2-3話:翌朝に記憶が飛んでいた時点で、だいたい相手だけが全部覚えている
翌朝。
コハルは、頭の重さで目を覚ました。
「……う」
喉が渇いている。
体がだるい。
胃が重い。
そして、記憶が途中からない。
(えっと……飲み会行って……ノアが絡んできて……課長に捕まって……二軒目……三軒目……)
そこまでは覚えている。
その後が、かなり曖昧だった。
(タクシー乗り場……スマホ見て……)
マナト。
そこだけ、急に浮かんだ。
「……え」
コハルは、がばっと起き上がった。
そして、頭痛で撃沈した。
「うぐっ」
「起きましたか」
リビングから声がした。
コハルは、ゆっくり顔を向ける。
ソファの上。
作業着姿のマナトが、上体を起こしていた。
寝癖がついている。
目元も眠そうだ。
「……マナトさん?」
「はい」
「なんで……うちに……?」
「覚えていませんか」
「……途中から、あんまり」
マナトは、静かに目を伏せた。
「そうですか」
「え、私、何かしました?」
「しました」
「えっ」
コハルの顔から血の気が引いた。
「ま、待ってください。私、何を」
「水を飲みました」
「それはいいことですよね!?」
「俺に抱きつきました」
「は?」
時間が止まった。
「俺に抱きついて、落ち着くと言いました」
「……」
「あと、あったかいとも言いました」
「……」
「それから」
「待ってください」
「はい」
「それ以上ありますか」
「あります」
「聞きたくないです」
「では言いません」
それが一番怖かった。
「私……まさか……」
「大丈夫です。何もしていません」
「本当ですか!?」
「俺は何もしていません」
「俺は、って言いました!?」
「コハルさんは多少しました」
「ぎゃあああああ」
コハルは布団に顔を埋めた。
終わった。
社会的に終わった。
いや、相手はマナトだから社会的には終わっていないかもしれないが、人として終わった。
「すみません……本当にすみません……」
「謝るくらいなら、次から飲みすぎないでください」
「はい……」
「あと、飲み会の予定は教えてください」
「はい……」
「帰れない時は迎えに行きます」
「それは過保護です……」
「昨日の状態を見たので、譲れません」
「う……」
反論できなかった。
完全に反論できなかった。
マナトは立ち上がり、水と胃に優しそうなゼリー飲料を持ってきた。
「飲めそうですか」
「飲みます……」
「ゆっくりでいいです」
「ありがとうございます……」
コハルは受け取る。
その時、スマホが震えた。
画面を見る。
レンマからだった。
『昨日飲み会って言ってたけど、大丈夫? 返信ないけど。心配だから、このあと行くね』
「ひゃあ!?」
変な声が出た。
マナトがいるのがバレたら、大変なことになる。
絶対、何かしら疑われる。
コハルは慌てて返信した。
『ごめんなさい! 昨日充電切れちゃって、返事できませんでした! このあとは友達と遊びに行くので、お家は不在です。また遊び来てください!』
「……」
自分でも不自然だった。
冷静に考えると、怪しすぎる。
しかし、送信してしまった。
「レンマさんですか?」
「はい……」
「来るって言っていましたか」
「言ってました……」
マナトは、ふっと笑った。
「来るなら来るで、俺は構いませんけど」
「い、いや、もう来ないでって断りました」
マナトが、明らかに拍子抜けした顔をした。
「そうですか」
「なんですか、その顔」
「いえ。別に」
「絶対、別にじゃない顔でした」
「気のせいです」
「気のせいじゃないです」
コハルはゼリー飲料を握りしめたまま、じっとマナトを見る。
マナトは目を逸らした。
その反応が、妙に分かりやすかった。
「……もしかして、レンマさんに見られてもいいと思ってました?」
「少しは」
「少しは!?」
「本当に、少しです」
「でも、思ってはいたんですね」
「……まあ」
「まあ!?」
コハルが思わず突っ込むと、マナトは小さく笑った。
その笑い方が、いつもより柔らかい。
昨日のことを覚えていないのはコハルだけで。
マナトの中には、昨夜の記憶がちゃんと残っている。
そう思うと、顔が熱くなった。
「……昨日の私、そんなにひどかったですか」
「ひどいというより」
「より?」
「危なかったです」
「危ない……?」
「いえ。何でもありません」
「ええ!? 意味深すぎません!?」
コハルは即座に布団をかぶった。
「と、とにかく、忘れてください」
「忘れられません」
「そこは嘘でも忘れるって言ってください」
「嘘はよくないので」
「こういう時だけ誠実!」
布団の中で叫ぶと、マナトがまた笑った。
楽しそうに。
けれど、どこか困ったように。
「コハルさん」
「……はい」
「俺は、昨日のことを責めるつもりはありません」
「……はい」
「ただ、心配はしました」
「……すみません」
「それと」
間が空いた。
布団越しでも、空気が変わったのが分かった。
「安心してもらえているのは、嬉しかったです」
「……え」
コハルは、布団の端からそっと顔を出した。
マナトは、こちらを見ていた。
まっすぐに。
けれど、踏み込むような目ではなかった。
「酔っていたとしても、俺に頼ってくれたのは嬉しかったです」
「……」
「だから、全部忘れろと言われても、それは難しいです」
コハルは何も言えなくなった。
ずるい。
昨夜の記憶はない。
自分が何を言ったのかも、どんな顔をしたのかも、どれくらい甘えたのかも分からない。
なのに、マナトだけが覚えている。
しかも、それを怒らずに、静かに抱えている。
それが、妙に恥ずかしい。
そして、落ち着かない。
「……マナトさん」
「はい」
「私、何て言ったんですか」
「聞きたいんですか」
「聞きたくないです」
「では言いません」
「でも気になります」
「どっちですか」
「分かりません」
コハルは、布団の中で丸まった。
「分かんないです……」
声が、思ったより小さくなった。
マナトはそれを聞いて、表情を緩めた。
「じゃあ、今は言いません」
「今は?」
「コハルさんが本当に聞きたいと思った時に言います」
「……そんな大事そうに保管しないでください」
「忘れるには、もったいないので」
「そういうことを普通に言わないでください……」
また顔が熱くなる。
体調が悪いせいなのか。
昨日の酒が残っているせいなのか。
それとも別の理由なのか。
もう、よく分からなかった。
その時、スマホがまた震えた。
レンマからだった。
『友達と遊びに行くなら、送っていくよ。まだ体調悪いならなおさら』
「……」
コハルは固まった。
強い。
断っても来るタイプの心配だった。
「どうしました?」
「レンマさんが……送っていくって……」
「では、来ますね」
「来ますね、じゃないです!」
コハルは慌ててスマホを握り直した。
『本当に大丈夫です! 今日は女友達なので! すっぴんなので! 寝起きなので! とにかく大丈夫です!』
送信。
すぐに既読。
『情報量多いな。大丈夫じゃなさそう』
「終わった……」
コハルは、スマホを見つめたまま呟いた。
マナトは落ち着いた様子で水のペットボトルを開けた。
「正直に言えばいいのでは?」
「何をですか」
「俺がいます、と」
「言えるわけないじゃないですか!」
「なぜですか」
「なぜって……!」
コハルは言いかけて、止まった。
なぜ。
なぜ言えないのか。
昨夜、マナトが迎えに来た。
体調を心配して、泊まってくれた。
それだけなら、別にやましいことはない。
ないはずだ。
だが、言えない。
言ったら何かが変わる気がする。
レンマが黙っていない気がする。
マナトも、妙に落ち着いた顔で受けて立ちそうな気がする。
そして何より。
自分自身が、説明できなくなる気がした。
「……説明が、難しいので」
ようやくそれだけ言うと、マナトは目を伏せた。
「そうですね」
「……」
「俺も、説明は難しいです」
静かな声だった。
責めるでもなく。
踏み込むでもなく。
ただ、同じ場所に立っているみたいな言い方だった。
「昨日、コハルさんをここまで送ってきて」
「はい……」
「帰るべきか、残るべきか、かなり迷いました」
「……はい」
「残った理由は、体調が心配だったからです。それは本当です」
「はい」
「でも」
マナトは視線を逸らした。
「それだけじゃなかったかもしれません」
「……」
コハルは、息を止めた。
朝の部屋は静かだった。
カーテンの隙間から差し込む光。
テーブルの上の水。
ソファに残った、マナトが寝ていた跡。
全部が、妙に生々しい。
「……マナトさん」
「はい」
「そういうこと言うと、こっちも困ります」
「すみません」
「謝られるのも困ります」
「では、どうすれば」
「分かりません」
「また分かりませんか」
「分からないものは分からないです」
コハルは、むくれた。
マナトはその顔を見て、笑った。
「では、分かるまで待ちます」
「……待つんですか」
「はい」
「過保護なうえに、待つんですか」
「はい」
「ずるいですね」
「よく言われます」
「誰にですか」
「レンマさんに」
「でしょうね」
笑ってしまった。
その瞬間、部屋の空気が軽くなる。
コハルは、ゆっくりゼリー飲料を飲んだ。
胃に優しい味がした。
マナトはキッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。
「何か食べられそうですか?」
「まだ、あんまり……」
「お粥なら作れます」
「作れるんですか」
「一通りは」
「勇者なのに」
「勇者でもお粥くらい作ります」
「勇者の守備範囲、広いですね」
「必要なら、覚えます」
「何をですか」
「コハルさんが困らないことを」
「またそういうことを……」
コハルは顔を伏せた。
マナトは何事もなかったように、鍋を出す。
その背中を見ていると、胸の奥がじんわり温かくなる。
昨日、どれだけ迷惑をかけたのか分からない。
恥ずかしい。
申し訳ない。
できれば記憶ごと消えてほしい。
それでも。
朝、目が覚めた時に、彼がいてくれたことに。
安心してしまった。
(……まずいなあ)
コハルは、布団を握った。
(これは、まずい)
マナトのことを、ただの過保護な人だと思えなくなってきている。
もちろん、最初からただの人ではなかった。
勇者だし。
強いし。
優しいし。
心配性だし。
でも、そういうことではなくて。
朝の寝癖。
眠そうな目。
自分のために水を用意してくれる手。
キッチンに立つ背中。
そういう、やたら生活感のある部分まで目で追ってしまう。
それが、まずい。
「コハルさん」
「はいっ」
変な声が出た。
マナトが振り返る。
「無理に起きなくていいですよ」
「はい……」
「あと、顔が赤いです。熱ですか?」
「違います」
「二日酔いですか」
「それもあります」
「他には?」
「聞かないでください」
「分かりました」
あっさり引いた。
引いたのに、口元が緩んでいる。
絶対に分かっている顔だった。
「マナトさん」
「はい」
「今、ちょっと楽しんでますよね」
「そんなことないですよ」
「絶対楽しんでます」
「昨日、俺もかなり大変だったので」
「それを言われると何も言えない……」
コハルは呻いた。
マナトは鍋を火にかけながら、静かに言った。
「でも、本当に無事でよかったです」
「……はい」
「連絡がつかなかった時、かなり焦りました」
「すみません……」
「だから次からは、飲み会の前に一言ください」
「はい」
「帰る時間も」
「はい」
「誰と行くかも」
「それは過保護です」
「譲れません」
「譲ってください」
「検討します」
「絶対しないやつだ」
マナトは否定しなかった。
コハルはため息をつきながらも、笑ってしまう。
その時。
玄関の方で、ぴんぽーん、とチャイムが鳴った。
「……」
「……」
二人の動きが止まった。
コハルはゆっくりスマホを見る。
レンマから新しいメッセージが来ていた。
『ごめん、もう近くまで来てる』
「終わった」
コハルは静かに言った。
マナトは、なぜか鍋の火を弱めながら笑った。
「開けますか?」
「開けるわけないじゃないですか!」
「でも、居留守は不自然です」
「じゃあマナトさん隠れてください!」
「俺がですか?」
「はい!」
「どこに」
「……クローゼット?」
「勇者をクローゼットに隠すんですか」
「私も分類上、勇者なのでセーフです!」
「理屈が雑です」
ぴんぽーん。
二回目のチャイム。
コハルは頭を抱えた。
マナトは、やけに楽しそうに言った。
「コハルさん」
「なんですか」
「これ、俺が出たらだめですか」
「だめです!」
「なぜですか」
「朝に! 私の家から! マナトさんが出てきたら! もう完全にそういうやつじゃないですか!」
「そういうやつではありません」
「そういうやつではないけど、そういうやつに見えるんです!」
「なるほど」
マナトは、妙に納得した顔をした。
そして、さらっと言った。
「俺は別に、見られて困ることはしていません」
「そういう正論が一番困るんです!」
コハルは叫んだ。
頭が痛い。
二日酔いに大声はよくない。
しかし叫ばずにはいられなかった。
その向こうで、レンマからメッセージが届く。
『寝てる? 置き配だけして帰る』
「置き配?」
コハルは首を傾げた。
少しして、玄関の外で、がさ、と袋を置く音がした。
それから足音が遠ざかっていく。
コハルは、しばらく固まっていた。
「……帰った?」
「気配は離れました」
「よかった……」
コハルは布団に倒れ込んだ。
心臓に悪い。
ただでさえ二日酔いなのに、朝から刺激が強すぎる。
マナトが玄関へ向かい、そっと扉を開けた。
そこにはコンビニの袋が置かれていた。
中身は、スポーツドリンク。
胃薬。
ゼリー飲料。
インスタントのシジミの味噌汁。
そして、小さなメモ。
『無理しないで。あと、嘘が下手すぎ』
「……」
マナトは、そのメモを見た。
コハルも、見た。
「バレてますね」
「バレてますね……」
沈黙。
それからマナトが、口元を緩めた。
「レンマさんらしいですね」
「怒ってますかね……」
「怒っているというより、勘づいていると思います」
「それが一番嫌です……」
コハルは、両手で顔を覆った。
マナトは袋をテーブルに置き、スポーツドリンクを一本取り出した。
「でも、ありがたいですね」
「それは……はい」
「心配されてます」
「はい……」
「俺と同じくらい」
「そこで張り合わないでください」
「張り合ってはいません」
「今のは張り合ってました」
コハルがじとっと見ると、マナトは目を逸らした。
分かりやすい。
分かりやすすぎる。
コハルはため息をついた。
「……二人とも、過保護です」
「レンマさんと一緒にされるのは複雑です」
「そこも張り合わないでください」
「はい」
マナトは素直に返事をした。
その素直さが、余計にずるかった。
◇
しばらくして、お粥ができた。
白い湯気。
やわらかい匂い。
胃に優しそうな、控えめな味。
コハルはテーブルの前に座り、スプーンを持った。
「いただきます」
「熱いので気をつけてください」
「はい」
一口食べる。
あたたかい。
「……おいしい」
ぽつりと言うと、マナトの表情がほころんだ。
「よかったです」
「本当に、何でもできますね」
「何でもはできません」
「でも、お粥作れる勇者は強いです」
「戦闘力に含まれますか?」
「かなり含まれます」
「では、鍛えておきます」
「何を?」
「看病力を」
「鍛えないでください。私が体調崩す前提じゃないですか」
マナトは笑った。
その笑顔を見て、コハルはまた視線を落とした。
昨日のことは恥ずかしい。
今朝のことも恥ずかしい。
でも、この時間は嫌じゃない。
むしろ。
もう少し続いてほしいと思ってしまう。
「……マナトさん」
「はい」
「昨日、私が言ったこと」
コハルはスプーンを握ったまま、小さく言った。
「全部、お酒のせいにしてもいいですか」
マナトはすぐには答えなかった。
考えるように沈黙してから、静かに言う。
「今は、それでいいです」
「今は?」
「はい」
「またそれですか」
「無理に聞き出すつもりはありません」
マナトは、まっすぐコハルを見た。
「コハルさんが困るなら、今はお酒のせいでいいです」
「……」
「ただ、無理に全部なかったことにしなくてもいいとは思います」
コハルは、息を止めた。
ずるい。
やっぱり、ずるい。
迫ってこない。
でも、引いてもくれない。
逃げ道は残してくれる。
でも、そこで静かに待っている。
それが、とてもマナトらしかった。
「……過保護なうえに、気が長いんですね」
「そうですね」
「否定しない」
「しません」
朝の光の中で。
二日酔いの頭痛を抱えたまま。
レンマに嘘が下手だとバレたまま。
それでも、部屋の中には穏やかな空気が残っていた。
甘い、なんて言うには早すぎる。
恋、なんて名前をつけるには、まだ大げさすぎる。
けれど、ただの心配だけで片づけるには。
マナトの視線は、優しすぎた。
昨夜の記憶は、コハルから消えていた。
けれど。
マナトだけは、その全部を覚えている。
酔った勢いで縮まった距離は。
翌朝になっても。
なかったことには、なってくれなかった。




