1-45話:何も起きない日ほど、だいたい小さな約束が残ってしまう
朝から空は明るくて、風も穏やかで、街はいつも通りに動いていた。
通勤する人。
コンビニの前で立ち止まる人。
自転車で通り過ぎる学生。
信号待ちの車。
全部が、普通だった。
(……普通だな)
レンマは、離れた場所からコハルの勤務先の方を見ていた。
昨日の夜。
あのネックレス。
あの距離。
あの言葉。
自分で踏み込んだくせに、朝になってもまだ胸の奥が落ち着かない。
渡した。
つけた。
言った。
俺がそばにいると思って、強く握って。
(……いや、改めて考えると、だいぶ言ったな)
レンマは片手で口元を押さえた。
昨日の自分は、たぶん焦っていた。
いや、少しではない。
かなり焦っていた。
マナトが帰ってくるまで、あと三日。
その数字が、変に胸を急かしていた。
何かしないといけない。
何か残さないといけない。
そう思って、動いた。
結果、動きすぎた気もする。
それでも。
コハルが今朝、胸元を一度だけ押さえていたのを見た。
服の下に隠れていても、分かった。
あれを持っている。
外していない。
それだけで、胸の奥が熱くなった。
(……単純だな、俺)
苦笑する。
そのとき。
「レンマさん!!」
やけに元気な声が、背後から飛んできた。
振り返ると、カイリが走ってきていた。
元気だ。
とても元気だ。
ただし、目の下にはうっすら疲れが出ている。
「おはよう、カイリくん」
「おはようございます!!」
「寝た?」
「寝ました!!」
「何時間?」
「三時間です!!」
「それは寝たって言うのかな」
「仮眠です!!」
「学生は大変だねえ」
「はい!! レポートが大変で、死にそうなんです!!」
「死にそうは大げさじゃない?」
「でも本当に死にそうなんです!! レポートが!! レポートが俺を追いかけてくるんです!!」
「夢に出てきてるじゃん」
「出ました!!」
「出たんだ」
カイリは胸を張った。
胸を張るところではない。
けれど、この騒がしさはありがたい。
昨日から、空気が妙に重かった。
自分の中も。
コハルとの距離も。
マナトの存在も。
そこにカイリがいると、強制的に日常へ戻される。
それは、それで悪くなかった。
◇
夕方。
コハルは、いつも通り会社から出てきた。
鞄を両手で持って、周囲を見回す。
レンマと目が合うと、ぺこりと頭を下げた。
「お疲れ様です」
「お疲れ、コハルちゃん」
「お疲れ様です!! 月岡さん!!」
「カイリさんも、お疲れ様です」
コハルが笑う。
昨日よりは、自然な笑顔だった。
ただ、レンマを見ると、ほんのわずかに視線が泳ぐ。
それで、レンマも言葉を選んだ。
「今日は、何もなかった?」
「はい。普通でした」
「そっか」
「はい。すごく普通でした」
普通。
その言葉が、妙にやさしく聞こえた。
何も起きない日。
特別なことがない日。
怖いことも、変な気配もない日。
そういう日が、今は一番ありがたい。
「あー忙しい! 忙しい!」
カイリが突然、両手を上げた。
「レポートが大変で、死にそうなんです!!」
「そうなんですね……」
コハルが困ったように笑う。
「学生は大変だねえ」
レンマも同じように返す。
「そうなんです!! 学生は大変なんです!! でも護衛も大事です!! しかしレポートも大事です!! 俺は今、二つの大事に挟まれています!!」
「挟まれてるね」
「はい!! なので!!」
カイリは急に背筋を伸ばした。
「今日もここで失礼します!!」
「……え?」
レンマが素で聞き返す。
昨日と同じ流れだった。
「いやいや、帰り道は三人で――」
「大丈夫です!! この周辺、本日も確認済みです!!」
「いや、そういう問題じゃなくて」
「あと、俺にはレポートがあります!!」
「それは知ってるけど」
「このままだと本当に終わりません!!」
「それは困るね」
「困ります!! では!!」
カイリは勢いよく頭を下げた。
それから、なぜかレンマの方をちらっと見る。
目が合った。
妙に真剣だった。
いや、真剣というより、完全に何かを察している顔だった。
(……あいつ)
レンマが何か言う前に、カイリはくるりと踵を返した。
「月岡さん!! お気をつけてお帰りください!! レンマさん!! お願いします!!」
「あ、はい……」
コハルが戸惑いながら返事をする。
「それでは!!」
カイリは走った。
昨日と同じくらいの勢いで。
そして、あっさり視界から消えた。
残されたのは、レンマとコハル。
昨日と同じ。
二人きり。
ただし、今日は昨日よりも空気が固い。
「……元気だね」
レンマが言う。
「そうですね……」
コハルが頷く。
「レポート、大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫じゃないと思う」
「ええ……」
「でも、まあ、やるでしょ」
「カイリさん、すごく大変そうでしたけど」
「大変って言いながら、たぶん結構楽しんでるよ」
「そうなんですか?」
「うん。ああいう子は、忙しいって言いながら走り回ってる時が一番元気」
「なんとなく分かります」
コハルが笑った。
その笑顔を見て、レンマは胸の奥が緩むのを感じた。
◇
帰り道。
二人は、いつもより離れて歩いていた。
昨日のことがある。
何も言わなくても、お互いにそれを意識している。
レンマは、軽く歩調を合わせる。
近づきすぎない。
でも、離れすぎない。
コハルが怖がらない距離。
けれど、意識しないではいられない距離。
(……難しいな)
昨日、ネックレスをつけたときの距離を思い出す。
髪の匂い。
首元の白さ。
小さく跳ねた肩。
近すぎた声。
思い出した瞬間、レンマの方まで気まずくなった。
(落ち着け)
昨日から何回自分に言っているのか分からない。
コハルは、胸元に触れかけては、手を下ろしている。
その仕草がまた、目に入る。
気にしている。
それが分かるだけで、レンマの胸は熱くなる。
でも。
マナトの名前も、同時に浮かんだ。
たぶん、彼女は昨夜、マナトに話した。
女神の涙だと知った。
高価なものだと知った。
簡単に人へ渡すものではないと知った。
それでも、今つけている。
(……さて)
どう出るか。
そう考えた時だった。
「あの……」
コハルが、口を開いた。
「どうしたの?」
レンマは、いつも通りの声を意識した。
軽く。
柔らかく。
何でもないみたいに。
コハルは迷ってから、胸元を押さえた。
「昨日の、すごく高価なものだって……」
「あぁ」
レンマは頷く。
「マナトから聞いたの?」
コハルは、こくんと頷いた。
やっぱり。
「マナトさんが、知ってて」
「うん」
「簡単に人へ渡すものじゃないって」
「そうだね」
「それで、その……」
コハルの指が、服の上から石を押さえる。
「返した方がいいのかなって、思って……」
胸の奥が、一瞬だけ冷えた。
けれど、顔には出さない。
出したら駄目だ。
ここで傷ついた顔をしたら、コハルは余計に気にする。
だから、笑う。
「返さなくていいよ」
「でも……」
「コハルちゃんには、必要だと思ったんだよ。だから気にしないで」
口では、そう言った。
軽く。
何でもないみたいに。
でも、心の中ではまったく違う。
(いや。気にしてくれ)
思ってしまう。
(マナトじゃなくて……俺を見てほしい)
胸の奥が、じわっと熱くなる。
自分で思って、自分で呆れた。
守るために渡した。
それは本当だ。
でも、それだけじゃない。
自分のことを思い出してほしかった。
怖いときに、自分の名前を浮かべてほしかった。
マナトの声ではなく、自分の言葉で落ち着いてほしかった。
それが、本音だった。
「ありがとうございます」
コハルが、にこっと笑った。
その笑顔は、素直だった。
安心したような、柔らかい笑顔。
レンマは一瞬だけ、言葉を失いかける。
(……そういう顔するんだよな)
ずるい。
と、思う。
たぶん、昨日も思った。
今日も思った。
この先も何度も思う気がした。
「でも、私、レンマさんに何もお返しできてなくて……」
「いやいや! それは全然いいんだよ」
少し早口になった。
「お返しが欲しくて渡したわけじゃないし」
「でも……」
「本当にいいって」
「でも、高いものなんですよね?」
「まあ、そこそこ?」
「マナトさんは、そこそこじゃないって言ってました」
「マナト、余計なこと言うなあ」
「言ってました」
「そっか」
レンマは苦笑する。
マナト。
やっぱり厄介だ。
必要な情報を渡す。
でも、返せとは言わない。
コハルに判断を委ねる。
その距離感が上手い。
上手いから、腹が立つ。
そして、上手いからこそ、レンマも動かないといけない。
(……守るだけじゃ足りない)
昨日、自分でそう思った。
近くにいるなら、近くにいるやり方をしないといけない。
ただ護衛として隣にいるだけでは、マナトには勝てない。
コハルの中に、自分の時間を作る。
思い出せるものを残す。
そのためには。
「じゃあさ」
「はい?」
「明日、土曜日じゃん?」
「はい」
「遊びに行こう」
「えっ」
コハルが立ち止まった。
予想通りの反応。
目を丸くして、完全に固まっている。
「遊びに……ですか?」
「うん」
「私と、ですか?」
「うん」
「え、えっと……」
分かりやすく戸惑っている。
昨日のことがあるからだろう。
二人きり。
ネックレス。
あの距離。
それを思い出しているのが、表情で分かる。
レンマは軽く肩をすくめた。
「大丈夫。二人だと緊張するでしょ?」
「そ、それは……」
「カイリくんも連れてくよ」
「カイリさんも?」
「うん」
「レポートは……?」
「んー?」
レンマは笑う。
「明日までに終わらせるように言っておく」
「ええ……」
「大丈夫。あの子ならいける」
「そんな簡単に……」
「青春のためなら、たぶん頑張れる」
「青春?」
「うん。青春」
「カイリさん、巻き込まれてませんか?」
「ちょっとね」
「ちょっと……」
コハルが困ったように笑った。
その笑顔を見て、レンマは安心する。
嫌がってはいない。
少なくとも、逃げてはいない。
「それとも、嫌?」
聞く声は、軽くした。
でも内心は軽くない。
ここで「嫌です」と言われたら、たぶん普通に傷つく。
それでも、聞く。
逃げ道を塞がない。
怖がらせたら終わりだ。
「そんなことないです!」
コハルは慌てて首を振った。
「嫌じゃないです。全然、嫌じゃないです」
「そっか」
レンマは笑った。
今度は、自然に笑えた。
「でも、それじゃお礼にならないです……」
「そっか」
レンマは考えるふりをする。
本当はもう、言うことは決まっていた。
「じゃあ、次はコハルちゃんが何かお土産を買って」
「えっ?」
「俺に」
「レンマさんに?」
「うん」
「お土産……?」
「そう」
コハルはきょとんとしている。
高価なものを返すとか、同じ価値のものを用意するとか。
たぶん、そういう方向で考えていたのだろう。
でも、レンマが欲しいのはそういうものじゃない。
「高価なものをねだってるわけじゃないよ?」
「はい」
「なにか、俺のためにストラップでも買ってよ」
「ストラップ……ですか?」
「うん。キーホルダーでもいいし、変なご当地グッズでもいい」
「変なご当地グッズ……」
「俺がそれを見て、コハルちゃんを思い出せるように」
「……」
コハルが黙った。
今度の沈黙は、さっきとは違った。
戸惑っている。
照れている。
でも、嫌がってはいない。
レンマはその表情を見て、胸の奥が鳴るのを感じた。
「それでお礼になるなら……」
「なるよ」
「本当に?」
「本当に」
「そんなのでいいんですか?」
「そんなの、じゃないよ」
声が低くなった。
コハルが顔を上げる。
「コハルちゃんが選んでくれるなら、それでいい」
「……」
「それを見て、俺がコハルちゃんを思い出す。それで十分」
言ったあと、踏み込みすぎたかと思った。
でも、もう戻さない。
昨日から、自分はそういうことばかりしている。
言って。
あとから焦る。
でも、言わなかったら残らない。
残らなければ、届かない。
だから、言うしかない。
「……分かりました」
コハルが頷いた。
「じゃあ、明日、何か選びます」
「うん。楽しみにしてる」
「でも、本当に高いものは無理ですからね」
「高いものはいらないって」
「変なのでもいいんですか?」
「むしろ変なのがいいかも」
「ええ……」
「見た瞬間に、何これってなるやつ」
「それ、お礼として正解なんですか?」
「俺的には正解」
コハルが笑った。
さっきより、自然に。
その笑顔を見て、レンマは思う。
(……これでいい)
特別な言葉じゃなくていい。
劇的な展開じゃなくていい。
一緒に歩いて。
笑って。
明日の約束をする。
それで残るものもある。
女神の涙ほど強くなくても。
マナトの声ほど深く届かなくても。
コハルの中に、自分との時間が増えればいい。
「そんな堅苦しく考えなくていいんだよ」
レンマは軽く笑った。
「俺が遊びたいから誘ってるだけ」
「……そうなんですか?」
「そう」
「私がお礼したいから、じゃなくて?」
「それもあるけど」
「あるんですね」
「まあね」
レンマは目を細めた。
「でも、一番は俺が行きたいから」
「……」
「コハルちゃんと」
言った瞬間、コハルの顔が赤くなる。
レンマは内心で慌てる。
(また出すぎたか?)
でも、ここで引きすぎてもおかしい。
だから、軽く続ける。
「カイリくんもいるけどね」
「そ、そうですね」
「うん。だから気楽に」
「はい……」
気楽に、とは言った。
けれど、気楽ではないのは分かっている。
コハルも。
自分も。
たぶん明日は、普通の外出になる。
カイリが騒ぐ。
コハルが笑う。
自分がそれを茶化す。
それだけかもしれない。
でも、その“それだけ”が欲しかった。
◇
アパート前。
「じゃあ、今日はここまで」
「はい。ありがとうございました」
コハルは胸元に触れたまま、頭を下げた。
その仕草に、レンマの視線が一瞬だけ吸い寄せられる。
まだ持っている。
外していない。
それだけで、どうしようもなく嬉しい。
「明日、時間はあとで送るね」
「はい」
「カイリくんにも連絡しとく」
「レポート、大丈夫ですかね」
「大丈夫。たぶん泣きながら終わらせる」
「かわいそう……」
「でも来ると思うよ」
「来るんですね」
「来るね。あの子、そういうとこあるから」
コハルが笑う。
その笑顔を、もう少し見ていたいと思った。
けれど、ここで長居するとまた余計なことを言いそうだった。
「じゃあ、また明日」
「はい。また明日」
ドアが閉まる。
レンマは、しばらくその場に立っていた。
昨日とは違う。
勝負に出た、というより。
小さな約束を置いた。
そんな感覚だった。
(……明日、か)
明日は土曜日。
何も起きない日であってほしい。
普通に遊んで。
普通に笑って。
普通に帰る。
それだけでいい。
いや。
本当は、それだけじゃ足りない。
でも、今はそれでいい。
レンマはスマホを取り出した。
カイリへメッセージを打つ。
『明日出かけるから、レポート今日中に終わらせてね』
送信。
すぐに既読がついた。
数秒後。
『えええええええええええええええええ!?!?!?』
画面いっぱいの叫び。
レンマは思わず笑った。
「元気だなあ」
夜風が吹いた。
昨日より、穏やかな夜だった。
けれど、確かに。
距離は、変わり始めていた。




