1-44話:近くに残された石の意味を知った時点で、だいたい遠くの男も黙っていられない
コハルは、いつものようにスマホを手に取った。
マナトとの電話。
最初は、ただの安否確認だった。
ちゃんと帰れたか。
体調は悪くないか。
変な気配はなかったか。
それだけを確認するための通話だったはずなのに、気づけば、一日の終わりにその声を聞くことが当たり前になっていた。
ないと落ち着かない。
そんなふうに思っている自分に気づいて、コハルは少し困った。
胸元には、レンマから貰ったネックレスがある。
水色の石。
透明で、冷たくて、綺麗で。
握ると、心が落ち着く。
さっきまで男体化していた体も、その石を握りしめているうちに、どうにか元に戻っていた。
(……よかった)
今、男体化したままマナトと電話していたら。
たぶん、というか絶対に、何かを察される。
いや、今でも察される気はしている。
けれど、姿だけでも元に戻っていることに、コハルはひとまず胸を撫で下ろした。
通話ボタンを押す。
数回のコールのあと、すぐに繋がった。
『コハルさん』
「あ、はい。お疲れ様です」
『お疲れ様です。今日は無事に帰れましたか』
「はい。レンマさんが送ってくれたので」
『そうですか』
「はい」
短いやり取り。
いつもなら、それだけで安心する。
なのに、今日は胸の奥が落ち着かない。
指が、無意識にネックレスへ伸びる。
水色の石に触れる。
ひんやりしている。
呼吸が楽になる。
楽になる、はずなのに。
『……コハルさん?』
「はいっ」
声が跳ねた。
『今、聞いていましたか?』
「き、聞いてました」
『では、俺は今なんと言いましたか』
「えっと……」
『聞いていませんでしたね』
「すみません……」
マナトの声が低くなった。
怒っているわけではない。
でも、明らかに何かを探っている声だった。
『どうしたんですか?』
「え?」
『何かありましたね?』
「いや、なんでもないです!」
『へえ』
その「へえ」が、妙に怖い。
優しい。
落ち着いている。
いつも通り。
でも、その奥で、何かが静かに動いている。
『レンマさんですか?』
「えぇ!??」
声が裏返った。
完全に裏返った。
『分かりやすいですね』
「ちがっ……違います」
『レンマさんがまた何かしましたか?』
「またって言い方やめてください」
『では、何かしたんですね』
「違います!」
『俺に隠すようなことなんですか?』
「……」
コハルは黙った。
隠したいわけではない。
ただ、言うのが恥ずかしい。
それに、言ったらマナトがどう反応するのか、怖かった。
胸元の石に、また触れる。
冷たい。
でも、心臓は全然静かにならない。
「じ、実は……」
『はい』
「異世界遺物をもらいまして」
電話の向こうが、静かになった。
ほんの数秒。
けれど、コハルには長く感じた。
『……誰にですか』
「レンマさんに」
『……』
「え、あの、マナトさん?」
『どんなものですか』
声が硬い。
「ネックレスです。水色の石がついてて……」
『女神の涙じゃないでしょうね?』
「え?」
『何も特に言っていませんでしたか』
「はい。ヒーリング効果があるって……」
『冗談ですよね?』
「え、本当ですけど」
『水色の透き通った石ですか?』
「そうです」
『触れると、落ち着く感じがしますか』
「します」
『……そうですか』
静かだった。
静かすぎた。
コハルは思わず背筋を伸ばす。
「あの、危ないものなんですか?」
『危険性は低いです。精神安定系の遺物なら、今のコハルさんには有用です』
「よ、よかった……」
『ただ、かなり貴重です』
「貴重?」
『はい。簡単に人へ渡すものではありません』
「え」
コハルの手が、ネックレスから離れた。
急に、胸元の石がとんでもないものに見えてくる。
「そ、それって高いんですか?」
『高いです』
「ど、どのくらい……?」
『聞いたら眠れなくなると思います』
「もう眠れません!!」
『では、今は聞かない方がいいです』
「そんなに!?」
コハルは胸元を見る。
綺麗。
かわいい。
不思議。
さっきまではそう思っていた。
けれど、急に重い。
物理的には軽いのに、意味が重い。
「返した方がいいですか?」
『……』
「マナトさん?」
『返したら、レンマさんはたぶん傷つきます』
「え」
『それは、受け取っておいていいと思います』
「いいんですか?」
『……俺個人の気持ちは、別として』
「気持ち?」
『いえ』
切るのが早い。
絶対に何かある。
でも、そこを突っ込む勇気はなかった。
『コハルさん』
「はい」
『その遺物は、なくさないでください』
「はい……」
『それと』
「はい」
『レンマさんが何を言って渡したのか、聞いてもいいですか』
「えっ」
心臓が跳ねた。
そこを聞くのか。
聞かないでほしかった。
でも、聞いてほしくもあった。
『言いにくいですか』
「い、言いにくいというか……」
『では、無理には聞きません』
「……」
そう言われると、逆に言わないのが悪い気がした。
コハルはネックレスを握る。
少し落ち着く。
でも、頬は熱い。
「泣きたい時とか、怖い時とか、どうしたらいいか分からない時に……」
『はい』
「これを、強く握って、って」
『……そうですか』
マナトの声は穏やかだった。
けれど、どこか低い。
いつもの静かさではない。
抑えている静かさだった。
(俺がそばにいると思って……は言えない)
言えなかった。
それを言ったら、何かが決定的になる気がした。
マナトにも。
自分にも。
「マナトさん?」
『大丈夫です』
「大丈夫そうに聞こえないんですけど」
『大丈夫です』
「本当に?」
『はい』
間が空いた。
『コハルさん』
「はい」
『その言葉を聞いて、どう思いましたか』
「えっ」
『嫌でしたか』
「……嫌では、なかったです」
『怖かったですか』
「怖くは、なかったです」
『そうですか』
また、静かになる。
コハルはなぜか胸がきゅっとした。
責められているわけではない。
でも、マナトが何かを確かめている。
自分の感情を。
レンマの距離を。
そして、マナト自身の立ち位置を。
「でも、その……びっくりしました」
『はい』
「レンマさん、いつも余裕ある感じなのに、今日は違ってて」
『……』
「なんか、余裕なさそうで」
『そうですか』
「それで、余計に……」
言葉が止まる。
『余計に?』
「……なんでもないです」
『そこを隠されると、かなり気になります』
「言えません」
『分かりました』
追及しなかった。
それが、逆にずるかった。
マナトはいつもそうだ。
踏み込むところは踏み込む。
けれど、本当にコハルが困る手前で止まる。
その距離感が、優しい。
そして、ずるい。
『コハルさん』
「はい」
『俺は、明々後日に帰ります』
「はい」
『必ず帰ります』
「……はい」
必ず。
その言葉が、妙に胸に響いた。
『戻ったら、直接話しましょう』
「何をですか?」
『色々です』
「色々……」
『その遺物のことも。今後の警戒のことも。レンマさんのことも』
「レンマさんのことも!?」
『はい』
「いや、別に、そんな大げさなことでは……」
『大げさかどうかは、俺が確認してから判断します』
「確認って何を!?」
『色々です』
「また色々!」
電話の向こうで、マナトが息を吐いた。
ため息ではない。
困っているような。
それでも何かを決めたような。
そんな息だった。
『……正直に言うと』
「はい」
『焦っています』
「マナトさんが?」
『はい』
「焦るんですか?」
『焦ります』
即答だった。
『レンマさんは、今コハルさんの近くにいますから』
「……」
『俺は電話しかできません』
「でも、昨日は電話で助けてくれました」
『それでも、今夜あなたを送ったのはレンマさんです』
コハルは言葉に詰まった。
責められているわけではない。
でも、その言葉には、マナトの本音が滲んでいた。
悔しさ。
焦り。
それから、たぶん嫉妬。
『俺は、あなたが怖い時に、手を伸ばすことができません』
「……」
『声は届いても、触れられません』
いつもより低い声。
『それが、思っていたよりも悔しいです』
コハルは何も言えなかった。
胸元の石が、指先に触れている。
レンマは、近くにいた。
ネックレスをくれた。
首元に触れた。
言葉を残した。
マナトは、遠くにいる。
でも、こうして声だけで、コハルの心を掴んでくる。
どちらもずるい。
『だから、早く帰ります』
「……はい」
『帰ったら、俺も直接言います』
「な、何をですか」
『今は言いません』
「ええ!?」
『電話で言うことではないので』
「気になるじゃないですか!」
『気にしてください』
「マナトさん!?」
珍しく、意地悪な声だった。
でも、その奥に熱があった。
『レンマさんだけが、印象を残せると思われるのは困ります』
「……っ」
息が止まる。
マナトが、そんなことを言うと思わなかった。
胸元の水色の石。
レンマの言葉。
マナトの声。
全部が重なる。
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「……早く帰ってきてください」
言ってから、自分で驚いた。
電話の向こうも静かになった。
『……はい』
マナトの声が、柔らかくなる。
『必ず帰ります』
その声を聞いて、コハルは息を吐いた。
通話が終わるまで、胸元の石にはずっと触れたままだった。
◇
通話が切れたあと。
福岡のホテルの一室で、マナトはスマホを手にしたまま、しばらく動かなかった。
窓の外には、見慣れない夜景。
遠くで車のライトが流れている。
部屋は静かだった。
「……女神の涙」
小さく呟く。
名前を聞いた瞬間、頭の中にいくつもの情報が並んでいた。
希少性。
市場価格。
精神安定効果。
帰還者同士の贈り物としての意味。
そして、最近一部で広まり始めている、やや面倒な使われ方。
言わなかった。
コハルには、言わなかった。
今言えば、彼女は間違いなく混乱する。
価値を知れば、返そうとするかもしれない。
意味を知れば、余計に意識するかもしれない。
レンマの気持ちまで、変に重く受け取るかもしれない。
それは避けたかった。
けれど。
「レンマさん……」
マナトは眉間に指を当てた。
怒っているわけではない。
いや。
まったく怒っていないと言えば、嘘になる。
正直に言えば、かなり腹は立っている。
だが、レンマが無責任に踏み込んだわけではないことも分かっていた。
そこが厄介だった。
ただの軽薄な行動なら、否定できた。
不用意だと責められた。
距離が近すぎると、警戒の名目で止められた。
けれど、違う。
レンマはちゃんと考えている。
コハルが怖がらないぎりぎりの距離を探した。
守るための理由をつけた。
実際に役に立つものを渡した。
それでいて、自分の存在も残した。
物を残した。
言葉を残した。
触れた感覚まで残した。
それは、電話越しのマナトにはできないことだった。
「……やられたな」
認めるしかない。
悔しい。
かなり、悔しい。
さっきの声。
妙な上の空。
隠したがった言葉。
頬を赤くしているのが電話越しにも分かるような沈黙。
考えたくない。
考えたくないが、考えてしまう。
「……落ち着け」
自分に言い聞かせる。
出張中だ。
今すぐ戻れるわけではない。
それでも、心は先に走る。
夢のことが頭をよぎった。
あの妙に現実味のある悪夢。
レンマ。
コハル。
水色の石。
近すぎる距離。
まだ違う。
現実は、まだそこまで進んでいない。
付き合っていない。
婚約していない。
選ばれたわけでもない。
だが、少しだけ重なった。
それが嫌だった。
とても嫌だった。
マナトはスマホを握り直した。
予定表を開く。
帰りの便。
残りの業務。
会議。
報告。
調整できるもの。
絶対に外せないもの。
頭は冷静に動いている。
けれど、胸の奥はまったく冷静ではなかった。
「……早く帰らないと」
声に出していた。
仕事は終わらせる。
中途半端にはしない。
それは当然だ。
だが、戻る。
必ず戻る。
レンマが近くに残すなら。
自分は、直接届けるしかない。
声だけでは足りない。
電話だけでは足りない。
もう、足りないところまで来てしまった。
「……レンマさんだけに、近くにいさせるわけにはいかない」
低く呟く。
窓の外を見る。
遠い。
今はまだ、遠い。
コハルの部屋も。
コハルの声も。
あの水色の石も。
レンマの距離も。
全部、遠い。
けれど、あと三日。
三日後には戻れる。
戻ったら、直接話す。
今まで言わずにいたこと。
電話では言わなかったこと。
彼女を困らせないように、飲み込んできたこと。
全部ではない。
でも、もう少しは言わないといけない。
でなければ、届かない。
「……俺だって、負けないですから」
声は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
マナトはもう一度、予定表を見る。
あと三日。
その三日が、今までで一番長く感じた。




