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2-21話:無表情のまま焦り始めた時点で、だいたい事態はかなり危険

 資料室は静まり返っていた。


 時刻は深夜三時前。


 窓の外は完全な闇に沈み、室内には古びた照明の白い光だけが落ちている。


 棚を埋め尽くす文献。

 異世界語で記された資料。

 魔術式の写本。

 異世界遺物に関する記録。


 その中央で、水瀬リュウスケは無言のままページをめくっていた。


 眠そうだった。

 もともと覇気の薄い顔立ちではある。


 半開きの目。

 乱れた黒髪。

 気だるそうな姿勢。


 何も知らない人間が見れば、徹夜作業に追われている会社員にしか見えないだろう。


 けれど。

 資料を読み進める速度だけが異様だった。


 開く。

 読む。

 閉じる。

 次の文献へ手を伸ばす。

 その動きを、休むことなく繰り返している。

 隣では、シグレも同じように資料を読み漁っていた。


「……紅茶をお淹れしましょうか」


「助かるよ」


 リュウスケは文献から目を離さないまま答えた。


 シグレは会釈し、資料室の隅へ向かう。


 ほどなくして、紅茶の香りが広がった。

 冷え切った深夜の空気へ、わずかな温度が戻る。


「水瀬様」


 シグレが、湯気の立つカップを差し出した。


「一度、お休みになられては……」


「ううん」


 リュウスケはカップを受け取り、表面へ息を吹きかけた。


「みんなに、“僕に考えがある”って言ったんだ」


 声は淡々としている。


「だから、期待は裏切れない」


 シグレは何も言わなかった。


 水瀬リュウスケは、感情の読みにくい人物だ。

 昔からそうだった。

 今も変わらない。


 顔色も。

 声色も。

 表情も。

 ほとんど動かない。

 それなのに。


 ――ここまで焦っている無表情があるのか。


 シグレは、そう思った。


 客間では、コハルとリンカの交換を巡り、四人の勇者が衝突しかけた。

 あの場を止めるためとはいえ、リュウスケは咄嗟に口にした。


 僕に考えがある、と。


 あとから事情を聞いたシグレにも分かっていた。

 リュウスケの考えている作戦は、あまりにも危険だった。


 理論上は可能。

 成立する余地も、恐らくある。


 だが。

 危険すぎる。

 失敗すれば、誰かが犠牲になる。


 綱渡りよりも不安定な場所で、成功だけを掴まなければならない賭けだった。

 それでもリュウスケは、その賭けに勝つ方法を探し続けている。


「やあ。リュウスケさん、シグレさん。お疲れ様」


 資料室の扉が開いた。

 入ってきたのはレンマだった。


 口調はいつも通り軽い。

 だが、目には隠しきれない疲労が滲んでいる。


「コハルさん、大丈夫?」


 リュウスケが短く尋ねた。


「うん。大丈夫」


 レンマは肩をすくめる。

 しかし、すぐに表情を曇らせた。


「……いや、大丈夫じゃなかったかも」


「?」


「女子寮に、あの二人が行ってさ。コハルちゃんを中庭まで連れ出した」


 ぴたりと。

 リュウスケの手が止まった。


「アスミちゃんが知らせに来てくれなかったら、結構まずかったよ」


「…………」


 沈黙。

 次の瞬間だった。


 ぞわり、と。

 空気が凍りついた。


 冷気。

 圧倒的な魔力。

 棚に並ぶ文献が霜を帯び、机の端には白い氷が張り始める。


 シグレが息を呑んだ。


「あいつら……」


 低い声が漏れた。

 普段ほとんど感情を表に出さないリュウスケだからこそ、その怒りは恐ろしかった。


「うわっ、ダメダメ!」


 レンマが慌てて両手を振る。


「リュウスケさん! 本が凍っちゃうって!」


 その声で、リュウスケが我に返った。


「……ごめん」


 冷気が引いていく。

 凍りつきかけていた空気も、ゆっくりと元へ戻った。


「コハルさんは、大丈夫?」


「大丈夫」


 レンマが苦笑する。


「万能の心得(フルポテンシャル)を使って、二人まとめて殴ってた」


「……驚いた」


 リュウスケが顔を上げる。


「身体を最適化した結果、男体化するスキルなんだけどさ。リュウスケさんは、まだ見たことないんだっけ?」


「話だけ聞いてるよ」


「そっか」


 レンマは笑った。


「すごく、カッコよかったよ」


 リュウスケは黙り込んだ。


(……僕も、見たかったな)


 一瞬、そんな考えが浮かんだ。

 だが、すぐに打ち消す。


 恐らく。

 もし自分がその場にいたなら。

 コハルを助けるために、見境なく力を使っていた。


 ジュンタも。

 クニヒロも。

 周囲の建物さえも。


 すべて凍らせていたかもしれない。

 それが、怖かった。


「リュウスケさん、何を調べてるの?」


 レンマが、積み上げられた資料へ目を向ける。


「どういう作戦?」


「それは言えない」


 即答だった。


「でも、もう時間ないよ」


 レンマが壁の時計を見る。


「そろそろ三時になる」


「……うん」


 リュウスケは文献を閉じた。


「コハルさんを、危険な目に遭わせることになる」


「そっか」


「マナトくんも。レンマくんも。たぶん、反対する」


「うん」


「でも」


 リュウスケは言った。


「コハルさんが、“やる”って言うなら」


 目を伏せる。


「僕の作戦を、やらせてくれないか?」


「…………」


 レンマは、すぐには答えられなかった。


 リンカを助ける。

 そのためには、綺麗事だけでは足りない。


 命を懸ける覚悟も。

 危険な賭けも。

 必要になる。


 それは分かっている。

 分かっているからこそ、簡単には頷けなかった。


「……分かった」


 やがて、レンマが息を吐く。


「でも、コハルちゃんが嫌がったらダメだからね」


「分かってる」


「マナトは、絶対反対するだろうなあ」


「……うん」


 リュウスケも頷いた。


「コハルちゃん本人が“やる”って言っても、あいつは止めるでしょ」


「だから」


 リュウスケは次の文献を開いた。


「マナトくんには、なおさら言えない」


 レンマが苦笑した。


「そっかあ……」


 それから、表情を引き締める。


「何か、手伝えることはある?」


「そうだね」


 リュウスケは資料へ目を落としたまま答えた。


「ジュンタとクニヒロを警戒しておいて」


「くん付け、やめたの?」


「うん」


 リュウスケは無表情のまま言った。


「野蛮すぎるから、和解するまで呼び捨て」


 レンマの口元から笑みが消えた。


「……分かったよ」


 資料室に、再び静寂が戻った。


 ページをめくる音。

 紅茶の香り。

 古い時計が時を刻む音。


 リュウスケは、また文献へ目を落とした。


 眠そうな顔。

 半開きの目。

 変わらない無表情。


 けれど。

 その奥には、確かな焦燥が渦巻いていた。


 誰にも聞こえないほどの声で。

 リュウスケは呟いた。


「……僕がやらなくちゃ」

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