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2-19話:両側から手を握られた時点で、だいたい心臓が休む暇を失っている

 夜の空気は、まだ冷たかった。


 中庭を離れたあとも、張り詰めた気配が肌にまとわりついている。


 戦いは起きなかった。

 けれど、起きかけた。

 その事実だけで、三人の神経はまだ静まりきっていなかった。


 男子寮へ続く通路を、三人並んで歩く。


 右隣にはマナト。

 左隣にはレンマ。

 自然と、コハルが二人の真ん中にいた。


「今日は申し訳ないけど、男子寮に行こう」


 レンマが歩きながら言った。


「同じ部屋は難しいから、隣の部屋にするよ。部屋も余ってるみたいだし」


「そうですね」


 マナトも静かに頷く。


「窮屈な思いをさせてしまうかもしれませんが、今は安全を優先した方がいいでしょう」


「……はい」


 コハルは小さく返事をした。

 男体化したままの、低い声。

 自分のものなのに、まだ自分の声とは思えない。


 しばらく、誰も口を開かなかった。

 けれど、不思議と居心地は悪くない。


 右にも。

 左にも。

 ちゃんと誰かがいる。

 それだけで、呼吸がしやすくなった。


「……お二人とも」


 コハルがぽつりと口を開く。


「どうして、中庭に来てくださったんですか?」


「ああ、それね」


 レンマが頭を掻いた。


「アスミちゃんが、真っ青な顔で駆け込んできたんだよ。召喚体があの二人にやられたって」


「アスミさんは、召喚体と視覚を共有できるようですね」


 マナトが補足する。


「自分だけでは止められないから、助けてほしいと頼まれました」


「アスミさんの召喚体って、かなり強いんですよね……?」


「強いよ」


 レンマが頷く。


「普通なら、そう簡単に突破されない」


「ですが、相手が勇者なら話は別です」


 マナトの声は冷静だった。


「アスミさん一人では、対処しきれなかったのでしょう」


「……そうだったんですか」


 コハルは俯いた。


 その瞬間、自分の腕が震えていることに気づいた。


 万能の心得(フルポテンシャル)は、まだ解除されていない。


 高い視界。

 深い呼吸。

 大きく、重い身体。

 一九〇センチを超える男が、小刻みに震えている。

 自分のことなのに、どこか他人事のようだった。


「コハルちゃん、大丈夫?」


 レンマが顔を覗き込む。


「……まだ震えていますね」


 マナトも足を止めた。

 三人の歩みが、自然と止まる。


 夜の渡り廊下。

 遠くから、虫の鳴く声が聞こえていた。


「……すみません」


 コハルは俯いたまま言った。


「今になって、急に……」


 怖かった。

 今さらになって、すべてが遅れて身体へ押し寄せてきた。


 ジュンタに掴まれた感覚。

 クニヒロの怒声。

 レンマの殺気。

 マナトの怒り。


 そして。

 自分が人を殴った感触。

 拳の奥に、まだ残っている。


 その時。

 右手に、そっと熱が触れた。


「……え?」


 マナトだった。

 コハルの右手を、優しく包み込んでいる。


 ほとんど同時に、左手にも別の熱が重なった。

 レンマだった。


「隠さなくていい」


 レンマが静かに言う。


「安心してください」


 マナトの声が続いた。


「もう怖くないよ」


「もう泣かせません」


 二人の言葉が重なった。


 その瞬間。

 コハルの胸の奥が、ぐちゃぐちゃになった。


 温かい。

 優しい。

 そして、真剣だ。

 冗談ではない。


 二人とも本気で、自分を守ろうとしている。

 それが、分かってしまった。


「……っ」


 頬が熱くなる。

 心臓がおかしい。

 さっきまで恐怖で苦しかったのに、今はまるで別の意味で苦しい。


(な、何これ……)


 しかも。


 右を見ればマナト。

 左を見ればレンマ。

 二人とも距離が近い。

 近いうえに、顔がいい。

 その顔で、真剣にそんなことを言う。


(無理なんですけど……!?)


 コハルの思考が完全に混線した、その瞬間だった。

 ふっと、身体の奥から力が抜ける。


「あっ」


 コハルの身体が縮んだ。

 視界が下がる。

 肩幅が戻る。

 呼吸の深さが変わる。

 万能の心得(フルポテンシャル)が解除された。


「あっ」


 レンマが固まる。


「えっ」


 マナトも動きを止めた。


 そして。

 元の姿に戻ったコハルが、二人に両手を握られたまま、真っ赤になっていた。


「…………」


「…………」


「…………」


 数秒間。

 本当に、誰も動かなかった。

 最初に耐えられなくなったのは、レンマだった。


「いや、待って!? ごめん、ごめん、ごめん!」


 慌てて手を離す。


「違うから! いや、違わないんだけど! 慰めようとしただけっていうか!」


「レンマさん、落ち着いてください」


 そう言いながら、マナトはまだコハルの手を握っていた。


「マナトさんも離してください!?」


「あ」


 マナトの動きが止まる。

 それから、ゆっくりと手を離した。


「……失礼しました」


「今の間が一番恥ずかしかったんですけど!?」


 コハルは両手で顔を覆った。

 耳まで熱い。

 たぶん今、絶対に真っ赤だ。

 レンマが顔を逸らしながら、わざとらしく咳払いをする。


「……いや、その、なんていうか」


「はい……」


「元に戻るタイミングが、絶妙すぎるんだよね……」


「知りませんよ、そんなの……!」


 マナトが静かに目を伏せる。


「……ですが」


「?」


「元に戻れて、よかったです」


 その声は、本当に安心しているように聞こえた。


 コハルは目を丸くする。

 マナトは続けた。


「先ほどの状態は、魔力の循環がかなり不安定でした。解除されない可能性も考えていました」


「……そうなんですか?」


「はい」


「じゃあ、今のって……」


「おそらく、精神的に安心したことがきっかけでしょう」


 マナトが静かに説明する。


「極度の緊張状態から解放されたことで、能力を維持する条件が崩れたのだと思います」


「へえ……」


 レンマが口元を緩めた。


「つまり、俺たちも役に立ったってこと?」


「……たぶん」


 コハルは小さく答えた。


「すごく、安心しました」


 その言葉に、今度はレンマとマナトが黙った。

 夜風が通路を吹き抜ける。


 さっきまでの殺気は、もうない。

 恐怖は、まだ胸の奥に残っている。


 状況は、何一つ終わっていない。

 それでも。

 コハルは思った。

 自分は一人ではない。


 その事実だけで。

 力が湧いてくるような気がした。

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