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2-2話:酔った勢いで距離を詰めた時点で、だいたい勇者の理性は試される

 そこから数日間。


 表面上は、何も起こらなかった。


 襲撃はない。

 不審な気配もない。

 水回りも安全。

 カイリの結界も安定している。


 ただし、平和と言い切るには、日常の中に存在感の強い男が二人いた。


 マナトは相変わらず過保護だった。

 朝には体調確認のメッセージ。

 夜には施錠確認。

 食材の在庫が減っていそうなタイミングで、なぜかぴったり届く野菜と鶏肉。


 丁寧で。

 的確で。

 やや怖い。


 レンマは相変わらず軽かった。

 昼休みに何気ないメッセージを送ってきたり。

 おすすめの店を教えてきたり。

 ゲームの練習を口実に、自然と通話に混ざってきたりする。


 軽くて。

 自然で。

 距離が近い。


(……平和って、こういう感じだったっけ)


 コハルはソファでスマホを眺めながら、首を傾げた。


 平和ではある。

 間違いなく平和ではある。

 けれど、普通の日常に戻ったかと言われると、そこはかなり怪しい。


 妙に生活に入り込んでくる男が二人いる。

 それを平和と呼んでいいのかどうかは、判断が難しかった。


          ◇


 そして、金曜日。

 会社の飲み会があった。


 駅前の居酒屋。

 仕切りのある座敷席。

 テーブルには唐揚げ、枝豆、刺身、だし巻き卵、ポテトフライ。

 そして、やたらと並ぶグラス。


「かんぱーい!」


 明るい声とともに、グラスがぶつかる。

 コハルは端の席で、そっと烏龍茶を持ち上げた。


(お酒は弱くないけど……好きじゃないんだよなあ)


 飲めないわけではない。

 むしろ、体質的にはそこまで弱くない。

 ただ、好きではなかった。


 酔う感覚も。

 場の空気に飲まれる感じも。

 飲み会特有の、距離感がゆるくなる空気も。

 苦手だった。


(でも、付き合い悪いって言われるのも面倒だし……)


 独身なのに付き合いが悪い。

 若いのにノリが悪い。

 そういう、どうでもいい評価ほど地味に面倒くさい。


 だからコハルは、端で一人、ちびちびとソフトドリンクを飲んでいた。

 できればこのまま料理を食べて、適当に笑って、一次会で帰りたい。


 そう思っていた。


「コハルぅー」


 無理だった。

 隣から、ふにゃりとした声がした。


 ノアだった。

 既にだいぶ酔っている。


「誰か良い人いないのーって、親戚にも詰められてさあ」


「うん」


「二十九歳なんだからー! って。関係なくない? 余計なお世話っての!」


「そうだね」


「コハルもそう思う?」


「思う思う」


(ノア……だいぶ酔ってるな)


 コハルは相槌だけで乗り切ろうとした。

 だが、酔ったノアは止まらなかった。


「あーでもコハル、マナトさんとどうなの?」


「え」


「あと、あのイケメンの人」


「ええっ」


「ほら、なんか軽そうだけどかっこいい人」


「いやいや! あの二人はそういうんじゃ……」


「ダメ」


 ノアは、びしっと指を立てた。


「今日という今日は、白状してもらわないと」


「ええ!?」


「嫌なら……飲んで」


 目の前に、日本酒のグラスが置かれた。


 透明な液体。

 小さめのグラス。

 しかし、香りはしっかり強い。


 コハルは固まった。


「……黙秘します」


 そして、ぐいっと飲んだ。


「まじ!?」


「ほら、飲んだよ」


「ダメ。これも」


 今度は、ウイスキーの水割りが差し出された。


「……はい」


 コハルは、またぐいっと飲んだ。


「ちょ!? マジ!? めっちゃいい飲みっぷり……」


「言いたくないから」


「そんなに!?」


「うん」


 それは、嘘ではなかった。


 マナトのこと。

 レンマのこと。

 二人といる時の、安心する感じ。


 楽しい感じ。

 落ち着かない感じ。

 それを、まだ言葉にしたくなかった。


 誰かに聞かれて。

 茶化されて。

 名前をつけられて。

 自分の気持ちを、勝手に整理されたくなかった。


「コハル、意外と頑固だよねえ」


「よく言われる」


「そこは否定しないんだ」


「しない」


 その後だった。


「月岡さん、いい飲みっぷりだねえ」


 課長につかまった。


(うわ、最悪)


 コハルは内心で顔をしかめた。

 もちろん、表情には出さない。


「ええ……まあ……」


「おじさんにも付き合ってくれよ。若いやつらが全然飲んでくれなくてさあ」


(うええええ!?)


 断りたい。

 非常に断りたい。

 だが、ここで変に断ると面倒くさい。


 空気が悪くなる。

 後で何か言われるかもしれない。

 そういう判断を、社会人としてのコハルはしてしまった。


「少しだけなら……」


「お、いいねえ!」


 少しだけ。

 そのはずだった。


          ◇


 当然、そこで終わるはずがなかった。


 一杯。

 二杯。

 三杯。


 途中で水を挟もうとしたが、課長は妙に機嫌がよく、ノアは途中から泣き上戸になり、別の先輩は昔話を始めた。


 コハルは笑って、相槌を打って、飲んだ。

 一次会が終わる頃には、足元がふわふわしていた。


(あ、これ……思ったよりきてる)


 そして二軒目。

 断ればよかった。

 今なら分かる。

 絶対に断ればよかった。


 だが、ノアが腕に絡んできた。


「コハルも行くよねえ」


 課長も続く。


「月岡さんも行こうよ」


 周りも、なんとなくそういう空気になっていた。

 コハルは、断れなかった。


 二軒目では、さらに飲まされた。

 いつもは全然飲まない酒を、割と飲んだ。

 三軒目まで付き合わされた頃には、終電はすっかりなくなっていた。


(ノアはお姉さんがお迎えに来てくれたから任せられたけど……最悪)


 店の外。

 夜の空気は冷たかった。


 酔った体には、その冷たさが気持ちいい。

 けれど、胃の奥は重い。

 心臓も早い。


「月岡さん、これ。楽しかったよ」


 課長が、封筒を差し出してきた。

 タクシー代だった。


「ありがとうございます……」


(ぶっちゃけ、あなたのせいなんですけどね……)


 心の中でだけ、皮肉を言う。

 口には出さない。

 出せる状態でもない。


 コハルはふらつきながら、タクシー乗り場へ向かった。

 そこでようやく、スマホを確認する。


「うわ……やばっ」


 マナトから、大量に電話がかかってきていた。


 着信。

 着信。

 着信。

 メッセージ。

 着信。

 メッセージ。


『今どこですか』

『飲み会ですか?』

『帰れそうですか?』

『電話出られますか』

『心配です』

『場所だけ送ってください』


「……やば」


 これはかなり怒られる。

 いや、怒るというより、心配される。

 そして心配された結果、たぶん怒られる。


 コハルは電話を折り返そうとした。


 その瞬間。


 ぽん、と肩を叩かれた。


「見つけましたよ」


 低く、硬い声。

 振り返ると、作業着姿のマナトが立っていた。


「……あり?」


 コハルは、ぱちぱちと瞬きをした。


「マナトさんだ」


「はい。マナトです」


「本物?」


「本物です」


 マナトは深く息を吐いた。


 作業着の袖口。

 乱れた髪。

 目の下には、疲労の色。


「俺も機械トラブルで残業でしたが、全然電話に出なかったので」


「ありゃあ……」


「ありゃあ、ではありません」


「すみません……」


「こんなになるまで飲んで。不用心すぎます」


 いつもの丁寧な口調。

 けれど、声は明らかに低い。


 コハルはふらついた。

 足元が揺れる。

 すぐに、マナトの手が伸びた。


「危ない」


 腕を支えられる。

 そのまま、肩を抱き寄せられた。


「あったか」


「……コハルさん」


「だってぇ、ノアがぁ……課長がぁ……」


「なるほど。ノアさんが原因ですか」


「あと課長」


「課長もですね」


「うん」


「覚えました」


 何を覚えたのかは、聞かない方がいい気がした。


「帰りますよ」


「はい、はぁい」


「はいは一回です」


「はーい」


 マナトはタクシーを止め、コハルを乗せた。

 自分も隣に座る。


 車内は静かだった。

 夜の街灯が、窓の外を流れていく。


 コハルは、ぼんやりと隣を見る。

 作業着のマナト。

 いつもより近い。

 いつもより、現実感が薄い。


「マナトさん」


「何ですか」


「何でいるんですか」


「心配だったからです」


「過保護」


「はい」


「否定しないんだ」


「しません」


 マナトはまっすぐ前を見たまま言った。


「コハルさんに関しては、過保護でいると決めています」


「ふーん」


「ふーん、ではありません」


「怒ってる?」


「怒っています」


「素直だ」


「心配しました」


 その声が、思ったより柔らかくて。

 コハルは黙った。


「ごめんなさい」


「……無事ならいいです」


 マナトは、それ以上責めなかった。


          ◇


 家に着くと、マナトはタクシー代を払い、コハルを支えながら玄関まで連れていった。


「コハルさん、鍵を借りますよ」


「かぎ……バッグ……」


「失礼します」


 マナトは必要以上に中を見ないようにしながら、バッグから鍵を取り出した。


 玄関を開ける。


 部屋の中は、いつも通りだった。

 結界の気配もある。

 異常なし。

 マナトは素早く確認してから、コハルを中へ入れた。


「座ってください」


「はぁい」


「靴、脱げますか」


「脱げます」


「反対です」


「あれ」


 マナトがしゃがんで、靴を整える。


「すみません……」


「謝るくらいなら、次から飲みすぎないでください」


「はい」


「飲み会の時は、きちんと俺に教えてください」


「はい、はい、はぁーい」


「はいは一回です」


「マナトさん、お母さんみたい」


「その評価は複雑です」


 コハルはソファに座らされる。

 マナトはキッチンへ向かい、水を持ってきた。


「ほら、お水飲んでください」


「んー。冷たくて、おいしい」


「一気に飲まないでください。ゆっくり」


「はい」


「気持ち悪くないですか」


「なんか、心臓がバクバクして気持ち悪い」


「アルコールを短時間で多量摂取しすぎです」


「うう……」


「横になる前に、もう少し水を飲んでください」


 マナトは冷静だった。

 かなり冷静だった。

 だが、その冷静さは、努力で維持しているものだった。


 髪が乱れたコハル。

 赤い頬。

 潤んだ目元。

 普段より甘い声。

 明らかにおかしい距離感。


(落ち着け)


 マナトは自分に言い聞かせた。


(相手は酔っている。判断力が落ちている。今の言動を真に受けるな)


 そう思った直後。


「マナトさん」


「はい」


「ちょっと、こっち来てください」


「えっ」


 腕を引かれた。


「ぎゅー」


 コハルが、マナトに抱きついた。


「……っ」


 マナトは固まった。

 完全に固まった。


「あー……なんか、こうするとラクかも……」


「あの……コハルさん」


「んー?」


「そういうの、ダメですよ」


「マナトさん、落ち着く」


「……」


「あったかーい」


「コハルさん、俺も男ですよ」


「んー?」


「そういうの、良くないです」


「マナトさんやさしー」


 そこで、コハルは笑った。


「好き」


 マナトの呼吸が止まった。


(ちょっ……!)


 だめだ。

 これはだめだ。

 今のは酒のせい。

 雰囲気のせい。


 安心しているだけ。

 深い意味はない。


 分かっている。

 分かっているのに。


(ダメだろこれ!!)


 理性が危なかった。


 コハルの体温。

 髪の匂い。

 背中に回された腕。

 無防備すぎる声。

 全部がよくない。


(いや、でも、酔ってるコハルさんに手を出すのは、紳士としてダメに決まっている)


 マナトは、ゆっくり息を吸った。

 そして、吐いた。


 ほんの一瞬だけ、顔が近づく。

 けれど、直前で止めた。


「……だめです」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 そして、コハルの腕をそっと外した。


「寝ましょう」


「やだ」


「やだではありません」


「もうちょっと」


「だめです」


 マナトは、コハルをお姫様抱っこした。


「わ」


「ベッドに運びます」


「マナトさん、力持ち」


「一応、勇者なので」


「そっかあ」


「そっかあ、ではありません」


 ベッドまで運び、ゆっくり下ろす。


 布団をかける。

 横向きに寝かせる。


 吐いた時に危なくないように。

 呼吸が苦しくならないように。


 必要なことを一つずつ確認した。

 そして。


「……これくらいは、いいですよね」


 小さく呟いて、コハルの頭を撫でた。

 さらさらだった。


(飲み会終わりなのに、髪の毛サラサラ……しかも柔らかい。いい匂いする……)


 すぐに手を止める。


(何を考えてるんだ俺は)


 最低限。

 最低限だけ。


 マナトは自分に言い聞かせる。


 帰るか。

 それとも、心配だから泊まらせてもらうか。


 迷った。

 本気で迷った。


 だが、結局。

 マナトはソファで眠ることにした。


 急性アルコール中毒にならないとは限らない。


 必要なら水を飲ませる。

 吐きそうなら対応する。

 異常があればすぐに動く。


 そういう、きわめて正当な理由があった。

 正当な理由が、あってしまった。


「……早く、俺の気持ちに気づいてください」


 マナトは小さく呟き、ソファに腰を下ろした。

 そして、すぐに眠れるはずもなく。


 しばらく天井を見つめていた。

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