2-17話:寝てていいと言われた時点で、だいたい誰も眠れるわけがない
「……僕に考えがある」
沈黙の底へ、リュウスケの声が落ちた。
低く、平坦で、感情の起伏はほとんどない。
それでも、その一言だけで客間の空気が変わった。
「今夜、時間をちょうだい」
リュウスケは、映像の消えたモニターを見つめたまま続ける。
「みんなは寝てていい」
「寝てていいって……」
レンマが思わず笑う。
けれど、その顔はまるで笑えていなかった。
「この状況で寝られる人、いると思う?」
「いないと思う」
リュウスケは即答した。
「でも、休める人は休んだ方がいい」
「……リュウスケさん」
マナトが眉を寄せる。
「考えというのは?」
「まだ言えない」
「なぜですか」
「言ったら、止められるかもしれないから」
あまりにも平然と言った。
その瞬間、場の空気が固まる。
(それ、絶対に危ないやつでは……?)
コハルは思った。
おそらく、この場にいる全員が同じことを考えている。
だが、リュウスケは表情を変えない。
「明日の夜明けまでには間に合わせる」
「本当に?」
レンマの声が低くなる。
「本当に、リンカさんを助けられる?」
「分からない」
正直すぎる答えだった。
それでも、リュウスケは言葉を続けた。
「でも、コハルさんを渡すよりは可能性がある」
その言葉に、コハルの胸が締めつけられる。
自分を渡す。
その選択肢が、まだ頭から離れない。
月岡コハルを連れてくるか。
日高リンカを見殺しにするか。
エリィナの声が、耳の奥へこびりついていた。
「……水瀬様」
シグレが口を開く。
「必要な設備、人員、術式、異世界遺物に関する情報。仙台支店で用意できるものは、すべて手配いたします」
「ありがとう」
リュウスケは短く頷いた。
「まず、資料室を借りたい。あとは、さっき映っていたリンカさんの結界を解析してほしい」
「承知しました」
「それと」
リュウスケが視線を動かした。
「誰も、コハルさんを一人にしないで」
「……」
コハルの肩が跳ねる。
リュウスケは、それ以上何も言わなかった。
だが、その一言だけで十分だった。
この人は分かっている。
今、自分が何を考えようとしているのか。
何を一人で背負おうとしているのか。
すべて、見抜かれている。
「では、皆様のお部屋をご案内いたします」
シグレが告げた。
「本日は、ヘリオス仙台支店内の宿泊棟をご利用ください。警備レベルは最大まで引き上げます」
「女子寮もあるんですか?」
コハルが尋ねると、シグレは穏やかに頷いた。
「ございます。女性帰還者、女性賢者、関係者用の区画です。月岡様には、そちらをご利用いただきます」
「は、はい……」
コハルが頷く。
その時、レンマがこちらを見た。
「コハルちゃん」
「はい」
「何かあったら、すぐ呼んで」
「……はい」
マナトも続ける。
「絶対に、一人で判断しないでください」
「……はい」
二人の声は優しかった。
けれど、重かった。
心配。
怒り。
焦り。
恐怖。
そのすべてが混ざっている。
コハルは、うまく顔を上げられなかった。
◇
女子寮は、想像していたよりもずっと綺麗だった。
白を基調とした廊下。
カードキー式の扉。
ホテルのような個室。
小さな机。
ベッド。
シャワールーム。
最低限の生活用品も揃っている。
会社の寮というより、長期滞在用の宿泊施設だった。
(ヘリオス、本当に何でもあるな……)
普段なら、何かしらツッコミを入れられたかもしれない。
けれど、今は無理だった。
シャワーを浴びても。
着替えても。
ベッドへ横になっても。
頭から、あの映像が離れない。
鳥籠のような結界。
ぐったりとうなだれるリンカ。
焦点の合わない瞳。
声の届かない唇。
そして。
月岡コハルを連れてくるか。
日高リンカを見殺しにするか。
(明日の夜明けって……)
コハルは布団の中でスマートフォンを確認した。
時刻は、二十二時を過ぎている。
(全然、時間ない)
心臓が嫌な音を立てる。
自分が行けば。
自分が差し出されれば。
リンカは助かるのか。
そう考えた瞬間、レンマの声が浮かんだ。
『何かあったら、すぐ呼んで』
マナトの声も。
『絶対に、一人で判断しないでください』
リュウスケの声も。
『誰も、コハルさんを一人にしないで』
「……」
コハルは布団を強く握った。
分かっている。
そんなことを考えたと知れば、あの人たちは怒る。
きっと、本気で怒る。
でも。
リンカが死ぬかもしれない。
その事実が、胸の奥から消えてくれなかった。
その時だった。
コン、コン。
控えめな音が扉を叩く。
「……コハルさん。開けてください」
アスミの声だった。
コハルは慌てて起き上がる。
「アスミさん?」
「食事を持ってきました。何があったのか、朝霧支店長から聞いています。カイリくんも、とても心配していましたよ」
コハルはそっと扉を開けた。
そこには、トレイを持ったアスミが立っていた。
綺麗に切り分けられたサンドイッチ。
小さなカップスープ。
湯気の立つ紅茶。
「私の召喚体が作ったものです」
アスミは、いつもの柔らかい声で言った。
「美味しいと思いますよ」
「……ありがとうございます」
コハルはトレイを受け取ろうとした。
しかし、その手が震えていた。
アスミが見逃すはずもない。
「コハルさん」
「はい」
「泣いています」
「……え」
指摘されて、初めて気づいた。
頬が濡れている。
いつからなのか、自分でも分からなかった。
「す、すみません。私、別に……」
「謝らなくていいです」
アスミはそう言って部屋へ入り、扉を閉めた。
トレイを机へ置く。
「コハルさんは悪くありません」
「……」
「だから、自分が代わりになればいいとか、絶対に考えないでください」
まっすぐな声だった。
逃げ道を塞ぐような強さがあった。
「……はい」
「本当に?」
「……」
「コハルさん」
アスミの声が低くなる。
「優しい人ほど、自分が犠牲になればいいと考えます。でも、それは優しさではありません」
「……」
「残される人を壊します」
その言葉に、コハルは息を呑んだ。
残される人。
レンマ。
マナト。
リュウスケ。
カイリ。
アスミ。
リンカ。
いくつもの顔が浮かぶ。
「リンカさんを助けたい気持ちは分かります」
アスミは続けた。
「でも、コハルさんが消えたら、今度は別の人たちが壊れます」
「……はい」
「だから、食べてください」
「え?」
「食べて、寝てください」
アスミは真顔だった。
「眠れないなら、横になってください。横になれないなら、座っていてもいいです。でも、自分を差し出す準備だけはしないでください」
「……アスミさん」
「はい」
「結構、怖いです」
「今は、怖くしています」
即答だった。
コハルは、思わず笑ってしまった。
ほんのわずかな笑いだった。
それでも、張り詰めていた胸の糸が緩んだ気がした。
「……いただきます」
「はい」
サンドイッチを一口食べる。
美味しかった。
ごく普通に、美味しかった。
その普通さが、かえって苦しい。
リンカは今、何か食べられているのだろうか。
そう考えかけて、コハルは首を振った。
考えても仕方がない。
今、自分にできることは。
リュウスケを信じて待つこと。
それだけだ。
「召喚体を三人、部屋の前に待機させます」
アスミが告げた。
「何かあれば、彼らを頼ってください。眠れない、飲み物が欲しい、誰かを呼んでほしい――何でも構いません」
「……ありがとうございます」
その言葉が、胸の奥へ染みていった。
◇
アスミが部屋を出てから、どれほど時間が経ったのだろう。
コハルはベッドに腰掛けたまま、空になった皿を見つめていた。
眠れない。
当然だ。
眠れるはずがない。
それでも、食事をしたおかげで身体は温まっていた。
その時。
再び、扉が鳴った。
コン、コン。
「……はい」
警戒しながら返事をする。
扉の向こうから、穏やかな声が聞こえた。
「さっきは悪かったね。少し、三人で話さない?」
ジュンタの声だった。
コハルの背筋が冷える。
「えっ……」
すぐには返事ができなかった。
扉の向こうには、もう一人気配がある。
おそらく、クニヒロだ。
だが、彼は何も言わない。
黙ったままだ。
本能的には、開けたくなかった。
部屋の前には、アスミの召喚体がいるはずだった。
しかし。
何の物音もしない。
呼吸音も。
足音も。
気配さえもない。
(……まさか)
コハルの喉が狭くなる。
気づかないうちに、すでに排除されている。
そう理解した途端、手のひらが冷たくなった。
それでも。
このまま無視する勇気も持てなかった。
何より。
逃げたくないと思ってしまった。
「……少しだけなら」
コハルは扉を開けた。
そこには、ジュンタとクニヒロが立っていた。
ジュンタは先ほどと同じ、爽やかな笑みを浮かべている。
クニヒロはポケットに手を入れ、視線を逸らしていた。
「ごめんね、こんな時間に」
「いえ……」
「外で話そうか。部屋の前で長話するのも悪いし」
「……分かりました」
コハルは迷った末、上着を羽織った。
胸の奥がざわついている。
嫌な予感がした。
だが、ジュンタの笑顔は崩れない。
クニヒロは何も言わない。
その沈黙が、かえって恐ろしかった。
◇
ヘリオス仙台支店の中庭は、夜でも薄明るかった。
透明な屋根。
人工的に整えられた木々。
細い水路。
足元を照らす淡い照明。
高級ホテルの庭園のようだった。
けれど、今のコハルには景色を楽しむ余裕などない。
三人分の足音だけが、静かな庭に響いていた。
「いやあ、改めて見ると不思議だね」
ジュンタが口を開く。
「……何がですか」
「君が」
コハルの足が止まりかけた。
ジュンタは笑っている。
「マナトとレンマ、どっちが君の王子様?」
「……え?」
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「いや、あの二人さ」
ジュンタは軽い口調で続ける。
「男の俺から見ても、かなりレベルが高いと思うんだよね。顔もいい。強い。性格も、方向性は違うけど悪くない」
「……」
「どうして、君みたいな子に惚れたんだろうね」
空気が冷える。
コハルの指先が丸まった。
少し前までなら、何も言い返せなかったかもしれない。
だが。
今の言葉だけは、聞き流せなかった。
「……お二人とは、そういう関係ではありません」
コハルはジュンタを睨んだ。
「へえ」
ジュンタが目を細める。
「怒るんだ」
「怒ります」
「じゃあ、まさかリュウスケさんが王子様?」
「それも違います」
「じゃあ、誰?」
「そういう話ではありません」
「でも、守られてるじゃないか」
ジュンタの笑みが薄くなる。
「君は、守られている」
「……」
「マナトに。レンマに。リュウスケさんに。アスミちゃんにも、カイリくんにも」
否定はできなかった。
実際、守られている。
それは事実だった。
「すごいよね」
ジュンタは言う。
「君は普通の子なのに、みんなが君を守ろうとしてる」
「……」
「リンカは、ずっと守る側だった」
その声から、軽さが抜けた。
「誰かに守られるより、誰かを守る側に立ってきた。無茶して、怒鳴って、強引に引っ張って、嫌われても前に出た」
「……」
「だからヘリオスは回っている。俺たちも、何度も助けられた」
初めて。
ジュンタの言葉から、完全に笑いが消えた。
「リンカがいなくなったら、困るんだよ」
夜風が吹く。
冷たい風だった。
「ヘリオスも。帰還者も。俺たちも」
「……そうだ」
それまで黙っていたクニヒロが、低い声で続ける。
「リンカはずっと一人で背負ってきた。それなのに、今度は誰もあいつを助けないのかよ」
「クニヒロ」
ジュンタの声が冷えた。
「口を出さないでって言ったよね」
ジュンタがクニヒロの肩を掴む。
クニヒロは舌打ちしそうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。
ジュンタは、改めてコハルを見る。
「まあ、でもそうだね」
そして、優しく微笑んだ。
「リンカはいろんな人の命を救ってきた。心も救ってきた。リンカがいなくなったら、大変なことになる。理解できるかな?」
「……だから、私に死ねって言うんですか」
コハルの声は震えていた。
それでも、目を逸らさなかった。
ジュンタは目を細める。
クニヒロは苦い表情のまま何も言わない。
「頼むよ」
ジュンタが言った。
「リンカのために。ヘリオスのために。大義のために――死んでくれないか?」
静かな言葉だった。
あまりにも静かだったからこそ、深く胸に刺さった。
「……」
コハルは息を吸う。
怖い。
怖いに決まっている。
相手は勇者だ。
自分より、はるかに強い。
この場で腕を掴まれれば、逃げられる気がしない。
それでも。
言わなければならないと思った。
「できません」
ジュンタの目が動く。
「私のことを大事に思ってくれている方々のためにも、それはできません」
声は震えていた。
だが、言えた。
「私のことは、何とでも言えばいいです」
コハルは続ける。
「でも、私のことを大事に思ってくれている人たちを悪く言うあなた方を、私は許しません」
「……」
「そんな人の言うことを、私は聞けません」
ジュンタも。
クニヒロも。
何も言わなかった。
「リンカさんを助けたい気持ちは、私も同じです」
涙が滲む。
それでも、拭わなかった。
「でも、リンカさんがそんなことを望んでいるとは思えません」
沈黙。
中庭を流れる水音だけが響く。
クニヒロが口を開きかけた。
「……お前――」
「クニヒロ」
ジュンタが遮る。
その声は低かった。
クニヒロは歯を食いしばるように黙った。
ジュンタは、しばらくコハルを見つめていた。
やがて息を吐く。
「そっか」
「……」
「やっぱり、普通の子じゃないのかもね」
それが褒め言葉なのか、皮肉なのか。
コハルには分からなかった。
ただ、少なくとも。
先ほどまでの軽薄な笑顔ではなかった。
ジュンタが夜空を見上げる。
その時だった。
「――何をしているんですか?」
背後から、冷たい声が響いた。
コハルの心臓が跳ねる。
振り返った。
そこに立っていたのは、マナトだった。
青白い雷光は出ていない。
けれど、目が怖い。
かなり怖い。
その隣には、レンマもいた。
笑っている。
だが、目はまったく笑っていなかった。
「夜中にコハルちゃんを連れ出して、何の話?」
風が鳴る。
ジュンタは肩をすくめた。
「少し話していただけだよ」
「へえ」
レンマの笑顔が深くなる。
「じゃあ、その話、俺たちも混ぜてよ」
空気が、再び冷えた。
コハルは思った。
(あ、これ……)
たぶん。
全然、寝てていい夜ではなかった。




