2-28話:帰ってきた時点で、だいたい安心して変身が解ける
ワープゲートを抜けた瞬間、空気が変わった。
白い部屋に満ちていた冷気ではない。
血と魔力の匂いでもない。
朝の澄んだ空気。
湿った土の匂い。
人工照明ではなく、まだ柔らかさを残した午前の光。
そして、人々のざわめき。
コハルたちが戻ってきたのは、ヘリオス・サービス東北支部の中庭だった。
時刻は、午前八時過ぎ。
そこには、大勢の人が集まっていた。
マナト。
レンマ。
カイリ。
アスミ。
シグレ。
そして、数え切れないほどの賢者たち。
誰もが息を詰め、こちらを見つめていた。
数秒の沈黙。
そのあと。
「リンカさんだっ!」
誰かが叫んだ。
「リンカさんが帰ってきた!」
「副社長だ!」
「副社長、万歳!!」
歓声が、中庭に弾けた。
喜びに満ちた声。
泣きそうな声。
安堵に震える声。
信じられないものを目にしたような声。
そのすべてが、一斉にコハルたちへ降り注いだ。
「月岡さん、ありがとうございます!」
「水瀬さん、超強かった!」
「めっちゃ格好よかったー!」
「火岡さん、ギリギリセーフ!」
「土門さん、ちゃんと謝れー!!」
「リンカさん、おかえりなさい!」
「本当に……本当に、ご無事でよかった……!」
「やっぱり勇者ってすげえわ!」
コハルは、ぽかんと立ち尽くした。
リンカの身体を支えたまま。
全身はぼろぼろで。
足も震えていて。
頭の中も、まだ何が起きたのか整理できていない。
それなのに。
目の前の人たちは泣いていた。
笑っていた。
コハルを見つめ、何度も頭を下げていた。
(……私に?)
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
かつて、これほど大勢の人から感謝されたことがあっただろうか。
いや。
あった。
漫画を描いていた頃。
サイン会で、一人の大男に両手で握手されたことがある。
『先生の作品は、痺れます』
物凄い勢いでそう言われ、嬉しさより先に圧倒された。
あのときも、確かに幸せだった。
自分の作品が誰かに届いた。
誰かの心を動かした。
けれど。
(私、もうそんな経験……二度とできないと思ってた)
自分の描いたものが、誰にも届かなくなって。
夢から逃げるように働いて。
異世界に行って。
ようやく帰ってきたと思ったら、普通に生きることさえ難しくなった。
それでも。
今。
誰かが自分を見ていた。
ありがとう、と言ってくれていた。
(こんなにも温かく迎えてもらうことも)
喉の奥が熱くなる。
(誰かの役に立つことも)
視界が滲む。
(自分を、ほんの少しだけ誇りに思うことも)
もう一度できるなんて、思っていなかった。
「……っ」
目頭が熱くなった。
泣きそうになる。
いや。
たぶん、もう泣いていた。
そのときだった。
「コハルさん!」
「コハルちゃん!」
マナトとレンマが、ほとんど同時に駆け寄ってきた。
リンカはコハルの肩から腕を外し、近くにいたジュンタへ身体を預ける。
「行ってやれ」
短く告げられ、コハルは二人へ向き直った。
マナトの顔には、いつもの落ち着きがなかった。
明らかに焦っている。
顔色も悪い。
それでも、コハルを怖がらせまいと、無理に微笑もうとしていた。
「俺、本当に心配で……」
声が震えていた。
マナトは、伝える言葉を選ぼうとしている。
けれど、うまく見つけられない。
それだけで分かった。
本気で心配してくれていたのだと。
「無事に帰ってきてくれて、ありがとうございます」
続いて、レンマが長く息を吐いた。
浮かべているのは、いつもの軽い笑顔。
だが、その奥にある安堵までは隠しきれていなかった。
「……おかえり、コハルちゃん」
柔らかな声だった。
聞いただけで、全身の力が抜けそうになる。
「お二人とも……」
コハルは、涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑った。
「ただいま」
そう口にした瞬間だった。
ボンッ。
軽い音が鳴った。
「……あ」
視界が低くなる。
肩幅が縮む。
腕の重さが変わる。
全身に入っていた力が、急速に抜けていった。
男体化が解けた。
コハルは、元の姿へ戻っていた。
「あっ。また、安心したら……」
我ながら情けない声が出た。
マナトはわずかに目を見開き、深く息を吐いた。
「戻ってよかったです」
その声には、心からの安堵が滲んでいた。
レンマも、いつもの調子で笑う。
「今日はもう、ゆっくり休もう。さすがに頑張りすぎ」
「それは……はい。否定できません……」
答えた途端、コハルの膝が揺れた。
体力は限界。
精神も限界。
どうやら今まで、気合いだけで立っていたらしい。
マナトがすぐに手を伸ばす。
「コハルさん」
「だ、大丈夫です。立てます。たぶん」
「たぶんは、大丈夫ではありません」
「正論が早い」
レンマが隣で苦笑した。
「ほら、無理しないの。今日くらい運ばれても、誰も笑わないから」
「いや、それはちょっと……」
言いかけたところで、視界の端にリュウスケが映った。
彼は、離れた場所に立っている。
右腕を庇うように、左手で押さえていた。
腕はある。
血も出ていない。
傷も残っていない。
それでも、指先は震え続けていた。
「リュウスケさん……」
コハルが呼ぶと、リュウスケは静かに顔を上げた。
「大丈夫」
「絶対、大丈夫じゃないやつです」
「……少し痛いだけ」
「それ、大丈夫じゃないやつです!」
思わず声を上げると、リンカが小さく笑った。
「お前ら、よくそんな状態で漫才できるな」
「してません!」
「してるよ」
レンマが平然と言った。
「してませんってば!」
張り詰めていた空気が、そこでようやく緩んだ。
賢者たちからも、安堵の息が漏れる。
誰かがリンカへ駆け寄ろうとして、彼女の疲労した姿を見て足を止める。
別の誰かは、担架を用意しようと走り出した。
医療班らしき賢者たちも、足早に近づいてくる。
「副社長、処置を行います」
「後にしろ。先にこいつらだ」
リンカは、コハルとリュウスケを顎で示した。
「いやいやいや、リンカさんが先です!」
「お前も相当だぞ」
「私は見た目より無事です!」
「見た目がもう無事じゃないんだよ」
レンマが呆れた声で言った。
コハルはそこで、ようやく自分の服が至るところで破れていることに気づいた。
膝は擦りむけている。
腕にも傷がある。
頬にも鈍い痛みが残っていた。
認識した途端、全身の痛みが一気に押し寄せてきた。
「……痛い」
「今気づいたんですか!?」
マナトの声が裏返る。
「いや、戦っているときはそれどころじゃなくて……アドレナリン?」
「だから心配なんです!」
「すみません!」
反射的に謝った。
その様子を見た賢者たちは、気遣うように距離を取った。
「皆さん、解散しましょう」
アスミが告げた。
いつもどおり淡々とした声だったが、目元は赤くなっていた。
「リンカさんは戻りました。コハルさんたちも戻りました。今は、治療と休息を優先します」
その言葉を受け、賢者たちが頷く。
「月岡さん、本当にありがとうございました」
「水瀬さんも、ありがとうございました」
「副社長、おかえりなさい」
何度も頭を下げながら、彼らは一人、また一人と中庭を後にしていった。
歓声の余韻が、午前の風へ溶けていく。
残ったのは、勇者たちと、リンカに近しい者たちだけだった。
リンカは担架に乗せられかけ、露骨に顔をしかめた。
「歩ける」
「歩けません」
カイリが即答する。
「俺が運びます」
「お前が言うと重い」
「重くて結構です!」
カイリは半泣きだった。
リンカは黙って彼を見つめたあと、諦めたように息を吐く。
「……悪かったな。心配かけた」
その一言で、カイリの顔がぐしゃりと歪んだ。
「本当ですよ……!」
泣くのを堪えながら、カイリはリンカのそばについた。
その横で、ジュンタが静かに炎を消す。
ワープゲートは完全に閉じていた。
もう、あの白い部屋には戻れない。
いや。
戻る必要はない。
「……終わったんですね」
コハルが呟く。
マナトは、間を置いてから答えた。
「リンカさんの救出は、終わりました」
その言い方に、胸の奥が重くなる。
そうだ。
すべてが終わったわけではない。
ユッカ。
エリィナ。
会いたくない。
本当に、二度と会いたくない。
それでも。
いつか必ず、また会うことになる。
そんな予感が消えなかった。
「コハルちゃん」
レンマが、いつもより優しい声で呼んだ。
「今は考えなくていい」
「……でも」
「明日考えよう」
レンマは穏やかに笑った。
「今日は、生きて帰ってきた。それで十分」
コハルは唇を噛み、やがて頷いた。
「はい」
そこから先の記憶は、あまりはっきりしていない。
医療室へ連れていかれた。
傷を診察された。
消毒液が染みて、悲鳴を上げた。
マナトにまた心配されて。
レンマには笑われた。
リュウスケは無言で治療を受けていたが、右手の震えがなかなか収まらず、医療班に真顔で囲まれていた。
リンカは案の定、途中で起き上がろうとしてカイリに怒られた。
そして。
昼を過ぎた頃。
勇者たちは、死んだように眠った。
誰もが限界だった。
それでも、その眠りは悪夢ではなかった。
少なくとも、コハルにとっては。
白い部屋ではなく。
黒い裂け目でもなく。
誰かの腕が飛ぶ光景でもない。
夢の中で、コハルはただ、中庭に立っていた。
朝の光の中。
たくさんの声が聞こえる。
ありがとう。
おかえり。
助かった。
その声に包まれながら、コハルは笑った。
帰ってこられた。
生きて、帰ってこられた。
それだけで、今日は十分だった。




