2-24話:取引が成立したと思った時点で、だいたい全部ひっくり返される
ワープゲートをくぐり抜けた先は、白い部屋だった。
果てがない。
壁も。
床も。
天井も。
すべてが白い。
距離感が狂うほど、どこまでも白だけが続いている。
その中央には、机と椅子が二組だけ置かれていた。
そして、天井近く。
巨大な鳥籠を思わせる結界が浮かんでいる。
細い光の格子に囲まれた奥で、日高リンカが幽閉されていた。
「リンカさん……!」
コハルが声を上げる。
けれど、リンカは反応しない。
ぐったりとうなだれたまま、光の格子の中で動かなかった。
「ようこそ〜! 歓迎するよ〜!」
場違いなほど明るい声。
エリィナだった。
軽薄な口調。
浮かべたままの笑顔。
人を攫ったことなど、まるで悪いと思っていない。
「うわ、その顔。もしかして寝てない?」
エリィナはリュウスケを見て、にやにやと笑った。
「それは悪いことしたなぁ〜! すごく疲れた顔してるねぇ〜! いろんな抜け道とか考えてくれてたんだろうけど、ご愁傷様!」
「……」
リュウスケは答えない。
エリィナを真っ直ぐ見つめていた。
「世界綴りの万年筆は、超強力なSランク異世界遺物だからね〜!」
エリィナは、黒い万年筆を指先でくるくると回す。
「抜け道なんて探す前に、試したら死んじゃうよ〜。調べれば調べるほど、絶望的だったんじゃない?」
挑発するような笑顔。
リュウスケの身体から、冷気が漏れ出した。
白い床が薄く凍りつく。
「うわー、怖い!」
エリィナが大げさに肩をすくめる。
「ダメダメ。エリィナに触れたら、日高リンカの結界が爆発するよ?」
リュウスケの眉が動いた。
床を覆い始めていた冷気が引いていく。
「うんうん。いい子だねぇ〜!」
エリィナは満足そうに笑う。
「よし。じゃあ、契約書を作るよ。お前らは、そっちの机を使えよ〜」
エリィナは片方の机に浅く腰掛け、契約書へさらさらと文字を書き始めた。
黒いインクが、紙の上で不気味に光る。
ただの文字ではない。
文字と文字の隙間を、細い術式が走っている。
まるで、紙そのものが生きているようだった。
最後に、エリィナは自分の名前を書き込む。
署名が完成すると同時に、紙面を走る術式が淡く脈動した。
「よーし。じゃあ、これね!」
エリィナは契約書を持ち上げた。
そして。
紙を折り始める。
「……え?」
コハルが声を漏らした。
エリィナは契約書を器用に折っていく。
三角に折り。
端を揃え。
指先で形を整える。
出来上がったのは、紙飛行機だった。
「はい、飛ばしまーす」
ぴゅー。
契約書で作られた紙飛行機が、白い空間を滑るように飛んでくる。
「それにサインしろよー」
リュウスケが手を伸ばし、紙飛行機を受け取った。
無言で広げる。
コハルも隣から紙面を覗き込んだ。
そこには、こう書かれていた。
【日高リンカと月岡コハルの交換に関する契約】
一、甲は日高リンカを生存状態で解放し、乙は月岡コハルを甲の指定する領域へ移送するものとする。
二、日高リンカの解放および月岡コハルの移送は、同時に成立したものとみなす。
三、月岡コハルは、甲の指定する鳥籠型結界内へ自ら入るものとする。
四、交換成立後、乙は月岡コハルに対する救出、奪還、干渉、追跡、契約妨害を行ってはならない。
五、交換成立後、甲は日高リンカに対する追加加害を行わないものとする。
六、契約成立後、甲乙双方は一週間、相手陣営への直接的な敵対行動を禁ずる。
七、本契約への違反意思、違反行為、または違反準備が確認された場合、世界綴りの万年筆の契約術式は即時発動する。
八、本契約は、甲乙双方の署名をもって成立する。
「……」
コハルの喉が鳴る。
逃げ道がない。
そう思った。
明らかに、リュウスケが抜け道を探すことまで想定して作られている。
救出。
奪還。
干渉。
追跡。
契約妨害。
考えられる行動は、すべて塞がれていた。
「どう?」
エリィナが笑った。
「これなら文句ないでしょ? ちゃんと日高リンカは生存状態で解放する。追加で傷つけたりもしない。こっちは、かなり優しい契約にしてあげてるんだけどなぁ」
「……優しい人は、人質を取らない」
リュウスケの声は低かった。
「あはは、確かに!」
エリィナは楽しそうに笑う。
「でもさぁ、取引ってそういうものでしょ? お互い欲しいものがある。だから交換する。ね?」
コハルの胃の奥が冷たくなる。
自分が物のように扱われている。
その事実が、契約書の文面から嫌でも伝わってきた。
「……日高リンカの状態について」
リュウスケが口を開く。
「生存状態という表現だけでは不十分だ。意識不明、衰弱、呪詛、魔力欠乏、拘束術式の残留を含めて、こちらへ戻したあとに危険が残る可能性がある」
「あー、細かいなぁ」
エリィナは唇を尖らせた。
「じゃあ、“即時死亡に至らない状態”でどう?」
「却下」
「じゃあ、“五体満足”?」
「精神干渉と術式汚染が抜けてる」
「ほんっと、面倒くさいな。お前」
エリィナの笑みが引きつった。
しかし、すぐに元の表情へ戻る。
「でもまあ、いいよ。そこは譲ってあげる。その契約書は破り捨てていい」
エリィナは新しい紙を取り出した。
万年筆を走らせる。
文字が増え、術式が組み替わっていく。
最後に、再び自分の名前を書き込んだ。
契約書を紙飛行機に折り、こちらへ飛ばす。
リュウスケが受け取った。
新しい契約書には、次の文面が加えられていた。
一、日高リンカは、生存、五体満足、意識回復可能、即時死亡危険なし、精神干渉なし、術式汚染なし、契約術式および拘束術式の残留なしの状態で解放するものとする。
「……これでいい?」
エリィナが笑う。
「これ以上ごねるなら、日高リンカの方が持たないかもね」
天井の鳥籠が、ぎしりと軋んだ。
リンカの身体が揺れる。
「っ……!」
コハルが息を詰めた。
「一応、言っておくけどさ」
エリィナは黒い万年筆の先端を、リンカへ向ける。
「エリィナ、あんまり気が長くないよ?」
沈黙。
リュウスケは契約書を見下ろしていた。
横顔に表情はない。
けれど。
コハルには分かった。
焦っている。
この人は今、無表情のまま追い詰められている。
「……分かった」
リュウスケが言った。
「サインする」
コハルが息を呑む。
「リュウスケさん……!」
「大丈夫」
短い声だった。
それ以上の説明はない。
「んじゃ、はいよ」
エリィナが万年筆を投げて寄越した。
黒い万年筆。
世界綴りの万年筆。
リュウスケは、それを片手で受け取った。
空気が冷える。
だが、エリィナは気づかない。
気づけないほど、冷気は薄かった。
呼吸に混じる程度。
指先から伝わる程度。
同時に。
リュウスケの袖口で、小さな黒い粒が砕けた。
出発前。
シグレから受け取っていた、通常の黒インクを凍らせた粒だった。
リュウスケは表情を変えず、エリィナの署名の下へ自分の名前を書き込んだ。
水瀬リュウスケ。
黒い文字が、紙面に刻まれる。
契約書全体が青白く光り、白い部屋の空気が震えた。
まるで、世界そのものが契約を認識したようだった。
「成立〜!」
エリィナが満面の笑みで指を鳴らす。
パチン――。
天井の鳥籠が、ゆっくりと開いた。
光の格子がほどけていく。
幾重にも重なっていた結界が、花びらのように崩れていった。
そして。
リンカの身体が、力なく落下する。
「リンカさん!」
コハルが叫んだ。
エリィナは、楽しそうに両腕を広げる。
「さぁ、約束通りだよ」
鳥籠の下に、淡い光の円が浮かび上がった。
「その鳥籠の中へ、月岡コハルが入れ。水瀬リュウスケは、日高リンカを連れて早々に退散しろよ」
閉じていたワープゲートが、再び開く。
空気が張り詰めた。
コハルの足が前へ出る。
直後。
「――今だ!」
リュウスケが叫んだ。
迷う暇はなかった。
「万能の心得――!」
ゴッ――!!
魔力が爆発する。
骨格。
筋肉。
神経。
呼吸。
視界。
すべてが最適化されていく。
身体が伸びる。
肩幅が広がる。
腕が太くなる。
男体化。
万能の心得状態となったコハルは、床を蹴った。
速い。
白い景色が、一瞬で後方へ流れる。
落下してきたリンカの身体を、空中で抱き止めた。
「リンカさん!」
腕の中のリンカは、ぐったりとしている。
顔色が悪い。
唇からも血の気が失われていた。
けれど、呼吸はある。
生きている。
「……よかった」
低くなったコハルの声が震えた。
「なっ……!」
エリィナの顔色が変わる。
「約束を破りやがって!」
叫び声が白い部屋に響いた。
だが。
何も起こらなかった。
契約違反の術式。
世界法則による拘束。
自動処罰。
そのどれも、発動しない。
「……は?」
エリィナの笑みが、完全に消えた。
「どうして……!? 契約書は取り交わしたのに……!」
「世界綴りの万年筆って名前だから、勘違いするよね」
リュウスケが言った。
その声は、もう追い詰められていなかった。
獲物が罠へかかったことを確認するような、冷えた声だった。
「なっ……何をしやがった!」
「これは元々、ヘリオス・サービスの所有物だ」
リュウスケは、机の上の万年筆へ視線を向ける。
「五年前、君たちが盗み出した」
「だったらどうした!」
「これ、万年筆自体はただの万年筆なんだ」
エリィナの表情が固まった。
「特別なのは、インクの方」
「インク……?」
「そう」
リュウスケは淡々と続ける。
「だから、その万年筆で何を書いても意味はない。中に入っている本物のインクを使わなければ」
「インクは出てただろうが!」
「本文は本物だよ」
リュウスケは契約書へ目を落とした。
「君が書いた契約本文と、君の署名は、本物の契約インクで記されている」
「だったら――!」
「でも、この契約は“甲乙双方の署名をもって成立する”」
エリィナの目が見開かれた。
「僕の署名だけ、普通の黒インクで書いた」
「――っ!」
「シグレさんの魔力を込めてある。契約書を発光させ、術式が反応したように見せることはできても、契約を成立させる力はない」
リュウスケは、机の上の万年筆を見据えた。
「本物の契約インクは、ペン先へ流れ込む前に凍らせた」
「はっ……?」
「インクも結局は液体だからね」
リュウスケの周囲で冷気が揺れる。
「正確には、水、着色剤、湿潤剤、防腐剤。特殊な成分は含まれていても、水分を多く含んでいる以上、凍結させられる」
「そんなことが……!」
「できるよ」
冷え切った声。
「僕なら」
エリィナの顔が怒りで歪む。
「ふざけるな……!」
「賭けだった」
リュウスケは言った。
「本物のインクが少しでも混ざれば、契約が成立する可能性があった。凍らせすぎれば、ペン先の異常に君が気づく。だから、インクの流れだけを止められる温度を維持した」
コハルは、リンカを抱えたままリュウスケを見る。
徹夜で調べていたのは、契約を破る方法ではなかった。
世界綴りの万年筆そのものの構造。
そして、それを無効化するための、たった一つの賭け。
「コハルさん。リンカさんを連れて、下がって」
「はい!」
コハルはリンカを抱き直した。
その腕の中で、リンカはまだ目を覚まさない。
けれど、生きている。
確かに取り戻した。
「ふざけるな……」
エリィナが低く呟く。
先ほどまでの軽さは、もうない。
笑顔も。
余裕も。
無邪気さも。
すべて消えていた。
「ふざけるなあああああっ!!」
白い空間が、ぎしりと歪む。
黒い穴が一つ開いた。
続けて、もう一つ。
さらにもう一つ。
白い空間のあちこちに、黒い裂け目が次々と生まれていく。
ワープゲート。
その奥から、異形の影が這い出した。
巨大な牙。
歪んだ四肢。
無数の眼球。
濡れた鱗。
ねじれた角。
人間の形をしていない怪物たち。
次々と、白い部屋へ落ちてくる。
リュウスケは息を吐いた。
その足元から、氷が広がっていく。
「コハルさん」
「はい!」
「リンカさんを守って」
短い命令。
コハルは力強く頷いた。
胸の奥で魔力が燃える。
腕の中には、リンカ。
目の前には、怪物。
隣には、リュウスケ。
怖い。
それでも。
もう、逃げる理由はなかった。




