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2-18話:王子様が迎えに来た時点で、だいたい姫の方が先にキレる

「どうして、コハルさんが泣いているんですか?」


 マナトの声は穏やかだった。

 穏やかすぎた。

 怒りを押し殺している。

 だからこそ、余計に恐ろしい。


「ねえ、ジュンタさん」


 レンマが一歩前へ出た。


「俺、かなり我慢してるんだけど」


 その瞬間、中庭の空気が変わった。

 風が止まる。

 水路を流れる音が遠ざかる。

 足元の照明さえ、やけに冷たく見えた。


 マナトはジュンタを見据えている。

 レンマはクニヒロを見ていた。

 二人とも、すでに戦う準備を終えている。


「王子様たちが迎えに来ちゃったか」


 ジュンタが笑った。


「厄介だね」


「……王子様?」


 マナトの眉が動く。


「その呼び方、かなり不愉快ですね」


「同感」


 レンマの声も低かった。


「俺たちは、そういう遊びに付き合うために来たんじゃないんだよ」


 クニヒロが鼻で笑う。


「ふん。お前らもリンカの功績を知ってるだろうに、こんな小娘を庇うのかよ」


「……今、何て言った?」


 レンマの笑顔が消えた。

 完全に。

 コハルの背筋が震える。


 クニヒロも怖い。

 ジュンタも怖い。


 だが。

 今のレンマは、それ以上だった。


「クニヒロ」


 ジュンタが告げる。


「言いすぎ」


「事実だろ」


「事実でも、言い方は選べ」


 そのやり取りが、かえって不気味だった。

 悪いとは思っていない。

 ただ、表現を間違えたと考えているだけ。


 コハルには、そう聞こえた。


「ここなら、客間よりは暴れても大丈夫でしょ」


 ジュンタが笑みを深めた。

 次の瞬間だった。


「え――」


 視界が揺れる。

 腕を取られた。

 身体を引き寄せられる。

 気づいた時には、ジュンタの腕がコハルの肩と胸元を抱え込んでいた。


「や、やめてくださいっ!」


 コハルは必死に身をよじる。

 だが、動かない。

 びくともしなかった。


「コハルさん!」


 マナトの声が鋭く響く。


「コハルちゃん!」


 レンマの周囲で、風が唸った。


「暴れないで」


 ジュンタはコハルの耳元で囁く。


「交渉するだけだから」


「こ、交渉……?」


「そう。君が大人しくしてくれれば、まだ話し合える」


 話し合い。

 その言葉が、ひどく歪んで聞こえた。


「本気でやめないつもりなんだね?」


 レンマが問う。

 声から、普段の軽さは完全に消えていた。


「レンマさん」


 マナトが一歩踏み出す。


「もう、彼らとの対話は不可能です」


「だよね」


 レンマは息を吐いた。


「しょうがない」


 その瞳が、一瞬だけ揺れた。

 迷い。

 躊躇。

 それでも、決断しなければならないという覚悟。


「もう、壊し合うしかなさそうだ」


 風が爆ぜた。

 同時に、マナトの足元へ青白い雷が走る。


 クニヒロが構えた。

 ジュンタの笑みが深くなる。


(駄目だ)


 コハルは思った。

 ここで始まれば、止まらない。


 誰かが傷つく。

 誰かが壊れる。

 リンカを助ける前に、別の何かが取り返しのつかないことになる。


「やめてくださいっ!」


 叫んだのは、コハルだった。

 全員の視線が彼女へ集まる。


 怖い。

 怖いに決まっている。

 ジュンタの腕は近い。

 クニヒロの怒りも近い。

 マナトとレンマの殺気も、肌へ突き刺さっている。


 それでも。

 もう嫌だった。

 自分のせいで、誰かが壊れるのは。

 自分を理由に、誰かが誰かを傷つけるのは。


 もう、嫌だった。


「万能の心得(フルポテンシャル)!!」


 叫んだ瞬間、世界が軋んだ。


 身体の奥で、何かが開く。

 骨格が変わる。

 筋肉が組み替わる。

 呼吸が深くなる。

 視界が広がる。

 心臓の音が、低く重く響いた。


 次の瞬間。

 ジュンタの腕が外れた。


「――っ?」


 ジュンタの目が見開かれる。


 コハルは、その腕を掴んだ。

 そして、振り払う。

 力任せではない。

 そこにあるべきではない拘束を、当然のように外しただけだった。


 空気が震える。

 中庭の水面が波打つ。

 照明が明滅する。

 夜風が、コハルを中心に押し返された。


 そこに立っていたのは、先ほどまでのコハルではなかった。


 背が伸びている。

 肩幅が広がっている。

 声も、呼吸も、まとっている空気さえ違う。


 男体化。

 だが、変化はそれだけではない。


 圧倒的な存在感。

 濃密すぎる魔力。

 ただ立っているだけで、場の主導権を奪うほどの威圧感。


 マナトが息を呑む。

 レンマも言葉を失った。

 クニヒロは反射的に、一歩下がりかけていた。

 ジュンタだけが、興味深そうに目を細める。


「私は」


 低い声が、中庭へ落ちた。

 コハル自身の声だった。

 いつもの声とは、まるで違う。

 それでも、間違いなくコハルの言葉だった。


「誰かに助けられるだけの私じゃない」


 沈黙。

 その一言が、重く響く。


「……ははっ」


 ジュンタが笑った。

 先ほどまでの軽い笑いではない。

 興味を惹かれた男の笑いだった。


「すごいな」


 クニヒロは何も言えずにいた。

 あれほど苛立ちをぶつけていた口が、完全に止まっている。


 コハルが一歩、踏み出した。


「ジュンタさん」


「……何かな」


 次の瞬間。


 乾いた音が、中庭へ響いた。

 コハルの拳が、ジュンタの頬を打っていた。


「――っ」


 ジュンタの顔が横へ流れる。

 だが、吹き飛びはしない。

 コハルが手加減していたからだ。


 マナトも。

 レンマも。

 クニヒロも。

 全員が固まった。


「それは、マナトさんとレンマさんの分です」


 コハルは低い声で告げた。


「手加減しました。お二人だと、たぶん手加減できないので」


 ジュンタが頬へ触れる。

 重い。

 明らかに加減されている。

 それでも、戦意を削ぐには十分な痛みだった。


「……へえ」


 ジュンタは笑おうとした。

 だが、口元がわずかに引きつっている。


「君が殴るんだ」


「はい」


 コハルは即答した。


「怒っているので」


 そして、クニヒロへ視線を向ける。


「クニヒロさん」


「……何だよ」


 クニヒロが身構える。

 だが、遅かった。


 もう一度、乾いた音が鳴る。

 今度は、クニヒロの頬だった。


「ぐっ……!」


 クニヒロの身体がよろめく。

 それでも倒れない。

 こちらも手加減されていた。


「それは、私の分です」


 コハルは言った。


「弱いと言われた分です」


 クニヒロが目を見開く。


「てめえ……」


「それと」


 コハルは、その言葉を遮った。


「私を守ってくれている人たちを、馬鹿にした分です」


 沈黙。

 中庭の水音だけが響く。


「私は強くありません」


 コハルは続けた。


「怖いし、迷うし、一人では何もできないことも多いです」


 声は震えていた。

 それでも、目を逸らさない。


「でも、私にも譲れないものがあります」


 レンマが息を吐いた。


「……かっこよ」


「レンマさん」


 マナトが低い声で咎める。

 だが、その目は揺れていた。


 怒りだけではない。

 安堵。

 驚き。

 そして、誇らしさ。

 そのすべてが混ざっている。


 ジュンタは頬を押さえたまま、コハルを見つめていた。


「リュウスケさんが、考えがあると言ってくれました」


 コハルはジュンタを見据える。


「私たちは、それに備えられるよう、今は休むべきです」


「へえ」


「あなたたちがリンカさんを大切に思っているのは分かります。でも、それは誰かを犠牲にしていい理由にはなりません」


 ジュンタの笑みが薄くなる。


「それを、君が言うんだ?」


「言います」


 コハルの心は震えていた。

 今も怖い。

 身体が変わっても、恐怖まで消えたわけではない。

 だが、声は逃げなかった。


「だから、勝手に死にません。勝手に渡されません。勝手に諦めません」


 コハルは拳を握る。

 殴った感触が、まだ手に残っていた。

 人を殴ったことも怖い。

 これから何が起きるのかも怖い。


 それでも、引かなかった。


「私を守ってくれるマナトさんとレンマさん。カイリさんやアスミさんのためにも、私は私を大事にしたいです」


 止まっていた風が、ゆっくり流れ始める。


「コハルさん」


 マナトが声をかける。


「下がってください」


「下がりません」


「……」


「私の話です」


 マナトは黙った。

 レンマも、何も言わない。

 コハルは続けた。


「でも、一人で判断もしません」


「……」


「だから、ここで勝手に戦わないでください」


 それは命令ではなかった。

 お願いだった。

 だが、不思議と逆らえない声だった。


 マナトが目を伏せる。

 レンマは苦笑した。


「……本当に困るなあ」


「何がですか」


「そういうこと言われたら、俺たちが暴れにくくなるじゃん」


「暴れないでください」


「はいはい」


 レンマは肩をすくめる。

 だが、風はまだ消えていない。

 マナトの足元でも、雷が弾け続けていた。


「ジュンタさん」


 マナトが呼ぶ。


「コハルさんから離れてください。今すぐ」


「もう離れてるよ」


「次に触れたら、止めません」


「怖いなあ」


「脅しではありません」


 ジュンタは両手を上げた。


「分かった。降参――とまでは言わないけど、今は引くよ」


「ジュンタ!」


 クニヒロが声を荒らげる。


「いいのかよ。リンカは――」


「分かってる」


 ジュンタの声が冷える。

 クニヒロは黙った。


「でも、ここでマナトとレンマを敵に回して、この子まで覚醒した状態で無理やり連れていくのは、さすがに分が悪い」


 ジュンタはコハルを見る。


「それに」


「……」


「見誤ってたみたいだ」


 コハルは返事をしなかった。


 その言葉が褒め言葉なのか。

 計算を修正しただけなのか。

 それとも、単なる興味なのか。

 分からなかった。


「普通の子だと思ってた」


「普通です」


「普通の子は、あの状況で勇者を二人も殴らないよ」


「……手加減しました」


「そこじゃないんだよなあ」


 ジュンタが笑う。


「まあ、いいや。今夜はここまでにしよう」


「勝手に終わらせないでください」


 マナトの声が刺さる。


「アスミさんの召喚体を排除しましたね」


「さあ」


「ごまかさないでください」


「あとで本人に謝っておくよ」


「そういう問題ではありません」


 青白い雷が、一際強く弾ける。


「分かったよ」


 ジュンタは軽く答えた。

 口調は軽い。

 だが、先ほどまでの軽薄さとは違っていた。


 クニヒロは、まだコハルを睨んでいる。

 しかし、そこに侮りはない。


 苛立ち。

 屈辱。

 困惑。

 複雑な感情が入り混じっていた。


「……お前」


 クニヒロが低く言う。


「本当に何なんだよ」


「月岡コハルです」


 コハルは答えた。


「普通の会社員です」


「どこがだよ」


 クニヒロが吐き捨てる。

 レンマが笑った。


「そこは俺も同意」


「レンマさん」


「ごめん」


 張り詰めていた空気が、ほんのわずかに緩んだ。


 それでも、緊張は消えない。

 リンカは、まだ捕まっている。

 夜明けまで時間はない。

 リュウスケは、一人で何かを探している。

 何も解決していない。


 それでも。

 コハルは、今ここで一つだけ決めた。

 自分は、差し出されるためにいるわけではない。

 守られるだけのためにいるわけでもない。


 リンカを助けたい。

 みんなを壊したくない。

 そのために、自分も立つ。

 それだけだった。


「戻りましょう」


 マナトが言った。


「コハルさん、こちらへ」


「はい」


 コハルは頷いた。

 男体化したまま、マナトたちの方へ歩く。

 レンマが横へ並んだ。


「大丈夫?」


「……大丈夫ではありません」


「うん」


「でも、立てます」


「そっか」


 レンマは笑った。

 今度は、目もわずかに笑っていた。


「じゃあ、立って帰ろう」


 背後で、ジュンタが呟く。


「……本当に、厄介だな」


 誰に向けた言葉だったのか。

 コハルには分からなかった。


 ただ。

 夜は、まだ終わらない。

 そして、誰も眠れない。

 そのことだけは、はっきりと分かっていた。

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