2-22話:覚悟を口にした時点で、だいたい後戻りはできなくなっている
無慈悲に、時間だけが流れていった。
コハルは結局ほとんど眠れなかった。
布団へ潜り込み、目を閉じても、頭の中に浮かぶのは先ほどの出来事ばかりだった。
マナトの腕。
近すぎた顔。
胸板。
呼吸。
低い声。
(うぅ……思い出さないで……)
布団の中で、何度も足をばたつかせる。
しかも、心拍数が上がるたびに、万能の心得が発動しかける。
危なかった。
本当に危なかった。
男体化したら終わる。
深夜の妙なテンションで男になった自分など、絶対に見たくなかった。
だから。
「落ち着け……落ち着け、私……」
女神の涙を握り締めながら、必死に深呼吸を繰り返す。
ようやく魔力が落ち着いた頃には、空が白み始めていた。
そして。
限界が来た。
糸が切れたように、コハルは眠りへ落ちた。
◇
一方。
マナトは、結局一睡もできなかった。
窓際に立ち、静かな廊下を警戒し続けている。
雷は出していない。
けれど、魔力だけは途切れることなく張り詰めていた。
コハルが狙われる可能性。
リンカが捕らえられている現状。
ジュンタとクニヒロの不穏な動き。
そして。
ベッドへ倒れ込んだ時の、あの感触。
「…………」
マナトは無言で額を押さえた。
思い出すな。
今は、そんなことを考えている場合ではない。
そう自分へ言い聞かせても、心臓はなかなか静まってくれなかった。
「……何を考えてるんだ、俺は」
小さく呟く。
けれど、その言葉を自分でも否定できなかった。
◇
レンマも、眠っていなかった。
男子寮。
女子寮。
中庭。
施設の周辺。
休むことなく見回りを続けていた。
軽口は叩く。
笑う。
いつも通りに見せる。
けれど。
「……マジで危なかったなぁ」
誰もいない廊下で、ぽつりと呟く。
もし間に合わなかったら。
もしコハルが連れて行かれていたら。
考えるだけで、周囲の風がざわついた。
胸の奥が落ち着かない。
あんな顔は、もう見たくなかった。
怖がって。
涙をこぼして。
それでも必死に立っていた顔。
「やめやめ」
レンマは自分の頬を軽く叩いた。
「今は考えることじゃない」
そう言って、再び歩き出した。
◇
資料室。
リュウスケもまた、限界を迎えつつあった。
半開きの目。
ぼやける視界。
ページを追う速度が、わずかに鈍る。
机の上には、異世界語で書かれた文献が積まれていた。
契約術式。
転移術式。
召喚理論。
異世界遺物の記録。
読み漁る。
探す。
可能性を。
抜け道を。
「水瀬様」
シグレが静かに珈琲を差し出した。
「……ブラックです」
「ありがとう」
リュウスケはカップを受け取り、一口飲んだ。
「――っ」
その目が、わずかに見開かれる。
苦い。
濃い。
胃が焼けそうなほど濃い。
だが。
頭が強制的に覚醒する。
「シグレさん」
「はい」
「これ、すごいね」
「徹夜用ですので」
リュウスケは黙った。
数秒後。
「……生き返った」
「よかったです」
シグレは真顔だった。
だが、リュウスケの思考が完全に晴れたわけではない。
失敗すれば終わる。
コハルが危険に晒される。
リンカも助からない。
それでも。
他の方法は、思いつかなかった。
◇
ジュンタとクニヒロの行方は、分からなかった。
動いている気配もない。
だからこそ、不気味だった。
そして。
午前五時を迎えた。
◇
コンコン――。
静かなノック音が、コハルの部屋へ響いた。
「んぅ……」
コハルは眠そうに身体を起こした。
頭はまだぼんやりしている。
重たい瞼を擦りながら、扉へ向かった。
「どなたですか……?」
「……僕だよ」
静かな声。
「えっ!? リュウスケさん!?」
コハルは慌てて扉を開けた。
そこには、リュウスケが立っていた。
相変わらず眠そうな顔。
無表情。
少し乱れた黒髪。
けれど、その奥には凄まじい疲労が滲んでいた。
「ここにいるって、レンマくんに聞いて」
おそらく、一睡もしていない。
低くて落ち着いているのに、ひどく眠気を帯びた声。
「ごめんね……すごく眠そうなのに」
「い、いえいえ! 全然!」
コハルは慌てて首を振った。
「リュウスケさんこそ、すごく疲れた顔をされてますけど……」
「そう?」
「はい……」
リュウスケは視線を逸らした。
見抜かれた。
そう感じた。
この子は時々、妙に人の内側を見る。
「僕の作戦……うまくいくかは分からないけど」
リュウスケは静かに言った。
「コハルさんの助けが必要なんだ」
眉が下がる。
困ったような顔だった。
「正直……危険だと思う」
「……」
「コハルさんが危険な目に遭う可能性もある。でも、成功すれば」
リュウスケは息を吐いた。
「コハルさんも、リンカさんも、二人とも無傷で助けられる」
その声の奥には、苦しさが滲んでいた。
こんな賭けしか思いつかなかった悔しさ。
コハルを巻き込みたくない気持ち。
それでも、リンカを助けたいという想い。
そのすべてが、隠しきれずに表れていた。
「だから……」
リュウスケが目を伏せる。
「僕の作戦を聞いてほしい。無理なら……強要はしない」
「教えてください」
コハルは即答していた。
「お願いします」
「……」
一瞬。
リュウスケの心臓が跳ねた。
(この子……やっぱり、すごい)
怖いはずなのに。
逃げない。
「……ありがとう」
リュウスケは小さく呟いた。
「あ……じゃあ、どこで話そうか」
「部屋に入ってもらって大丈夫ですよ」
その瞬間だった。
「おはようございます」
背後から声がした。
マナトだった。
徹夜を感じさせないほど、完全に目が覚めている。
「リュウスケさん。その作戦、俺も聞いていいですか?」
「…………」
リュウスケは黙った。
(マナトくん……)
コハルを大事にしている。
だからこそ、絶対に反対する。
それでも。
話すしかない。
「……分かったよ」
◇
コハルの部屋。
三人は向かい合って座っていた。
そして。
リュウスケは作戦を説明した。
静かに。
淡々と。
けれど、その内容はあまりにも危険だった。
「エリィナに、コハルさんを渡したと思わせる」
部屋の空気が重くなる。
「でも、実際には渡さない」
マナトの眉が動いた。
リュウスケは文献を机へ置く。
「一瞬だけ、相手側に『成功した』と思わせる」
沈黙。
危険だった。
危険すぎた。
敵に気づかれれば終わり。
わずかでもタイミングを誤れば終わり。
コハルに危険が及ぶ可能性も高い。
失敗すれば、リンカも無事では済まない。
あまりにも不安定な賭けだった。
説明が終わったあと、最初に口を開いたのはマナトだった。
「……ごめんなさい」
苦しげな声だった。
「俺は、許容できません」
即答だった。
「危険すぎる」
「……」
「コハルさんを囮のように使うなんて、俺は認められません」
リュウスケは黙っていた。
必要なのは、コハル自身の意志だからだ。
部屋に沈黙が落ちる。
そして。
「私は、やりたいです」
コハルが言った。
「ダメです!」
マナトが即座に声を上げる。
「危険すぎます! あなたに何かあったら、俺は……」
言葉が詰まる。
そして。
「俺は、一生後悔する」
その声は、痛いほど真剣だった。
コハルは困ったように笑った。
「私も、一生後悔しますよ」
「……」
「リンカさんを助けられたかもしれないのに、私が逃げたせいで助けられなかったら」
コハルはマナトを見る。
「きっと、ずっと後悔します」
「コハルさん……」
「だから、やりたいんです」
マナトが息を呑む。
「怖いです」
コハルは正直に言った。
「すごく怖いです。でも」
拳を握る。
「怖いからって、誰かを見捨てる人にはなりたくないんです」
マナトは言葉を失った。
その時。
「それに」
コハルは笑った。
「リュウスケさんが一緒だから、心強いです」
「――っ」
リュウスケの肩が揺れた。
もちろん。
顔には出ない。
「……ありがとう」
けれど、その声は柔らかかった。
「でも、ダメです」
マナトはなおも首を振る。
「分かってください。俺は、してほしくないです」
その時。
コンコン。
「お邪魔しまーす」
レンマだった。
「何、この空気?」
◇
事情を聞き終えたレンマは、しばらく黙っていた。
そして。
「……随分、攻めた作戦だね」
苦笑する。
「でもさ」
レンマはゆっくりと言葉を続けた。
「その話を聞いたら、それしか正解はない気もするんだよね」
「レンマさんまで……」
「俺は、コハルちゃんがやりたいなら、やってほしい」
レンマは真っ直ぐに言った。
「コハルちゃんも無事。リンカさんも無事。そんな都合のいい方法、他にはないんだよ」
「ですが――!」
「他に方法がない」
その一言に、マナトは黙った。
「リンカさんを見殺しにはできない。コハルちゃんを渡すことも絶対にできない」
レンマは静かに続ける。
「なら、相応の賭けをするしかない」
そして。
「リュウスケさんが、そこまで考えたなら」
レンマは笑った。
「俺は信じたい」
沈黙。
長い沈黙のあと。
マナトが目を閉じた。
「……分かりました」
その声は重かった。
「でも、絶対に無茶はしないでください」
「うん」
リュウスケが頷く。
「そろそろ六時だ」
レンマが時計を見る。
「敵が接触してくると思う」
そして。
六時、ぴったり。
――ブツン。
コハルの部屋に置かれていたテレビが、勝手に点いた。
ノイズ。
砂嵐。
そして。
『起きているかーい!』
明るすぎる声が響く。
『かわいいエリィナさんのモーニングコールだぞー!』
部屋の空気が、一気に張り詰めた。
――いよいよだった。




