2-12話:役に立ちたいと言った時点で、だいたい本人が一番やばいことに気づいていない
淫獣の残骸が、荒野の地面に黒い染みを作っていた。
リュウスケはそれを一瞥すると、何事もなかったように歩き出す。
アスミは少し離れた場所で、手の中のキューブを確認していた。
カイリはまだ、自分の額を押さえている。
「……リンカさん……結婚……」
「カイリくん」
レンマが静かに声をかけた。
「それ、忘れよっか」
「忘れたいです!!」
即答だった。
だが、忘れられるはずがない。
全員が見てしまったのだ。
見たくなかったものを。
いや、見たかったからこそ、余計に見たくなかったものを。
コハルも、顔を両手で覆いたくなるのを必死にこらえていた。
(無理……無理無理無理……)
レンマとマナトに迫られていた。
どちらが好きなのかと聞かれていた。
しかも、かなり近かった。
近すぎた。
情報量が多すぎた。
(いや、あれは淫獣のせい。私のせいじゃない。私の願望じゃない。たぶん。いや、でも、ああいう夢を見せられたってことは……)
そこまで考えて、コハルはぶんぶんと首を振った。
今はそれどころではない。
リンカが攫われた。
エリィナは言った。
暁光の勇者の身柄を返してほしければ、新米勇者の身体を生きたまま差し出せ、と。
つまり。
自分だ。
自分を差し出せと言われた。
その事実が、じわじわと胸の奥に沈んでいく。
怖い。
怖いはずなのに、さっきの夢の恥ずかしさと、リュウスケの強さと、リンカの安否と、マナトとレンマの視線が全部混ざって、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「……戻しますね」
アスミが、いつもより真面目な声で言った。
手の中のキューブ――無限の聖域が、青白く光る。
荒野の空が、薄い硝子のように揺らいだ。
星が滲む。
地面が遠ざかる。
空間そのものが折り畳まれるような感覚。
次の瞬間。
一同は、リムジンの中に戻っていた。
エンジン音。
革張りの座席。
窓の外を流れる高速道路の景色。
さっきまでの荒野が、嘘みたいに消えている。
けれど、誰もすぐには喋らなかった。
外では車が普通に走っている。
標識が流れていく。
遠くに山の稜線が見える。
普通の現実に戻ったはずなのに、車内だけが戻れていなかった。
レンマは窓の外を見ている。
マナトは膝の上で手を組み、じっと考え込んでいる。
カイリはなぜか姿勢を正している。
リュウスケは無表情のまま座っている。
アスミはキューブを眺めている。
コハルは、その全員をちらちらと見た。
(誰か何か言って……いや、言わないで……でも無言も無理……)
沈黙が重い。
たぶん全員、あの夢を思い出している。
そして同時に、エリィナの伝言を考えている。
リンカ。
コハル。
交換。
その言葉だけが、車内の見えない場所にずっと置かれているようだった。
その空気を破ったのは、アスミだった。
「うーん……困りましたねえ」
眠そうで、のんびりした声。
けれど、その内容はまったくのんびりしていなかった。
「さっきのエリィナとかいう敵の攻撃のせいで、無限の聖域はしばらく使えませんね」
「使えない?」
レンマが振り向く。
「はい。かなり無理やり展開しましたし、向こうから空間干渉も受けました。穴を開けられたので、内部構造が傷んでます」
「へえ。異世界遺物って壊れるんだ」
「壊れますよ。高級なものほど、壊れる時は面倒です」
「やだねえ。それ、直るの?」
「直ります。充電すれば」
「充電?」
レンマが首を傾げた。
コハルも思わず同じ顔をする。
「スマホみたいな……?」
「だいたいそんな感じです」
アスミはキューブを軽く持ち上げた。
「魔力を溜めて、内部の術式を修復するんです。完全に壊れていなければ、魔力を入れれば自動修復します」
「便利ですね」
「便利ですよ〜。ただし、燃費が悪いです」
「燃費」
「はい。私の魔力を注いでもいいんですけど」
アスミは自分のお腹を押さえた。
「私、お腹減っちゃうので嫌なんですよね」
「理由が急に生活感だね」
レンマが小さく笑う。
「いや、大事ですよ。魔力を大きく使うと、普通にお腹が減ります。特に私は召喚体の維持もありますし、移動中に空腹になると集中力が下がります」
「なるほどね。じゃあ俺がしようか?」
レンマが軽く手を挙げる。
その瞬間、マナトが視線を向けた。
アスミもすぐに首を振る。
「いえ。レンマさんがいざという時に戦えなくなるのは困ります」
「そこまで減る?」
「この遺物、かなり容量があります。満タンにするなら、そこそこ削れます」
「じゃあ俺でもきついかな」
「可能ですが、今は温存したいです。エリィナがまた来る可能性もありますし、リンカさんの救助もあります」
リンカ。
その名前が出た瞬間、車内の空気が沈んだ。
カイリが唇を噛む。
「……リンカさん」
小さな声だった。
いつもの声量ではない。
コハルは胸が痛くなった。
リンカは強い。
怖い。
乱暴。
でも、頼れる人。
そのリンカが捕まっている。
それだけでも重いのに、自分を差し出せと言われた。
自分が、リンカを助けるための交換材料になっている。
(私……)
何かしなければ。
そう思った。
守られるだけは嫌だ。
観覧車の中で、自分でそう言った。
自分の力と向き合うと決めた。
役に立ちたいと、確かに言った。
なのに今、自分は座っているだけだ。
怖がって。
戸惑って。
守られて。
みんなが、自分のために魔力を温存しようとしている。
それが、少し悔しかった。
「じゃあ、どうしようか?」
レンマが言う。
アスミはキューブを見つめたまま考え込んだ。
「安全圏に入ってから、予備の魔石で少しずつ修復する手もあります。ただ、その場合は半日から一日くらいかかりますね」
「それだと、次に何かあった時に使えないんですね?」
マナトが確認する。
「はい。少なくともすぐには」
「……それは困りますね」
マナトの声が低くなる。
無限の聖域は危険でもある。
けれど、一般人を巻き込まないための隔離空間としては有用だった。
次にエリィナが市街地で襲ってきたら。
次にリンカの救出で大規模戦闘になったら。
使えないのは痛い。
「それなら」
気づけば、コハルは手を挙げていた。
全員が、一斉にこちらを見る。
「えっ」
自分でも驚いた。
だが、挙げてしまったものは仕方ない。
「あの……私が、充電します」
「ダメです」
即答だった。
もちろん、マナトである。
「早いです!」
「考える余地がないので」
「ありますよ! ちょっとくらい!」
「ありません」
「マナトさん、即答が過保護すぎます」
「過保護で結構です」
「認めるんですね……」
マナトは真剣だった。
「コハルさんは、いざという時に万能の心得を使えないと困ります。さっきのように分断される可能性があります。敵の狙いはあなたです。魔力を消費する行為は避けるべきです」
「それは……そうかもしれませんけど」
「そうです」
「でも、私、まだあまり戦えないですし」
「だからこそです」
「え?」
「戦えないなら、逃げるために力を残しておく必要があります」
まっすぐだった。
言っていることは正しい。
とても正しい。
だから、反論しづらい。
でも。
「……このまま何もしないのも、嫌です」
車内が静かになる。
コハルは膝の上で手を握った。
「リンカさんが捕まってて、私が交換条件にされてて、みんなが危ないかもしれなくて。でも私は、守られて座ってるだけで」
言いながら、胸の奥が苦しくなる。
「もちろん、勝手に危ないことをしたいわけじゃないです。でも、役に立てることがあるなら、やりたいです」
マナトが何か言おうとする。
その前に、レンマが口を開いた。
「まあ、それもそうだよね」
「レンマさん」
マナトの声が硬くなる。
「マナトの言いたいことは分かるよ。コハルちゃんを消耗させたくない。いざって時に動けないと困る。それは分かる」
「なら――」
「でも、本人が役に立ちたいって言ってる」
レンマの声が低くなる。
「そこまで止めるのは、違うんじゃない?」
「……」
「守るって、何もさせないことじゃないでしょ」
マナトの眉が、わずかに動いた。
「コハルちゃんはもう、自分で行くって決めてここにいる。だったら、できることを本人が選ぶのも大事だと思うけど」
「ですが、危険です」
「危険じゃないことなんて、もうないよ」
その言葉に、誰も返せなかった。
レンマはコハルを見る。
「大丈夫」
軽い声。
でも、顔は軽くなかった。
「さっきのはイレギュラーだっただけ。今度は俺がコハルちゃんを守るから」
まっすぐな視線。
「絶対に離れない」
その瞬間、コハルの心臓が跳ねた。
言葉は短い。
けれど、重かった。
――俺がそばにいると思って。
ネックレスを渡された時の言葉が、胸の奥で重なる。
コハルは無意識に、胸元の女神の涙に触れた。
それを見て、マナトの目が一瞬だけ細くなる。
レンマも気づいている。
気づいていて、何も言わない。
二人の視線がぶつかった。
車内の空気が、また変わる。
見えない火花が散る。
比喩ではなく、本当にマナトの指先に微細な電気が走った気がした。
レンマの周囲にも、わずかに風が揺れる。
「……絶対、ですか」
マナトが静かに言った。
「うん」
「その言葉、軽く使っていませんか」
「軽く言ってないよ」
「なら、覚えておいてください」
「覚えてるよ」
「俺も、守ります」
マナトはコハルへ視線を向けた。
「コハルさんを、絶対に」
今度はコハルの呼吸が止まりかけた。
(やめて……今そういうの本当に……)
さっきの夢が蘇る。
右からマナト。
左からレンマ。
近い。
情報量が多い。
現実でも、情報量が多い。
アスミは面白そうに目を細めていた。
「ほうほう」
完全に観察している顔だった。
カイリはごくりと唾を飲む。
「な、なんか……すごい空気ですね……」
「カイリくん。実況しなくていいよ」
「すみません!!」
リュウスケは無表情だった。
ただ、どこか微笑ましそうにも見えた。
「……仲良いね」
「よくありません」
「まあまあかな」
レンマが軽く返す。
「温度差がすごいですね」
コハルが小さく突っ込む。
そのおかげで、少しだけ空気が緩んだ。
マナトは深く息を吐く。
「……分かりました」
「え?」
「コハルさんがそこまで言うなら、今回はお任せします」
「いいんですか?」
「条件があります」
「条件」
「無理をしないこと。少しでも体調に違和感があれば、すぐに止めること。充電後に必ず水分を摂ること。それから、これ以降は単独行動禁止です」
「最後、便乗してません?」
「必要事項です」
「必要事項……」
レンマが笑う。
「まあ、俺もそれは賛成。コハルちゃん、さっき分断されてるからね」
「それは……はい」
「だから、ここはマナトに同意」
マナトが少しだけ意外そうにレンマを見る。
レンマは肩をすくめた。
「俺だって何でも張り合うわけじゃないよ」
「そうですか」
「疑ってるね?」
「はい」
「素直だなあ」
アスミが、ころころと小さく笑った。
「では、お願いしますね〜」
そう言って、アスミはキューブをコハルへ差し出した。
青白い透明な立方体。
先ほどよりも光が鈍い。
ところどころ、内部の幾何学模様が欠けているように見える。
コハルは両手で受け取った。
「あ、はい。お預かりします」
受け取ったはいい。
だが。
(……どうやるの?)
分からない。
魔力の込め方が、さっぱり分からない。
そもそも、コハルは自分の魔力を意識して使ったことがほとんどない。
万能の心得は、感情や危機に反応して発動することが多い。
自分で魔力を流す、という感覚がない。
「あの……これ、どうやって充電するんですか?」
「ああ、簡単ですよ」
アスミは眠そうな声で言う。
「キューブに意識を向けて、内側へ魔力を流し込むイメージです」
「内側へ魔力を流し込むイメージ」
「はい」
「その魔力が分からないんですけど」
「ええと……体の奥にある温かいものを、手のひらから出す感じです」
「体の奥にある温かいもの」
「はい」
「手のひらから出す感じ」
「はい」
「……全然分かりません」
「ですよね〜」
アスミはにこにこしていた。
「分からないままやってみてください」
「雑!」
「こういうのは、案外感覚です」
「感覚……」
コハルはキューブを両手で包む。
目を閉じた。
(えっと……魔力……魔力……)
体の奥。
温かいもの。
手のひらから出す。
(魔力集まれー……みたいな?)
念を飛ばすように、キューブを見つめる。
(これに入れー……充電されろー……修復しろー……)
自分でもかなり雑だと思った。
だが、次の瞬間。
ぱっ、と。
キューブが光った。




