2-11話:全員が夢を見た時点で、だいたい一人だけ現実を壊す奴がいる
東北の静かな山道を、リムジンは走り続けていた。
けれど、その静けさはもう戻らない。
結界の外では、得体の知れない衝撃が何度も爆ぜている。
窓の向こうでは、禍々しい魔力の揺らぎが走っていた。
その中で、後方座席にいたアスミが、ふいに目を細める。
「仕方ありませんね……出し惜しみは無しです」
そう言って、アスミは懐から小さな立方体を取り出した。
青白く光る、透明なキューブ状の物体。
宝石にも、機械にも見える。
けれど、どちらとも違う。
この世界のものではない。
「異世界遺物を使用します」
アスミが指先で表面をなぞると、キューブの内側に幾何学模様が浮かび上がった。
「無限の聖域です」
「すごいな。そんなヤバい代物を、ヘリオスは管理してたの?」
レンマが感心したように言う。
「一般人を巻き込む可能性のある戦闘や、周囲の被害を抑えたい場合には重宝します」
アスミは淡々と説明した。
「半径二キロ以内の、魔力を帯びた物体と生物を、強制的に隔離空間へ閉じ込める異世界遺物です」
「便利そうですね」
マナトが言った。
けれど、その声には警戒が混じっている。
「ただし、転送位置は安定しません」
アスミが続ける。
「中に入った者は、聖域内のどこかにばらばらに転送されます。位置が悪ければ、敵に背後を取られて即死する可能性もあります」
その瞬間、マナトの表情が変わった。
「待ってください!」
声が鋭くなる。
「それを使ったら、コハルさんが――!」
だが、遅かった。
アスミの手の中で、キューブが強く光る。
「展開」
青白い光が、リムジンの中を飲み込んだ。
マナトの叫びは、空間が折り畳まれるような轟音にかき消された。
◇
「いてて……」
次にコハルが目を開けた時、そこはもうリムジンの中ではなかった。
硬い地面に腰を打ちつけたらしく、鈍い痛みが残っている。
顔を上げる。
空があった。
見たこともないほど大きな星々が、黒い空に浮かんでいる。
足元には、乾いた荒野。
岩肌。
ひび割れた大地。
人の気配はない。
「ここ……どこ……?」
声が、思ったより小さく出た。
返事はない。
けれど。
何かがいる。
姿は見えない。
音もしない。
それなのに、暗闇の奥から無数の視線が突き刺さってくる。
見られている。
値踏みされている。
肌の表面を、冷たい何かで撫でられているようだった。
(いざとなったら……万能の心得を……)
コハルは震える足で立ち上がる。
助けを呼びたい。
けれど、大声を出せば、ここにいる何かまで呼び寄せてしまいそうだった。
怖い。
怖すぎる。
それでも、じっとしている方がもっと怖い。
無意識に、レンマから貰ったネックレス――女神の涙を握る。
水色の石が、ひんやりと冷たかった。
――俺がそばにいると思って。
ネックレスを貰った時の言葉が、頭の奥で蘇る。
ほんの少しだけ、心が落ち着いた。
コハルは意を決して、ゆっくりと歩き出す。
一歩。
二歩。
三歩。
その時だった。
「大丈夫?」
「ひゃあっ!?」
コハルは飛び上がった。
振り向くと、そこにリュウスケが立っていた。
気配がまったくなかった。
「……ごめん。驚かせた」
「い、いえ! 全然! ちょっと、すごく、びっくりしただけです!」
「……そっか」
リュウスケはコハルを見た。
そして、すぐに目を逸らす。
いつも通り無表情なのに、どこか照れているようにも見えた。
「一緒に行こう。僕といた方が、安全」
低い声だった。
けれど、不思議と柔らかい。
さっきまで胸を締めつけていた孤独感が、薄れていく。
「は、はい! お願いします!」
二人は、聖域の中央へ向かって歩き出した。
途中で、何度もモンスターに襲われた。
「コハルさん、下がってて」
異世界で見たことがあるような、見たくなかったような異形。
だが、リュウスケはほとんど動かなかった。
指先をわずかに動かす。
それだけで、空気中の水分が凍りついた。
襲いかかってきたモンスターは、一瞬で氷像になる。
「ごめん。顔を見られると、集中できないから……あんまり見ないでほしい」
そんな緊迫した状況でも、リュウスケの声は乱れなかった。
いつも通り。
静かで。
迷いがない。
別の一体が飛び出してくる。
今度は、リュウスケの手の中に氷柱が生まれた。
それは剣というより、鈍器に近い。
太く、重く、無骨な氷の刃。
リュウスケはそれを軽々と振るい、モンスターを叩き潰した。
(この人……)
コハルは息を飲む。
(すごく、強い……)
◇
やがて、二人は中央地点らしき場所へ辿り着いた。
そこには、すでに一行が集まっていた。
「あっ! コハルちゃん!」
「コハルさん!」
レンマとマナトが、ほとんど同時に駆け寄ってくる。
「怪我はない?」
「どこか痛むところは!? 転送時に打っていませんか!?」
「だ、大丈夫です。リュウスケさんが、守ってくれたので」
「……うん。見つけられて、良かった」
リュウスケが小さく言う。
その声はいつも通り低かったが、どこか安心しているように聞こえた。
だが、安堵は長く続かなかった。
中央に、一人の少女がいた。
十五歳前後に見える。
白いドレス。
青い石のついた大きなリボン。
猫のような瞳。
可愛らしい顔立ち。
けれど、纏っている空気は可愛らしさとは程遠い。
少女の周囲には、球状の結界が張られている。
その内側で、濃い魔力が渦を巻いていた。
「全員揃った?」
少女が笑う。
「この私こそ、お前たちが長年追ってる月船の探究者の一人、エリィナだよ」
軽い声だった。
「今日は、うちの兄からの伝言を預かってきただけ」
「ふうん」
レンマの声から、温度が消えた。
「伝言を届けるのに、リムジンを吹き飛ばそうとしたんだ?」
「挨拶だってば」
エリィナは悪びれずに笑う。
「勇者四人に、上位クラスの賢者二人。私一人で勝てるわけないじゃん」
「要件は?」
レンマの右手に、風が集まり始める。
いつもの軽い風ではない。
濃く、鋭く、禍々しいほど圧縮された風。
その場の空気が、薄く切られていく。
「うわー怖い。じゃあ、さっさと言っちゃうね」
エリィナは、楽しそうに口元を歪めた。
「『暁光の勇者の身柄は預かった。返してほしければ、新米勇者の身体を、生きたまま差し出せ』だってさ」
空気が凍った。
リンカと、コハル。
それを交換しろ。
つまり、そういうことだった。
「んじゃ、伝えたからね。バイバイ」
エリィナが、練り上げていた魔力を天へ放つ。
星空に亀裂が走った。
空に穴が開く。
「逃がすわけないじゃん」
「逃がしません」
レンマの風と、マナトの雷が同時に弾ける。
だが、その進路を異形のモンスターが阻んだ。
粘液を滴らせる黒い影。
それが、何体も地面から湧き上がる。
「きゃははは! じゃあね!」
エリィナは、羽の生えた異形の背に飛び乗った。
そのまま、空に開いた穴の向こうへ消えていく。
後に残されたのは、一体の黒いモンスター。
丸く膨れた体。
不自然に長い手足。
ぐにゃりと歪んだ口。
カイリの顔色が変わる。
「これ、見たことあります! 淫獣です! 全員、耳を塞いで下がってください!!」
だが、それも間に合わなかった。
淫獣が叫ぶ。
甘く、濁った声。
耳ではなく、脳の奥へ直接染み込むような音。
一瞬だった。
勇者と賢者たちの目から、光が消える。
それぞれが虚空を見つめ、陶酔したように固まった。
◇
「カイリ……いつもありがとう」
リンカがいた。
柔らかな日差しの中で、カイリはリンカの膝の上にいた。
頭を撫でられている。
優しい声。
温かい手。
憧れてやまない人の笑顔。
「あたしを探しに来てくれたんだろ? ずっと、ずっと……会いたかったよ」
「リンカさん……!」
カイリの目に涙が浮かぶ。
「俺と結婚してください!」
◇
「コハルちゃん」
レンマがいる。
すぐ近くに。
「俺のこと、好き?」
「ええっ!?」
右から、マナトの声がする。
「いいえ。コハルさんが好きなのは俺です」
「ちょ、ちょっと待ってください!?」
レンマが笑う。
「どっちが好きなの?」
マナトが真顔で迫る。
「俺ですよね?」
「む、無理です! 近いです! 情報量が多すぎます!」
コハルの顔は真っ赤だった。
◇
「うまぁ〜〜い!」
アスミの前には、最高級の肉。
ケーキ。
果物。
スープ。
焼き菓子。
よく分からない高そうな料理。
周りには、召喚体たち。
「みんな、今日はたくさん食べてね〜! 経費で落ちるから〜!」
完全に幸せそうだった。
◇
「……みんな」
淫獣の叫びによって、全員がそれぞれの妄想に落ちていた。
ただ一人を除いて。
水瀬リュウスケ。
氷塊の勇者だけが、変わらずそこに立っていた。
精神汚染は効いていない。
彼は静かに淫獣を見る。
「まあ、いいか」
低く呟く。
「一人ずつ起こすより、倒した方が早そう」
リュウスケの手の中に、氷の剣が生まれる。
足元の大地に、白い霜が広がっていく。
「あんまり……見せたくないしね」
次の瞬間、リュウスケの姿が消えた。
いや。
速すぎて、見えなかった。
鈍い音が響く。
淫獣の巨体が、斜めに裂けた。
黒い血が噴き出し、荒野の地面を汚す。
あまりにも一瞬だった。
あまりにも容赦がなかった。
リュウスケは、氷の剣を軽く振る。
その刃の側面に、自分の顔が映った。
そこには、普段の無口で不器用な彼とは違う表情があった。
高揚している。
楽しそうで。
少しだけ、危うい。
そんな笑み。
「……はぁ」
リュウスケは小さく息を吐く。
「やっぱり、この顔は見られたくない……」
次の瞬間には、いつもの無表情に戻っていた。
そして、妄想に沈んでいる全員のもとへ歩いていく。
「起きて」
デコピン。
「ふぎゃっ!?」
まずカイリ。
「リンカさん……あれ? 俺、今何を……?」
「起きて」
次にレンマ。
「いたっ。え、なに? 俺、今かなりいいところだったんだけど」
「起きて」
マナト。
「……っ!? コハルさん!? 俺は何も見ていません!」
「起きて」
コハル。
「ひゃっ!? えっ!? あれ!? ここどこ!? 服は!? いや、服ありますね!?」
「起きて」
アスミ。
「お肉……まだ半分しか……」
「現実に戻って」
リュウスケは淡々と言った。
全員が、ようやく状況を思い出す。
足元には、真っ二つになった淫獣の残骸。
周囲には、まだ重い魔力の残り香。
そして、リュウスケだけは何事もなかったように歩き出した。
「出発しよう」
低い声。
「やるべきことが、増えたみたいだ」
その背中を見ながら、コハルは小さく息を呑んだ。
助けられた。
それは間違いない。
けれど。
さっき一瞬だけ見えた、氷塊の勇者の冷たい横顔が、なぜか頭から離れなかった。




