2-23話:取引に応じた時点で、だいたい氷塊の勇者はもう罠を仕込んでいる
『何だ、お前ら起きてるじゃないか~!』
モニターの向こうで、エリィナが満面の笑みを浮かべた。
『エリィナさん、感心しちゃうな! もっとこう、絶望して泣いてるかと思ったのに!』
軽い。
声が、あまりにも軽すぎる。
その明るさが、かえって不気味だった。
「早く、話を進めて」
低い声。
リュウスケだった。
モニターを真っ直ぐ見据えたまま、感情の見えない声で続ける。
「こちらからは、コハルさんを差し出す」
部屋の空気が揺れた。
マナトの眉が動く。
レンマも何も言わない。
だが、二人の視線はリュウスケへ向けられていた。
リュウスケは構わず続ける。
「その代わり、リンカさんは返してもらう」
『うんうん! 賢明な判断だよ!』
エリィナがぱちぱちと拍手する。
『だってさぁ、正直、日高リンカと月岡コハルって、価値が釣り合ってないし?』
コハルの肩が揺れた。
だが、間を置かず。
「……じゃあ、なぜ欲しがる?」
リュウスケが問い返した。
エリィナが、にやりと笑う。
『さぁ? 兄の考えることなんて、私にも分かんないからなぁ~』
わざとらしく肩をすくめる。
『単純に、一番“旨そう”だからじゃない?』
ぞわりと、コハルの背筋を寒気が走った。
『だって、男を食ったって不味そうじゃん?』
「…………」
マナトの雷が、かすかに弾けた。
レンマの周囲でも、空気が揺らぐ。
だが。
リュウスケだけは変わらなかった。
「……リンカさんは?」
『だから、知らないってば』
エリィナが笑う。
『日高リンカは勇者になって八年だろ? 加護が馴染みきってるんじゃない?』
椅子をくるくると回しながら、無邪気な口調で続ける。
『でも、月岡コハルは違う。なりたてホヤホヤ。新鮮。女神の加護も濃い。そういうのが好きなんじゃない?』
(……違う)
リュウスケは、黙ったまま思考を巡らせる。
(絶対に、それだけじゃない)
コハルは異質だ。
勇者としての覚醒速度。
異常な適応力。
そして、万能の心得――。
(あの力を、向こうが把握している可能性もある)
だが、今ここで考え続けても答えは出ない。
「……とりあえず」
リュウスケが口を開く。
「僕たちは、どこへ行けばいい?」
『おっと』
エリィナが指を立てた。
『来るのは、月岡コハルと代表者一名だけにしてくれよ?』
マナトの目つきが変わった。
『他の奴らがワラワラ来て戦闘になったら、面倒だからさぁ』
「……代表者は、誰でもいいの?」
『うん。別に?』
エリィナは笑った。
『名前を書くくらいなら、おバカさんでもできるでしょ?』
「そっか」
エリィナの笑みが深くなる。
『でも、あんまり血の気の多い奴はおすすめしないかも! エリィナの逆鱗に触れたら、日高リンカを爆殺しちゃうからね〜』
空気が凍った。
コハルの喉が鳴る。
マナトの雷が、今度は隠しきれないほど強く弾けた。
レンマの風も、不穏な音を立てる。
だが。
「場所を教えて」
リュウスケだけが、平静を崩さなかった。
エリィナは、にやりと笑う。
『お前たちの拠点の中庭に、ワープゲートを設置しておくよ』
声が、楽しげに弾む。
『今から三十分以内に入って、こっちへ来てくれ』
そして。
『時間内に来なかったら、閉じちゃうからね?』
軽い口調。
だが、逃げ道はなかった。
『ああ、そうそう』
エリィナが、思い出したように笑う。
『もし約束を破ったら――』
画面に、背後の鳥籠が映し出される。
その中心で、リンカがぐったりとうなだれていた。
『今度こそ、本当に壊しちゃうから』
ゴッ――。
マナトの足元で、青白い雷が爆ぜた。
「……お前」
低い声だった。
だが、込められた怒気だけで部屋が震えそうだった。
『怖ぁ~』
エリィナは楽しそうに笑う。
『でも、その顔好きだよ。最高に“勇者”って感じでさ』
そして。
『じゃあ、待ってるね。“朧月の勇者”』
プツン。
映像が切れた。
◇
沈黙。
重たい沈黙だった。
誰も、すぐには口を開かなかった。
「朧月の勇者って……私のこと?」
コハルは困惑したまま、消えた画面を見つめていた。
全員が神妙な面持ちで、それぞれの考えを巡らせている。
やがて。
「……僕が行く」
リュウスケが立ち上がった。
「代表者は、僕。僕でなければ成り立たない」
誰も反論しなかった。
全員が、無言で頷いた。
◇
数分後。
一行は、中庭へ集まっていた。
つい先ほどまで、穏やかな夜風が吹いていた場所。
だが今、その中央には――。
「……なに、これ……」
コハルは、思わず口元を押さえた。
空間そのものが歪んでいる。
黒。
ただの黒ではない。
光を吸い込むような、底の見えない闇。
ブラックホールを思わせる渦が、中庭の中央で回転していた。
濃密な魔力が空間へ染み出している。
気持ち悪い。
立っているだけで吐き気が込み上げてくる。
空気が重い。
肺の奥まで異物が入り込んでくるような、不快感があった。
「リュウスケさん」
マナトが、真っ直ぐリュウスケを見る。
「コハルさんと、リンカさんを……どうか、お願いします」
深く頭を下げた。
レンマも続く。
「俺からもお願いするよ」
いつもの軽さはなかった。
「コハルちゃんを無事に帰して。リンカさんも助けて、一緒に帰ってきて」
二人の姿を見て、コハルの胸が熱くなった。
こんなふうに、本気で誰かに心配されたことなど、いつ以来だろう。
「……分かった」
リュウスケが息を吐く。
わずかに目を細めた。
表情は、相変わらず薄い。
けれど今は、その落ち着きが不思議と頼もしく見えた。
「最善は尽くすよ」
短い言葉。
そこに迷いはなかった。
リュウスケは、ワープゲートへ向き直る。
「コハルさん」
落ち着いた声が、コハルを呼ぶ。
「行こうか」
コハルは、拳を強く握った。
怖い。
正直、逃げ出したいほど怖かった。
でも。
「……はいっ!」
それでも、頷いた。
そして二人は。
ゆっくりと、闇の渦へ足を踏み入れた。




