コハルは顔を上げた。


「怖いか?」


「……怖いです」


 強がる余裕などなかった。

 だから、正直に答えた。


「帰っていいなら、帰りたいです。でも、何も知らないまま帰る方が、もっと怖いです」


 口にしてから、自分でも驚いた。

 リンカが目を細める。


「いい判断だ」


「そうなんですか?」


「ああ」


 リンカは頷いた。


「怖いのに残る奴は、案外しぶとい」


「褒められている感じがしないんですが……」


「褒めてる」


 雑な言い方だった。

 けれど、その雑さに救われた。


「とはいえ、お前を前線に出す気はない」


 リンカはきっぱりと言い切った。


「ただし、明日までに最低限やることがある」


「最低限……」


「一つ。自分の力がどう動くのか確認する」


 リンカが指を一本立てる。


「二つ。逃げ方を覚える」


 二本目。


「三つ。助けを呼ぶタイミングを覚える」


 三本目の指が立った。


「この三つだ」


 コハルは目を瞬かせる。


「攻撃の練習じゃないんですか?」


「いらん」


「いらないんですか!?」


「今のお前が攻撃を覚えようとしたら、周りが止める前に変な方向へ吹っ飛ぶ」


「そんなにですか!?」


「そんなにだ」


 リンカが即答する。

 マナトも頷いた。


「現状、コハルさんの力は発動条件も出力も不安定です。攻撃訓練より、制御と回避を優先すべきです」


 レンマが軽く手を振る。


「それに、逃げるのは大事だよ。強い人ほど、逃げるのも上手いからね」


「レンマさんが言うと、説得力があるような、ないような……」


「あるでしょ。俺、逃げ足めちゃくちゃ速いよ」


「自慢なんですか?」


「生存技能だよ」


 妙に胸を張るレンマに、コハルは思わず笑った。

 その時、クニヒロが低い声を落とす。


「笑ってる場合か」


「す、すみません」


「いや、笑えるなら笑っとけ」


「え?」


 クニヒロは腕を組んだまま、視線を逸らした。


「明日になったら、笑う余裕なんざなくなるかもしれねえ」


 言い方は乱暴だった。

 けれど、心配してくれているのだろう。


「クニヒロさんって、意外と優しいんですね」


「あ?」


「すみません。何でもないです」


 睨まれたので、即座に撤回した。

 レンマが横で吹き出す。


「コハルちゃん、命知らずだねぇ」


「今のは素直な感想だったんです!」


「なおさら危ないねぇ」


「殺すぞ、レンマ」


「俺じゃなくない?」


 いつものやり取り。

 だが、その軽さは長く続かなかった。

 リンカが息を吐く。


「場所を移すぞ」


「場所?」


「訓練室だ」


          ◇


 病室を出る。

 白い廊下。

 消毒液の匂い。

 静かな空間に、足音だけが響いていた。


 コハルは歩きながら、自分の手を見下ろす。

 この手で何ができるのか。

 何を守れるのか。

 まだ、何も分からない。

 ただ一つだけ、はっきりしていることがある。

 自分はもう、何も知らないふりをして帰れる場所にはいない。


 廊下の奥。

 関係者専用と書かれた扉の前で、ジュンタが足を止めた。

 カードキーをかざす。

 電子音が鳴り、扉が開いた。


 中は広かった。

 天井が高い。

 床も壁も、金属と石材の中間のような素材で造られている。

 壁面には魔法陣を思わせる紋様が浮かび、天井にはいくつもの照明が並んでいた。


「うわ……」


 コハルは声を漏らした。


「すごい……」


「耐魔構造の訓練室です」


 マナトが説明する。


「多少の魔力暴走であれば、吸収できます」


「多少って、どのくらいですか?」


「レンマさんが本気で風を出さなければ、壊れません」


「俺基準なの?」


「あなたは壊す側でしょう」


「否定はしないけどさ」


 レンマが苦笑する。

 リンカは訓練室の中央へ視線を向けた。


「まずは確認だ」


「はい」


「コハル。あの姿になれるか?」


 その言葉に、コハルの身体が固まった。


 あの姿。

 男の姿。

 万能の心得(フルポテンシャル)が発動した時の、もう一人の自分。


 思い出しただけで顔が熱くなる。


「……ここで、ですか?」


「ここでだ」


「みんな見てるんですけど……」


「見てるな」


「リンカさん!?」


 助けを求めるように周囲を見る。


 マナトは真面目な顔で目を逸らした。

 レンマは楽しそうに笑っている。

 リュウスケは壁を見ていた。

 クニヒロは興味がなさそうに腕を組んでいる。

 ジュンタは殴られた顎を押さえながら、離れた場所に立っていた。


「いや、無理です! 気まずいです!」


「気持ちは分かる」


 リンカが頷く。


「だが、お前の能力を確認する必要がある」


「う……」


「それに、今さらだろ」


「今さら!?」


「あの場にいた奴らは、だいたい見てる」


「言わないでください!」


 コハルは両手で顔を覆った。

 本当に帰りたい。

 異世界や月船や朱雀商会より先に、この羞恥心から逃げ出したい。


 けれど、恥ずかしいだけで済ませられる状況ではなかった。

 いざという時に、万能の心得(フルポテンシャル)が発動しない。

 それは致命的だ。


 これまでは追い込まれ、必死になり、気づいた時には発動していた。

 だが、明日も同じようになるとは限らない。

 必要な時に、必要な形で使えなければ意味がない。


 コハルは、ゆっくりと手を下ろした。


「……やります」


 マナトの目が動く。

 レンマの笑みが消える。

 リュウスケもコハルへ視線を向けた。

 リンカは満足そうに口元を上げる。


「いい顔になったな」


「顔は見ないでください」


「注文が多いな」


「今、かなり頑張ってるんです!」


「分かってる」


 リンカは頷いた。


「なら、やれ」


 コハルは目を閉じた。

 意識を集中させる。


 胸の奥。

 身体の奥。

 異世界から持ち帰ってしまった、女神の加護。

 万能の心得(フルポテンシャル)。

 自分を最適化する力。


 今までは怖かった。

 身体が変わることが。

 自分が自分でなくなるような感覚が。

 けれど。

 使わなければ、守れない。

 使えなければ、逃げられない。

 使い方を知らなければ、誰かに利用されるだけだ。


「……私は」


 コハルは呟いた。


「私の意思で、使う」


 身体の奥に熱が灯った。


 どくん、と心臓が大きく脈打つ。

 血液の流れが変わる。

 骨格が軋む。

 筋肉が膨れ上がり、視界が高くなる。

 息が深くなる。

 手の大きさが変わる。

 足の感覚が変わる。

 身体が、自分の知らない形へ組み替えられていく。


 気持ち悪い。

 怖い。

 それでも、以前よりは理解できた。

 これは壊れているのではない。

 変わっているのだ。

 生き残るために。

 戦場で折れないために。

 やがて、変化が止まった。


 コハルは目を開ける。

 視界が高い。

 肩幅が違う。

 手が大きい。

 喉へ触れる。

 そこから出る声も、もう別のものになっていた。


「……できました」


 低い声が訓練室に落ちた。

 自分の声なのに、自分の声ではない。


「やればできるじゃないか」


 リンカが満足そうに頷く。


「自力で発動できたな」


 ジュンタは手元の端末へ目を落とした。


「魔力反応も安定してる。前みたいな爆発的な跳ね方じゃない。かなり落ち着いてるよ」


「本当ですか?」


「ああ。追い詰められて暴発したというより、自分で力を引っ張り出した感じだね」


 その言葉に、コハルの胸が熱くなる。

 できた。

 怖かった。

 恥ずかしかった。

 それでも、自分の意思で変われた。


「……よかった」


 思わず漏らすと、レンマが笑った。


「すごいじゃん、コハルちゃん」


「その姿でコハルちゃんって呼ばれると、だいぶ変な感じです」


「じゃあ、コハルくん?」


「もっと変です!」


 レンマが楽しそうに笑う。

 マナトが咳払いした。


「茶化さないでください」


「ごめんごめん」


 リュウスケが頷く。


「今の発動は、綺麗だったと思う」


「ありがとうございます」


 低い声で礼を言う。

 やはり、自分でも違和感があった。

 クニヒロは腕を組んだまま、コハルを見つめている。


「……戦えそうな身体してんな」


 褒められているのか、品定めされているのか分からない。

 それでも、胸の奥に熱いものが広がった。

 リンカが口を開く。


「よし。じゃあ、次だ」


「次?」


「クニヒロ」


「あ?」


「前に出ろ」


「何で俺なんだよ」


「お前が一番、分かりやすい負荷をかけられるからだ」


 リンカは淡々と告げる。


「土門クニヒロ。通称、天秤の勇者。スキルは叛逆引力《アンチ・グラビティ・レイジ》」


「勝手にペラペラ喋んな」


「重力を操る力だ。押し潰す。浮かせる。引き寄せる。弾く。単純だが、応用範囲は広い」


「聞けよ」


「聞いてる」


「聞いてねえだろ」


 クニヒロが舌打ちする。

 リンカは気にせず続けた。


「コハル。今からクニヒロに重力負荷をかけてもらう」


「重力負荷……?」


「平たく言えば、身体が重くなる」


「分かりやすい……」


「その身体の使い方を覚えろ」


 リンカの目が鋭くなる。


「朱雀商会からどんな妨害を受けるか分からない。普段と身体の使い勝手が違う以上、今のうちに叩き込んでおいた方がいい」


 コハルは唾を飲み込んだ。


「……分かりました」


「十秒耐えろ」


「十秒」


「それだけでいい」


 マナトが一歩前へ出た。


「リンカさん。それは危険です」


「あ?」


「コハルさんは、発動を安定させたばかりです。いきなり重力負荷をかけるのは、負担が大きすぎます」


「危なくねえ修行なんて、修行じゃねえだろうが」


「その考え方は古いです」


「今、あたしを年寄り扱いしたか?」


「していません。無茶を無茶と言っているだけです」


 空気が鋭くなる。

 マナトは引かない。

 リンカも引かなかった。


 その間で、コハルは自分の手を握る。

 大きな手。

 男の姿になった、自分の手。

 怖い。

 重力をかけられるなど、聞いただけでも恐ろしい。

 けれど、ここで何もしなければ、明日はもっと怖い。


「……やります」


 コハルが告げる。

 マナトが振り向いた。


「コハルさん」


「無理だったら、すぐに止めます」


「ですが」


「お願いします」


 コハルはマナトを見つめた。


「私は、何もできないまま明日を迎える方が怖いです」


 マナトの表情が揺れる。

 レンマは目を細めた。

 リュウスケも黙ってコハルを見ている。

 リンカが笑った。


「本人がこう言ってる」


「……分かりました」


 マナトは渋々頷く。


「ただし、危険だと判断したら即中止です」


「はい」


「クニヒロさんも、加減してください」


「分かってる」


 クニヒロは面倒くさそうに答えた。


「潰す気でやるわけねえだろ」


「今の言い方が、すでに怖いです」


「じゃあ、逃げるか?」


「逃げません」


 コハルは訓練室の中央へ立った。

 数メートル先で、クニヒロが片手を上げる。


「本気じゃねえ。軽くいく」


「はい」


「膝をついたら終わりだ」


「分かりました」


 心臓が速く鳴る。

 自分の足で立つ。

 呼吸を整える。


 十秒。

 たった十秒。

 けれど、きっと長い。


「始めろ」


 リンカの声が飛ぶ。

 クニヒロの指が下がった。


 ブウォン。


 空気が沈んだ。


「ぐっ……!」


 全身に重さがのしかかる。

 肩が沈む。

 背骨が軋む。

 足首が悲鳴を上げる。

 呼吸が詰まる。

 重い。

 立っているだけなのに、見えない鉄の塊を背負わされているようだった。

 耐えろ。


 そう思った次の瞬間。

 膝が落ちた。

 ガン、と床へ叩きつけられる。


「終了」


 リンカの声と同時に、重力が消えた。


「はっ……!」


 コハルは大きく息を吸う。

 肺に空気が戻る。

 身体が急に軽くなり、反動でふらついた。

 マナトがすぐに駆け寄る。


「コハルさん」


「だ、大丈夫です……」


「大丈夫には見えません」


「びっくりしただけで……」


 ジュンタが端末を確認した。


「一・六秒」


「短っ……!」


 コハルは声を上げた。

 リンカが腕を組む。


「まあ、初回ならそんなもんだ」


「そんなもんですか!?」


「そんなもんだ」


 クニヒロがつまらなそうに言う。


「踏ん張り方が悪い」


「踏ん張り方……?」


「上から押されると思って耐えてるだろ」


「違うんですか?」


「違う」


 クニヒロは自分の足元を指した。


「重力は上から来るだけじゃねえ。全身を地面へ引きずり込む。肩だけで耐えるな。足の裏で噛め。腹に力を入れろ。首を下げるな」


「足の裏で……噛む」


「地面を掴むみてえに立て」


 乱暴な言い方だった。

 それでも、説明は分かりやすい。


 コハルはゆっくりと立ち上がった。


 足の裏。

 腹。

 首。

 肩ではなく、全身で受ける。


「もう一回、お願いします」


 マナトが眉を寄せる。


「コハルさん」


「今のままだと、何も分からないまま終わってしまいます」


「……」


「あと一回だけ」


「その言い方をする人は、大抵一回で終わりません」


「うっ」


 図星だった。

 レンマが笑う。


「マナト、保護者力高いねぇ」


「茶化さないでください」


 リンカが口元を上げる。


「三回までだ。それ以上は、今日はやらせない」

「分かりました」


「クニヒロ。さらに負荷を落とせ」


「さっきもかなり落としてたんだがな」


「もっとだ」


「チッ」


 クニヒロは舌打ちしたが、指を構えた。


 コハルは足を肩幅に開く。

 地面を掴む。

 腹に力を込める。

 首を下げない。

 逃げない。

 立つ。


「開始」


 ブウォン。

 二度目の重さが襲いかかる。


「っ……!」


 身体が沈む。

 けれど、今度は膝をつかなかった。

 足の裏で床を掴む。

 腹へ力を込める。

 首を下げない。

 視線を前へ。


 太ももが震える。

 息が詰まる。

 怖い。

 痛い。

 重い。

 それでも。


「っ、まだ……!」


 膝が笑う。

 肩が落ちる。

 視界が滲む。


 四秒。

 五秒。

 そこで限界が来た。

 膝が床へ落ちる。


「終了」


 重力が消えた。


 コハルは肩で息をする。


「五・二秒」


 ジュンタが言った。


「伸びたね」


「……伸び、ました?」


「三倍以上だよ」


 レンマが笑う。


「すごいじゃん」


 マナトも息を吐いた。


「今のは良かったです」


 リュウスケが頷く。


「立ち方が変わった」


 クニヒロは鼻を鳴らした。


「少しはマシになったな」


「は、はい……! 何とか……」


 コハルは額の汗を拭う。

 心臓が速い。

 けれど、一度目ほど怖くはなかった。

 重さの正体が、わずかに分かった気がする。


「あと一回」


 コハルが告げる。


 即座にマナトが口を開いた。


「最後です」


「はい」


「本当に最後です」


「はい」


「終わったら休憩です」


「はい」


 圧がすごい。

 けれど、ありがたかった。

 無理を止めてくれる人がいる。

 それだけで、前へ踏み込める。


 コハルは三度目の位置についた。

 クニヒロが構える。


「今度は、横にも引く」


「え?」


「実戦なら、真下だけとは限らねえ」


「急に難易度が上がってませんか!?」


「嫌ならやめろ」


「やります!」


「いい返事だ」


 クニヒロの口元が歪む。

 リンカは面白そうに見ていた。

 マナトだけは、明らかに不服そうだった。


「開始」


 ブウォン。

 重力が襲いかかる。

 今度は真下ではない。

 右。

 身体が斜めに引かれた。


「うわっ……!」


 足が滑りかける。

 だが、コハルは踏み直した。


 床を掴む。

 腹に力を込める。

 視線を前へ。

 右へ引かれるなら、左足で支える。

 肩ではなく、腰で受ける。

 呼吸を止めない。


 右へ引かれる。

 次は左。

 身体が大きく振られた。


「っ……!」


 倒れる。

 そう思った。

 けれど、倒れなかった。


 一歩、足を出す。

 踏み込む。

 耐えるのではなく、動いて逃がす。

 その瞬間、身体へかかっていた負荷が流れた。


「お」


 クニヒロが声を漏らす。

 リンカの目が細くなった。


 五秒。

 六秒。

 七秒。

 足が震える。

 もう限界だ。

 それでも、あと少し。


「っ、まだ……!」


 八秒。

 九秒。

 視界が歪む。

 十秒。


「終了」


 重力が消えた。

 同時に、コハルの身体から力が抜ける。


「わっ……!」


 倒れかけた身体を、マナトが支えた。


「言いましたよね。最後だと」


「まだ何も言ってません……!」


「言う前に止めています」


「早い……」


 マナトの圧に、コハルは逆らえない。

 ジュンタが端末を確認し、笑った。


「十・一秒」


 沈黙が落ちる。

 コハルは目を瞬かせた。


「……十秒、超えたんですか?」


「ああ」


 リンカが頷く。


「合格だ」


 その言葉に、胸の奥が熱くなった。


 たった十秒。

 ただ立っていただけ。

 それでも、今のコハルにとっては大きな一歩だった。


「……できた」


 低い声で呟く。

 レンマが拍手する。


「いいねぇ。成長が早いじゃん」


 リュウスケも頷いた。


「最後、逃がせてた」


「逃がす?」


「力を真正面から受けなかった。動いて流した」


 クニヒロが腕を組む。


「そうだ。重力に限らず、全部まともに受けようとすんな。受けたら潰れる力は、逃がせ」


「……はい」


「覚えとけ。根性だけで立つ奴は、早死にする」


 その言葉は、妙に重かった。

 コハルはしっかりと頷く。


「覚えます」


「よし」


 クニヒロは、それ以上何も言わなかった。

 けれど、それで十分だった。

 リンカが満足そうに口元を上げる。


「いい訓練になったな」


「リンカさん、ちょっとスパルタすぎます」


「生き残っただろ」


「結果論です!」


「結果が出ればいい」


「怖いです!」


 コハルが叫び、訓練室の空気が和らいだ。

 その時だった。


 ピッ。

 短い電子音が響いた。

 ジュンタの端末だった。

 画面を見たジュンタの表情から、笑みが消える。


「……リンカ」


「何だ」


「朱雀商会の取引場に動きがあった」


 空気が変わった。

 緩んでいた緊張が、一瞬で張り詰める。


 マナトがコハルから手を離し、姿勢を正した。

 レンマの目が細くなる。

 リュウスケも顔を上げる。

 クニヒロが壁から背を離した。


「予定より早いのか?」


 リンカが尋ねる。

 ジュンタは端末を操作しながら頷いた。


「明日の夜じゃない」


 一拍。


「今夜、搬出がある」


 コハルの喉が鳴った。

 今夜。

 つまり。


「……作戦、前倒しですか?」


 自分の声が、想像以上に低く響いた。

 リンカは笑った。

 獲物を前にした獣のような笑みだった。


「どうやら、向こうも待ってくれないらしいな」


 車椅子に座ったまま、暁光の勇者が告げる。


「全員、準備しろ」


 病室で決まったはずの作戦は、もう過去のものになった。

 訓練室の空気が、一気に戦場の色へ染まっていく。


 コハルは拳を握った。

 震えている。

 怖い。

 けれど、立ち方は覚えた。

 力の逃がし方も、ほんのわずかに理解した。

 助けを呼んでいいことも、もう知っている。

 そして何より。

 自分が一人ではないことを知っている。


 月岡コハルは、深く息を吸った。

 平穏は終わった。

 準備の時間さえ、敵は与えてくれなかった。

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