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2-30話:腕立て伏せをしていた時点で、だいたい安静の意味が消えている

 マナトとレンマが去ったあと。

 病室には、再び静かな空気が戻っていた。


 窓から差し込む昼の光。

 白いシーツ。

 消毒液の匂い。

 コハルは、右手首のブレスレットへ目を落とした。

 銀色の輪。

 埋め込まれた小さな石が、淡い光を揺らしている。


 昨日の戦闘を思い出す。

 怖かった。

 痛かった。

 泣きそうだった。


 それでも。

 助けてもらった。

 守ってもらった。

 そして、自分の足でも立てた。

 何度も「ありがとう」と言われた。

 何度も心配された。

 そのたびに、胸の奥が落ち着かなくなった。


 ふと、コハルは一人の男を思い出す。


「……リュウスケさん」


 右腕を斬られたと思い込まされながら、それでも最後まで戦い続けていた背中。


(大丈夫かな……)


 迷った末に、コハルは病室を出た。


          ◇


 医療棟の廊下は静かだった。


 窓から入る柔らかな光。

 遠くから聞こえる足音。

 昼特有の、穏やかな空気。

 コハルは、リュウスケの病室の前で足を止めた。


 コンコン。


「リュウスケさん……コハルです。今、入ってもいいですか?」


「……ん。ああ、いいよ」


 低い声だった。

 どこか、まだ本調子ではないように聞こえる。


「リュウスケさんっ!?」


 コハルは慌てて扉を開けた。

 そして。


「えっ……」


 固まった。


 病室の床。

 そこにいたのは。

 上半身裸のリュウスケだった。

 床へ両手をつき、静かに腕立て伏せをしている。


 ゆっくりと。

 無駄のない動き。

 身体を上下させるたびに、肩や腕の筋肉が滑らかに動いた。


(え……)


 コハルの思考が止まる。


 筋肉質だった。

 服の上からでは細く見えていたのに、実際の身体は綺麗に鍛え上げられている。


 広い肩。

 引き締まった胸板。

 硬そうな腹筋。

 無駄のない腕。

 戦う人間の身体だった。


(着痩せしすぎでしょ……!?)


 いや。

 違う。

 見るところは、そこではない。


「な、何でトレーニングしてるんですか!?」


 コハルが叫ぶ。

 リュウスケは腕立て伏せを続けたまま答えた。


「……暇」


「暇だからって、腕立てしないでください!」


「でも、動けるし」


「昨日、腕を斬られたんですよね!?」


「幻術だから」


「いや、でも!?」


 コハルは半泣きになった。

 リュウスケは相変わらず淡々としている。


「昨日は、さすがに動かなかったよ」


「何でもう動かせるんですか!!」


「……さあ?」


「さあじゃないです!!」


 コハルは慌てて近づいた。


「と、とにかく駄目です! ベッドへ戻ってください!」


「えー」


「えーじゃありません!」


 コハルはリュウスケの腕を掴み、半ば強引に立ち上がらせた。

 その瞬間。


(うわっ……)


 熱い。

 近い。


(筋肉、硬っ……!)


 想像以上にしっかりした身体に、心臓が妙な跳ね方をした。

 コハルは慌てて視線を逸らす。


「……?」


 リュウスケが不思議そうに首を傾げた。


「顔、赤いよ」


「赤くないです!!」


「そう?」


「そうです!」


 コハルは勢いのまま、リュウスケをベッドへ押し戻した。


「はい! 安静!」


「理不尽」


「理不尽じゃありません!」


 リュウスケは不満そうだった。

 それでも抵抗はせず、ベッドへ腰掛けたままコハルを見る。


「コハルさんは、もう大丈夫なの?」


「はい! こんなに包帯だらけですけど、見た目以上に元気です!」


「……よかった」


 小さな声だった。

 コハルは笑う。


「リュウスケさんも、思ったより元気そうで安心しました」


「ん」


 そこで。

 リュウスケが、じっとコハルを見つめた。

 無言。

 静かな視線。


「……な、何ですか!? 顔に何かついてますか!?」


「いや」


 リュウスケは考えるように目を細めた。


「不思議だなって」


「何がですか?」


「コハルさん、男体化すると、僕より大きくて、いい身体してた」


「いい身体!?」


 コハルの声が裏返った。

 リュウスケが、はっとした顔をする。


「……あ。ごめん。言い方、まずかった」


「ま、まあ、いいですけど……!」


 いや。

 全然よくない。

 かなり恥ずかしい。

 リュウスケは真面目な顔のままだった。


「かっこよかった」


「え」


「僕も、ああなりたい」


「ええ!?」


 コハルは目を丸くした。


「いやいやいや! リュウスケさん、十分強いじゃないですか!」


「でも、コハルさんのあれ、すごかった」


 リュウスケは静かに続ける。


「圧があった」


「圧……」


「怖かった」


「えぇ……」


「でも、安心もした」


 コハルは黙った。

 リュウスケは、感情を大きく表に出さない。

 けれど。

 今の言葉が本音であることは分かった。


「コハルさん、思っていたより強かった」


「いや、あれは必死だっただけで……」


「分かってる」


 リュウスケは頷いた。


「でも、すごかった」


 コハルは照れくさくなり、視線を逸らした。


「私、リュウスケさんが頑張ってくれたから、期待に応えたかったんです」


「……」


「それと、リンカさんを助けたいって気持ちが重なって」


 リュウスケは黙って聞いていた。


「だから、無我夢中で戦っていました」


 病室に静寂が落ちる。

 窓の外で、風がカーテンを揺らした。

 しばらくして、リュウスケが息を吐く。


「……そっか」


「はい」


「じゃあ、僕も頑張ってよかった」


 安堵したような声だった。

 コハルは目を丸くする。

 それから、柔らかく笑った。


「はい。すごく助かりました」


 リュウスケは、わずかに目を細める。

 それは、たぶん。

 彼なりの笑顔だった。


 そして。


「……あと」


「はい?」


 リュウスケは視線を落とした。


「僕、今回……結構、本気だった」


「え?」


「コハルさんがいたから」


 コハルの瞬きが止まる。

 リュウスケは、言葉を探すように口を開いた。


「何て言えばいいか、分からないけど」


 いつものように、口調は淡々としている。

 けれど、声はいつもより柔らかかった。


「僕、女の人といると……あんまり、ちゃんと話せない」


「……」


「何を考えてるか分からないって、よく言われるし」


「そ、そんなこと……」


「でも」


 リュウスケが、まっすぐコハルを見る。


 静かな瞳。

 戦っていた時とは違う。

 穏やかで、優しい目だった。


「コハルさんは、話しやすい」


「……私が、ですか?」


「うん」


 リュウスケは頷いた。


「一緒にいて、変に構えなくていい」


「……」


「怖がってるのに、逃げないところも」


「え」


「泣きそうなのに、誰かを助けようとするところも」


 リュウスケの声は淡々としていた。

 けれど、その言葉は一つずつ、まっすぐ胸へ入ってくる。


「そういうところ、すごいと思う」


「リュウスケさん……」


「だから」


 無表情だった彼が。

 にこりと、優しく笑った。


「コハルさんは……特別かもしれない」


 ドクン、と。

 コハルの心臓が大きく跳ねた。


「……え?」


 顔が熱い。

 たぶん、今はかなり赤い。


 けれど。

 リュウスケは、自分が何を言ったのか分かっていないような顔で首を傾げた。


「コハルさん?」


「な、何でもないです!!」


 コハルは慌てて顔を逸らした。

 心臓がうるさい。

 病室の静けさの中で、自分の鼓動だけがやけにはっきりと聞こえていた。


          ◇


 コハルが帰ったあと。

 病室には、再び静けさが戻った。

 リュウスケはベッドへ腰掛けたまま、しばらく扉を見つめていた。


 さっきまで、そこにコハルがいた。

 包帯だらけで。

 心配そうな顔をして。

 それなのに、やたらと元気なふりをして。

 そして、すぐに赤くなる。


「……」


 リュウスケは、ゆっくり息を吐いた。

 自分でも分かっていた。

 普段なら、絶対に言わないようなことを言った。


『コハルさんは……特別かもしれない』


 その言葉を思い返した瞬間、耳のあたりが熱くなった。


(何で、あんなこと言っちゃったんだろう……)


 口にしたあとで気づく。

 あれは、かなりまずかった。


 たぶん。

 いや。

 間違いなく。


(まだ、出会ったばかりなのに)


 それに。

 マナトも。

 レンマも。


 コハルを気にかけていることは、見れば分かる。

 マナトは、分かりやすいほど心配しすぎる。

 レンマは軽そうに見えて、絶対に軽くない。


 その二人がいる。

 そのことも、理解していた。


「……駄目なんだけどなぁ」


 ぽつりと呟く。


 けれど。

 コハルが笑った時の顔が、頭から離れない。


 自分の言葉で赤くなった顔。

 慌てて目を逸らした仕草。

 それでも、自分を心配してくれた声。

 思い出すたびに、胸の奥が熱くなる。


 リュウスケは静かに目を伏せた。


(たぶん、これは……放っておけないだけじゃない)


 自覚した途端。

 不思議なくらい、胸が落ち着かなくなった。


 誰かと話すのは得意ではない。

 感情を伝えることも苦手だ。

 相手が何を求めているのかも、よく分からない。


 それでも。

 コハルのことは、知りたいと思った。

 もっと話したい。

 また笑ってほしい。


 そして。

 あの人が危険な場所へ向かうなら、次も自分が前に立ちたいと思った。


「……困ったな」


 困った。

 本当に困った。

 それなのに。

 この熱は、簡単には冷めてくれそうになかった。


 リュウスケは右手を握る。

 幻術による痛みは、まだ残っている。


 それでも。

 手は動く。

 戦える。

 守れる。


「……次は、もっとちゃんと守ろう」


 誰に聞かせるでもなく、リュウスケは呟いた。

 それから、照れたように目を伏せる。


「特別、か」


 自分で言ったくせに。

 その言葉は、いつまでも胸の中から消えてくれなかった。

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