1-47話:守られるだけじゃないと決めた時点で、だいたい恋も日常も動き出す
「……どうして、マナトさんが?」
コハルは、ようやくそれだけを口にした。
驚きすぎて、声が少し裏返っていた。
目の前にいる。
本当に、いる。
福岡にいるはずの人が。
昨日まで電話越しだった人が。
今、自分の手を握っている。
「先程帰ってきました」
マナトは、いつものように落ち着いた声で言った。
ただ、その呼吸はわずかに乱れていた。
髪も乱れている。
急いできたのだと、見れば分かるくらいには。
「それは分かるんですけど、どうしてここが!?」
「コハルさんにも、レンマさんにも電話しました。カイリさんにも電話しましたが、誰も出ませんでした。だから……」
そこで、マナトは言い淀んだ。
コハルは嫌な予感がした。
レンマも、横で眉を上げる。
「心配になって、コハルさんのスマホの位置情報から割り出して、来ました」
「ええ!?」
コハルの声が、遊園地の音の中で跳ねた。
「い、位置情報!? え、いつの間に!?」
「緊急時用です」
「緊急時用って、今日べつに緊急じゃ……!」
「連絡がつかない時点で、俺の中では緊急でした」
「判断基準が重いです!」
コハルが思わず言うと、レンマが苦笑した。
「それって何? ハッキングってこと?」
「……何とでも言ってください。報告を怠る方が問題だと、俺は考えますが」
「マナト、重すぎ」
レンマの声は軽かった。
けれど、目は笑っていなかった。
マナトもまた、静かにレンマを見る。
「否定はしません」
「しないんだ」
「必要だと思ったので」
「必要ねえ」
二人の視線がぶつかった。
その瞬間。
空気が、変わった。
夕暮れの遊園地。
観覧車前の穏やかな列。
笑い声と音楽と、子どものはしゃぐ声。
その中で、二人の勇者だけが、別の温度を持っていた。
ぴり、と。
見えない何かが、周囲の空気を震わせた気がした。
(え、何これ)
コハルは固まった。
怒鳴っているわけではない。
剣を抜いているわけでもない。
魔力を放っているわけでもない。
なのに、分かる。
これは、たぶん。
喧嘩の一歩手前だ。
いや、喧嘩というより。
(……なんか、男の人同士の、変なやつだ)
言葉にしづらい。
けれど、ものすごく面倒そうなやつだった。
「あの……」
コハルは、おそるおそる声を出した。
二人の視線が、同時にこちらへ向く。
それだけで、なぜか心臓が跳ねた。
「えっと……あの……おかえりなさい、マナトさん」
困りながらも、コハルはそう言った。
言わなければいけないと思った。
だって、帰ってきたのだ。
予定より早く。
きっと無理をして。
心配して。
ここまで来てくれた。
それは、重い。
重いけれど。
嫌ではなかった。
「……はい」
マナトの表情が、ほんのわずかに緩んだ。
「ただいま戻りました」
「はい。あと……手……」
「え?」
コハルが視線を落とす。
マナトは、そこでようやく気づいたらしい。
自分がまだ、コハルの手を握ったままだったことに。
「あっ……ごめんなさい」
焦ったように、マナトが手を離した。
指先が離れる。
それだけなのに、コハルは妙に落ち着かない気持ちになった。
「い、いえ……」
「……」
「……」
「……」
沈黙。
ひどく気まずい沈黙だった。
近くでは、観覧車の係員が笑顔で客を案内している。
列は進んでいる。
夕焼けは綺麗だ。
なのに、自分たちの周りだけ空気が重い。
(なにこれ!?)
コハルは焦った。
さっきまで、レンマと観覧車に乗るかもしれないというだけで、頭の中がいっぱいだった。
そこへマナトが現れた。
しかも、手を取られた。
位置情報で来たと言われた。
レンマとマナトが、なんだか妙な空気になった。
情報量が多い。
多すぎる。
「あの!」
コハルは、耐えきれずに声を上げた。
二人が見る。
「と、とりあえず観覧車乗りませんか!?」
言った瞬間、自分でも思った。
(なぜ!?)
なぜ、この状況で観覧車なのか。
もっと他にあるはずだ。
一回落ち着きましょうとか。
お茶飲みましょうとか。
場所変えましょうとか。
でも、口から出てしまった。
「三人で?」
レンマが聞いた。
その声には、笑いが混ざっている。
「三人で、です!」
コハルは勢いで答えた。
「せっかくここまで来たので!」
「俺、今来たばかりですが」
「だからです!」
「理由になってますか?」
「なってることにしてください!」
マナトは一瞬黙った。
それから、困ったように息を吐いた。
「……分かりました」
「まあいいや。乗ろっか」
レンマも、軽く肩をすくめた。
けれどその目は、ちらりとマナトを見る。
マナトも、同じようにレンマを見た。
まただ。
また、何かが始まりそうな気配がした。
(何でこんな気まずいんだろう……)
コハルは、乗り場へ向かいながら、必死に平常心を保とうとした。
受付を済ませる。
係員が扉を開ける。
丸いゴンドラが、ゆっくりと目の前に止まる。
「どうぞ」
案内されて、まずコハルが乗り込もうとした。
その瞬間。
レンマとマナトが、同時に一歩動いた。
コハルの隣に座ろうとしたのだと、すぐに分かった。
そして、二人とも止まった。
「……」
「……」
無言。
また、無言の睨み合い。
「えっと」
コハルは振り返る。
「何か、お二人とも喧嘩してますか?」
「そんなことないよ? ね、マナト」
「はい、そんなことありませんよ……全然」
「全然って言い方が全然じゃないです」
コハルが小さく突っ込む。
結局。
マナトとレンマが隣に座った。
コハルが、その向かいに座った。
どちらも譲らなかった結果だった。
(いやいや!! 何これ、何この状況!?)
扉が閉まる。
小さなゴンドラの中に、三人だけが残された。
ゆっくりと、観覧車が動き出す。
地面が離れていく。
最初は、足元の高さが変わっただけだった。
けれど、だんだん人の姿が小さくなっていく。
遊園地の灯りが、点のように散らばっていく。
夕焼けの空は、橙から紫へ変わり始めていた。
遠くの雲の端が金色に光っている。
その上に、夜の色がゆっくり降りてくる。
「すごく……きれいですね」
コハルは、窓の外を見ながら言った。
素直にそう思った。
今日一日、ずっと楽しかった。
怖いことを忘れていたわけではない。
不安が消えたわけでもない。
でも、楽しかった。
コーヒーカップで笑って。
ジェットコースターで叫んで。
バイキングで風を浴びて。
射的で景品を取って。
そして今、観覧車に乗っている。
昨日の夜には、想像もできなかった。
「……」
「……」
返事がない。
コハルが振り向くと、マナトとレンマが、なぜかこちらをじっと見ていた。
「えっ」
コハルは思わず頬に手を当てる。
「あの、どうしたんですか?」
「いえ」
「いや」
二人の声が重なった。
それがまた、妙に気まずかった。
マナトは、目を伏せる。
レンマは、窓の外を見るふりをする。
二人とも、何かを飲み込んでいるように見えた。
コハルは、膝の上で手を握った。
心臓が、まだ速い。
でも、不思議と怖くはなかった。
むしろ、胸の奥がじんわりと温かかった。
「マナトさん」
「はい」
「おかえりなさい」
「……はい」
「頑張ってきたんですね」
マナトが、わずかに目を見開いた。
「いえ……そんな」
「そんなことあります。だって、すごく疲れてる顔してます」
「……顔に出ていましたか」
「少しだけ」
「失礼しました」
「謝るところじゃないです」
コハルが笑うと、マナトは困ったように目を細めた。
その表情を見て、安心する。
いつものマナトだ。
でも、いつもより余裕がない。
それが、なぜか嬉しくもあった。
「レンマさん」
「ん?」
「二週間、お疲れ様でした」
「いやいや、仕事だからね。俺も楽しかったし」
「でも、護衛してもらえて、心強かったです」
レンマの笑顔が、一瞬止まった。
「……そっか」
「はい」
「それならよかった」
レンマは軽く言った。
でも、声は柔らかかった。
「……今日すごく楽しかったです」
コハルは、窓の外に視線を戻した。
観覧車は、高くなっていく。
遊園地全体が見える。
光が、地上に散らばっている。
人の声は遠くなって、代わりにゴンドラの小さな揺れだけが響いている。
「私、この力を、今はちょっとだけ……誇りに思います」
その言葉に、二人が息を止めた気配がした。
コハルは、胸元にそっと手を当てる。
そこには、一昨日から身につけている石がある。
「最初は、すごく厄介で、最悪な能力だって思ってました。狙われるし、怖いし、普通の生活からどんどん離れていくし、いいことなんてないなって」
声は震えていた。
でも、止めなかった。
「帰ってきたのに、帰ってきた感じがしなくて。会社に行って、ご飯を食べて、眠って、普通に生活してるはずなのに、どこかでずっと、異世界の続きみたいなものを引きずってて」
マナトが、静かにコハルを見る。
レンマも、何も言わない。
「でも……お二人に会えた。カイリさんにも、リンカさんにも」
コハルは、ゆっくり笑った。
「だから、悪いことばっかりじゃないって思ったんです」
夕焼けが、窓越しに差し込む。
ゴンドラの中が、淡い橙色に染まった。
「この力があったから、こうやって人と人を結んで、繋げてくれたんだなって。そう思えたんです」
「……コハルさん」
マナトが小さく呼ぶ。
コハルは頷いた。
「今は、守られてばかりです」
それは、悔しかった。
怖い時に誰かが来てくれること。
助けてくれること。
守ってくれること。
それはありがたい。
でも、ずっとそのままではいたくない。
「マナトさんにも、レンマさんにも、たくさん迷惑をかけてます。カイリさんにも心配をかけてます。リンカさんにも、たぶんこれからいっぱいお世話になると思います」
「迷惑ではありません」
マナトが即答した。
「俺も、迷惑とは思ってないよ」
レンマも続けた。
その声が、あまりにも自然で。
あまりにも優しくて。
コハルは、泣きそうになった。
「ありがとうございます」
でも、泣かなかった。
今は、泣きたくなかった。
「それでも、いつか」
コハルは、二人を見た。
「私も、お二人の役に立ちたいです」
マナトの瞳が揺れる。
レンマが、息を飲む。
「いつか、私も守りたいです」
言った瞬間、自分の中で何かが決まった気がした。
大げさな決意ではない。
剣を取るとか。
戦場へ戻るとか。
そんな勇ましいものではない。
ただ。
守られるだけの人間でいたくない。
そう思った。
「だから、もう少しだけ待っててください。私、ちゃんと自分の力と向き合います」
マナトも、レンマも、すぐには何も言わなかった。
二人とも、コハルを見ていた。
真剣な顔で。
でも、どこか眩しいものを見るような目で。
その沈黙が、答えのようだった。
「……強いですね、コハルさんは」
マナトが言った。
「強くないです。すぐ慌てますし、怖いですし、今日も絶叫系ではしゃぎすぎました」
「それは強さと関係ありません」
「ありますよ。カイリさんを犠牲にしました」
「カイリくんはまあ、自分から犠牲になったとこあるけどね」
レンマが笑う。
空気が緩んだ。
「でも、ほんと」
レンマは、コハルを見た。
「今日のコハルちゃん、かっこよかったよ」
「射的ですか?」
「それもあるけど、今も」
「えっ」
「今の方が、たぶんずっと」
レンマの声は軽い。
けれど、目は真っ直ぐだった。
コハルの顔が熱くなる。
「そ、そういうことをさらっと言わないでください……」
「さらっとじゃないよ。わりと本気」
「なおさら困ります!」
コハルが慌てると、マナトが静かにレンマを見る。
「レンマさん」
「なに?」
「距離が近いです」
「向かいの席なんだけど」
「心理的な話です」
「そこまで管理する?」
「必要なら」
「重いなあ」
「自覚はあります」
「自覚あるなら直しなよ」
「検討します」
「絶対しないやつだ」
二人の会話に、コハルは思わず笑ってしまった。
さっきまで張り詰めていた空気が、ほどけていく。
変な状況だ。
ものすごく変な状況だ。
でも。
嫌ではない。
マナトがいる。
レンマがいる。
カイリはいないけれど、たぶん今ごろレポートと戦っている。
それを思うと、なんだかおかしかった。
観覧車は、頂上に近づいていた。
空が広い。
夕焼けと夜の境目。
その中に、自分たちは浮かんでいる。
コハルは、もう一度窓の外を見た。
「……本当に、きれい」
小さく呟く。
今度は、二人とも返事をしなかった。
けれど、その沈黙はさっきほど気まずくなかった。
それぞれが、それぞれの思いを抱えている。
たぶん、簡単ではない。
これからも面倒なことは起きる。
怖いことも、危ないこともある。
それでも。
今日みたいな日があるなら。
少しだけ、頑張れる気がした。
◇
やがて、観覧車は地上へ戻ってきた。
扉が開く。
係員の明るい声が聞こえる。
「足元にお気をつけください」
コハルは、ゆっくり外へ出た。
地面に足がついた瞬間、現実に戻った気がした。
遊園地の空気。
夕方の冷たい風。
遠くのアトラクションの音。
全部が、名残惜しい。
「今日はすごくいい日でした!」
コハルは振り返って、二人にそう言った。
心からの言葉だった。
レンマが笑う。
「うん。俺も」
マナトも、小さく頷いた。
「俺も、来られてよかったです」
「途中参加ですけどね」
「それは……すみません」
「謝らないでください」
コハルは苦笑した。
そして、考えてから言った。
「三人で、帰りましょう」
「そうですね」
「そうだね」
二人の声が、同時に重なった。
マナトとレンマが、ちらりと互いを見る。
その視線には、まだ火花が残っている。
けれど、さっきよりは穏やかだった。
ひとまず、休戦。
二人は言葉にしないまま、そう決めたように見えた。
コハルは、そのことに気づいているような、気づいていないような顔で歩き出す。
その後ろを、マナトとレンマが並んで歩いた。
レンマのポケットの中で、ストラップが小さく揺れる。
マナトの視線が、ふとそこに落ちる。
「……それは?」
「ああ」
レンマは、口元を上げた。
「今日の思い出」
「そうですか」
「うん。コハルちゃんが取ってくれた」
「……そうですか」
マナトの声が、ほんのわずかに低くなる。
レンマは笑った。
「マナトも、次は最初から来れば?」
「必要なら」
「またそれ?」
「必要なら、必ず」
二人は、静かに視線を交わす。
前を歩くコハルが振り返った。
「お二人とも、置いていきますよ?」
「はい」
「今行くよ」
二人は同時に返事をした。
その声がまた重なって、コハルは笑った。
夕暮れの遊園地を、三人で歩く。
恋の空気は、止まらなかった。
けれど今はまだ。
誰も、それをはっきり言葉にはしなかった。
第一章完結です。
ここまで読んでくれた方、本当にありがとうございました。
二章も引き続き読んでいただけると嬉しいです。




