2-20話:眠れない夜に話し始めた時点で、だいたい距離は少しだけ壊れ始めている
男子寮の廊下は静まり返っていた。
深夜。
照明は最低限しか点いておらず、遠くから空調の低い音だけが聞こえている。
マナトが部屋の鍵を開けた。
その隣で、レンマが軽く伸びをする。
「とりあえず、今日はここね」
「はい……」
コハルは小さく頷いた。
胸の奥は、まだ落ち着いていない。
怖さも残っている。
けれど、それ以上に。
先ほど両側から手を握られた感触が、今も熱となって残っていた。
「それじゃ、コハルちゃんは隣の部屋を使って」
「何かあったら、すぐ呼んでください」
「……はい」
一瞬、沈黙が落ちる。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
二人が自然にそう告げた。
けれど。
「あの……」
コハルがためらいがちに声を出す。
二人が振り返った。
「お二人とも、眠るんですか?」
「いや、さすがに眠れないね」
レンマが苦笑する。
「またコハルちゃんが狙われる可能性もあるし」
「念のため、今夜は起きています」
マナトも頷いた。
「そう、ですよね……」
コハルは視線を泳がせた。
言うべきか迷う。
だが、このまま一人で部屋へ入るのが怖かった。
静かな部屋。
一人きりの時間。
ジュンタとクニヒロの怒声。
掴まれた腕。
自分が二人を殴った感触。
一人になれば、すべてを思い出してしまいそうだった。
「じゃあ……」
意を決して口を開く。
「私も、今夜は眠れそうにないので……少し、お話ししませんか?」
レンマとマナトが顔を見合わせた。
「俺でよければ」
「もちろんです」
二人とも即答だった。
なのに。
――バチッ。
そんな音がした気がした。
先ほどまで頼もしい味方同士に見えていた二人の間に、妙な緊張が走っている。
(……気のせい?)
コハルは首を傾げた。
◇
三人はマナトの部屋へ入った。
「あっ」
その瞬間だった。
床に脱ぎっぱなしになっていた下着を、マナトが凄まじい速度で丸めた。
そのままボストンバッグへ突っ込む。
「失礼しました。アスミさんに呼ばれて、急いで出たもので」
「いや!? 気にしませんよ!? むしろ、押しかけてすみません……!」
「いいえ」
マナトは平静を装うように答えた。
「眠れないのは皆同じです。今夜は一緒に過ごしましょう」
「なんかいいね、こういうの」
レンマがベッドへ腰掛け、楽しそうに笑う。
「大人になってから、なかなかないじゃん」
「友達いないんですか?」
「マナトよりはいると思うけどな!」
レンマが反射的に言い返す。
しかし、マナトは冗談として流さなかった。
「俺は異世界から帰ってきて、自分の力で誰かに迷惑をかけるのが嫌になって……」
目を伏せる。
「友人とは、全員縁を切りました」
部屋の空気が静まった。
「……何だ。マナトも俺と同じか」
レンマが寂しそうに笑う。
「……え?」
コハルが目を瞬かせた。
「お二人とも、お友達がいない感じですか?」
「いないよ」
レンマはあっさりと答えた。
「友達も恋人も。そういうものは、全部諦めたんだ」
声は軽い。
けれど、軽く言えるようになるまで、長い時間が必要だったのだろう。
コハルには、そう思えた。
「俺も同じです」
マナトも淡々と続ける。
「普通に働いて、必要な時だけ勇者として動く。賞金首を捕まえていれば、金にも困りません。それで十分だと思っていました」
「でもさ」
レンマが笑う。
「今はコハルちゃんやマナトと一緒にいるの、結構楽しいよ」
「……そうですね」
マナトも同意した。
「誰とも深く関わらないようにしていた時間が長かったので、余計にそう感じます」
二人の声は穏やかだった。
その奥に横たわる孤独が、痛いほど伝わってくる。
コハルは俯いた。
「……私も」
照れ隠しのように笑う。
「友達、多い方じゃなくて」
二人は何も言わず、続きを待っていた。
「私、実は昔、漫画家だったんですよ。二十四歳くらいの頃です」
レンマが目を丸くする。
マナトも驚いたように瞬きをした。
「でも、ある日、交通事故に遭って」
コハルは自分の右手へ目を落とす。
「腕が、動かなくなっちゃったんです」
部屋が静まり返った。
「腕自体は治りました。でも、前とは作画が変わってしまって。リハビリを続ければ、もっと元に戻るって分かっていたんです。それでも……」
苦しげに笑う。
「どうしても、“描けなくなった”という事実を受け入れられなくて」
声が震えた。
「ペンを持っても、前みたいに描けないんです。線が違う。感覚も違う。自分が描いた絵なのに、自分の絵じゃないみたいで」
右手を強く握る。
「読者さんも待ってくれていました。編集さんも、ゆっくりでいいって言ってくれて。アニメ化の話だって、少しずつ進んでいたんです」
口元に浮かんだ笑みが、かすかに歪む。
「なのに、全部止めちゃって」
喉が詰まる。
「待ってくれていた人にも、応援してくれていた人にも、たくさん迷惑をかけました」
部屋には、空調の音だけが流れていた。
レンマも。
マナトも。
何も言わなかった。
茶化さない。
否定もしない。
簡単な励ましで、痛みを塗り潰そうともしない。
ただ、コハルの言葉を受け止めてくれていた。
それが、どうしようもなく優しかった。
「それで、恋人どころか、友達まで遠ざけて。ずっと閉じこもっていました」
胸の奥が熱くなる。
「……今さらなんですけど」
コハルは二人を見た。
「お二人とも、私の友達になってほしいです」
沈黙が落ちる。
二人の表情を見た途端、コハルは急に恥ずかしくなった。
「ご、ごめんなさいっ!」
顔に熱が集まる。
「なんか、私ばっかり変なことを話しちゃって……!」
レンマが、ふっと表情を緩めた。
「友達かあ。何年ぶりだろう?」
「コハルさんとなら、もちろんです」
マナトも穏やかに答えた。
「ていうか、友達を通り越して、もう仲間って感じじゃない? 戦友というか」
「戦友は物騒ですよ」
「じゃあ、やっぱり友達だね」
二人のやり取りを聞き、コハルは嬉しそうに笑った。
◇
その後。
三人は他愛もない話で盛り上がった。
「『SCRAMBLE・ARENA』、また新キャラが出るらしいよ」
「見ました。あの広範囲攻撃は、かなり強いと思います」
「そうなんですね」
「コハルちゃんは、ずっと浮気せずにアシェルを使ってるの?」
「アシェル、カッコいいですから」
「アシェルってさ、若干マナトに似てない? 髪型と目元」
「た、確かに……?」
コハルの反応にマナトが固まった。
「マナト、よかったね。イケメンだってよ」
「顔の系統は、確かに似ていると思います」
マナトが、わずかに胸を張る。
レンマが吹き出した。
「今のドヤ顔、おもしろっ!」
「ドヤ顔ではありません」
「いや、してましたよ。ちょっとだけ」
コハルまで笑う。
「マナトさん、意外とそういうところがあるんですね」
「……ありません」
「あるある」
「ありません」
珍しく慌てるマナトを見て、コハルはまた笑った。
その顔を見て。
レンマも。
マナトも。
ようやく胸を撫で下ろす。
少し前まで泣きそうだった人が、今は楽しそうに笑っている。
それだけで、今夜ここに残った意味があった気がした。
◇
さらに時間が経つと。
コハルは、ソファへ身体を預けたまま、うとうとし始めた。
「コハルさん」
マナトが声をかける。
「ここは俺の部屋なので、さすがにこのまま寝かせるわけにはいきません」
「んー……むにゃむにゃ……もうちょっとだけ……」
「半分寝てるね、これ」
レンマが苦笑する。
「俺がベッドまで連れていってあげようか?」
「ダメです」
「何で?」
「俺が世話役だからです」
「出た、それ」
レンマは笑いながら立ち上がった。
「じゃあ、俺は部屋に戻るね」
「……はい」
軽く手を振る。
「おやすみ、コハルちゃん」
「んぅ……おやすみなさい……」
半分眠ったまま返事をするコハル。
レンマはその姿を名残惜しそうに見つめてから、部屋を出ていった。
◇
扉が閉まる。
先ほどまで三人分あった空気が、二人分になった。
それだけで、部屋が急に広くなったように感じられる。
「……コハルさん」
マナトは息を吐いた。
「立てますか?」
「んー……」
返事になっていない。
自力で隣の部屋まで歩くのは難しそうだった。
「……失礼します」
マナトは、余計なことを意識しないよう自分へ言い聞かせる。
これは世話役としての行動。
危険な場所から、安全な部屋へ移動させるだけ。
必要な対応。
ただの介助だ。
そう繰り返しながら、コハルを抱きかかえようとした。
その瞬間。
「わっ……!」
コハルの身体がふらついた。
反射的に支えようとして。
二人は、そのままベッドへ倒れ込んだ。
「っ――」
柔らかな衝撃。
気づけば、マナトの胸の中にコハルがいた。
近い。
あまりにも近すぎる。
髪が頬へ触れる。
甘い香りがする。
吐息が肌にかかる。
部屋に響く空調の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「こ、コハルさん……」
心臓がうるさい。
コハルも、ぼんやりした顔で彼を見上げる。
「……マナトさん?」
顔が近い。
少し動けば、触れてしまいそうなほどに。
数秒間。
二人とも動けなかった。
やがて。
「ご、ごめんなさい!」
コハルの眠気が一気に吹き飛んだ。
跳ねるように起き上がり、頬を真っ赤にする。
「ま、マナトさん、おやすみなさい!」
「え、あ……はい。おやすみなさい」
返事を待たず、コハルは部屋を飛び出した。
廊下へ出る。
隣の部屋へ駆け込む。
扉を閉める。
そして、ベッドへ飛び込み、枕に顔を埋めた。
(ヤバいヤバいヤバいヤバい……!)
布団の中で、足をばたつかせる。
(近かった……! 顔、近かった……!)
先ほどの距離が頭から離れない。
マナトの腕。
胸板。
体温。
低い声。
(胸板が……逞しくて……)
「じゃなくて!」
思わず叫んだ。
その瞬間、身体の奥で魔力が跳ね上がる。
「あっ、まず……!」
万能の心得が、発動しかけていた。
心拍数が上がりすぎたせいだ。
コハルは慌てて、胸元の女神の涙を握りしめる。
透明な水色の石が、淡く輝いた。
「落ち着け……落ち着け、私……」
深呼吸を一つ。
もう一度。
ゆっくり息を吐く。
どうにか魔力の高まりが収まり、身体の変化も止まった。
男体化する一歩手前だった。
危なかった。
「……寝よう」
コハルは布団を頭までかぶった。
目を閉じる。
けれど。
眠れるわけがなかった。




