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1-43話:近くに残したいものができた時点で、だいたい勝負は静かに始まっている

 その日の夜。


 仕事終わりの街は、昼より静かだった。


 ネオンは相変わらず明るいのに、人の流れだけがゆるやかに落ちている。


 コハルのアパートへ続く道。

 レンマとカイリは、いつも通りの距離で歩いていた。


 そして――

「俺は別行動しますので!!」


 カイリが急に足を止めた。


「月岡さんを送って差し上げてください!!」


「……は?」


 レンマが素で聞き返す。


「いやいや、帰り道は三人で――」


「大丈夫です!! この周辺はもう全部見てます!!」


 やたら自信満々だった。


「いやでも――」


「では!! 俺はレポートがありますので!! お願いします!!」


 ぺこりと頭を下げ、そのまま踵を返す。


 勢いのまま走り去り、あっという間に見えなくなった。


「……あいつ」


 レンマが呟く。


「え、あの……?」


 コハルが困ったように視線を向ける。


 レンマは笑おうとした。

 いつも通りに。

 何でもないみたいに。

 けれど、わずかに間に合わなかった。


(……タイミング良すぎない?)


 胸の奥がざわつく。

 二人きり。


(マナトが帰ってくるまで、あと三日)


 数字が妙に重い。


(この間に、印象を残さないと)


 焦りが滲む。


 けれど同時に分かっていた。


 コハルは押されると逃げる。

 怖がらせたら終わりだ。


 でも。


(負けたくない)


 沈黙が落ちた。

 街の音だけが、二人の間を流れていく。


「……あの」


 先に口を開いたのはコハルだった。


「どうしたんですか?」


「え?」


「なんか……無理して笑ってますか?」


 レンマの足が止まる。


「え、どうして?」


 とぼける。

 いつもならもっと自然に流せた。

 けれど今は違う。


「なんとなく、そんな気がして」


 真っ直ぐな目だった。

 逃げ道を残さないくらいに。


 レンマは息を止める。


(……やば)


 心臓が変な音を立てた。


 見られている。

 思っていた以上に。

 ずっと深く。


(……これ、ずるいな)


 その瞬間。

 抑えていたものが崩れた。


 重くするな。

 焦るな。

 頭では分かっている。

 けれど、ここで何もしなければ。

 何も残せなければ。


 マナトが戻ってきた瞬間、自分はまた一歩後ろへ下がる気がした。


 レンマは息を吐く。


「コハルちゃん」


「はい?」


 ポケットに手を入れる。

 指先が迷う。


 一度握る。

 離しかける。

 それでも、もう一度握った。


「これ」


 差し出したのは、小さなネックレスだった。


 細いチェーン。

 先端には透明感のある水色の石。

 街灯の光を受けて、静かに揺れている。


「え……」


 コハルが目を見開く。


「綺麗……」


 零れた声に、レンマの胸が緩んだ。


(よかった)


 そう思ったことは顔に出さない。


「異世界遺物だよ」


「え、何ですか、それ!?」


「女神がこっちへ干渉した時に、たまに残していく厄介なものの総称だよ」


「厄介って……」


 眉を寄せるコハルに、レンマは笑う。


「危ないものもあれば、これみたいに害のないものもある」


 軽く言う。

 けれど本当は、何度も迷った。


 渡すか。

 渡さないか。

 重すぎないか。

 引かれないか。


 考えなかった日はない。


「……綺麗ですね……」


 コハルは石にそっと触れた。


「……あ」


 息が漏れる。

 肩の力が抜けたようだった。


 レンマはその反応を見て、静かに目を細める。


「ヒーリング効果があるんだ」


 自然と声が低くなる。


「触ると、少し気持ちが落ち着く」


 コハルは石を見つめたまま頷いた。


「……ほんとだ」


 柔らかい声だった。

 その一言だけで、胸が鳴る。


「だから」


 一歩近づく。

 近づきすぎるな。

 でも遠すぎるな。

 その境界を探るように。


「泣きたいとき」


 コハルの呼吸が止まる。


「怖いとき」


 視線が上がる。


「どうすればいいか分からないとき」


 二人の距離が静かに縮まる。


 触れられそうで。

 触れられない。

 そんな距離。


「これを握って」


 ネックレスを軽く持ち上げる。


「俺がそばにいると思って」


 言った瞬間、自分でも思った。


(……踏み込んだな)


 でも、もう止まれない。


 コハルの目が揺れる。


 レンマは笑った。

 いつもの余裕の笑みではない。

 どこか困ったような。

 少しだけ照れたような笑みだった。


「俺の気持ちが、勇気をあげるから」


 言い切る。


 本当はもっと軽く流すつもりだった。


 冗談めかして。

 いつも通りに。

 でも無理だった。


 声が真剣になってしまった。


「…………」


 コハルの顔が赤くなる。


 言葉は出ない。

 ただ目だけが揺れている。

 その沈黙が長い。


(……やばい)

(重かったか?)

(今の、かなりやったよな?)


 内心では焦りまくっている。

 けれど、ここで狼狽えたら終わる。


 だから笑う。

 できるだけ自然に。


「……つける?」


「え……あ、はい……」


 コハルは頷いた。


 レンマはネックレスを受け取る。

 そして背後へ回った。


 近い。

 思っていた以上に。

 コハルの髪が揺れる。

 首筋が見える。

 肩がわずかに固い。


(落ち着け)


 留め具を持つ指に力を入れる。

 風で敵を斬るより難しい。


 そう思った。


 指先が首元に触れる。

 一瞬だけ。


「……っ」


 コハルの肩が跳ねた。


「ごめん」


 声が近い。


 思った以上に近い。

 レンマ自身が焦る。

 留め具を留める。


 すぐに距離を取った。

 それ以上近くにいたら危ない気がした。


「似合ってる」


 自然に言ったつもりだった。


 でも。

 見てしまった。

 胸元で揺れる水色の石。


 思った以上に似合っている。

 レンマは一瞬言葉を失う。


「……ありがとうございます」


 コハルの声も少し震えていた。

 石は冷たいはずなのに。


 その奥は熱を持っているように見えた。


          ◇


 アパート前。


「じゃあ、ここまで」


 いつも通りに言う。

 けれど空気はもう違っていた。


「……はい」


 コハルはネックレスに触れたまま頷く。


「ちゃんと持っといて」


「はい……」


「なくしたら困る」


 笑う。


 本当はかなり困る。

 なくされたくない。

 忘れられたくない。


 マナトが帰ってきたあとも。

 胸元に残っていてほしい。

 そんなことまで考えている自分に苦笑する。


「……これ、大事にします」


 その一言で胸が熱くなる。


「うん」


 短く返した。

 それ以上は危ない。

 余計なことを言いそうだった。


「じゃあ、また明日」


 軽く手を上げる。

 振り返らない。

 振り返ったら顔に出る。


(……勝負には出た)


 そう思う。

 でも同時に。


(……出すぎたかも)

 とも思った。


          ◇


 ドアが閉まる。

 その瞬間だった。


「……無理」


 コハルはその場にしゃがみ込んだ。


 ネックレスを握る。

 心臓がうるさい。


「なに、今の……」


 ただのプレゼントじゃない。

 ただの優しさでもない。


 あの距離。

 あの声。

 あの指。

 あの言葉。


(俺がそばにいると思って)


 頭から離れない。


「……ずるい」


 ぽつりと零れた。

 次の瞬間。

 体が変わる。


「ちょ、ちょっと待って……!」


 男体化。

 慌てて壁に手をつく。

 呼吸が乱れる。


(何で今……!)


 分かっている。

 原因は明白だった。


 レンマ。

 あの距離。

 あの言葉。


 そして――

 余裕のなかった顔。


(……余裕なさそうだった)


 思い出しただけで顔が熱くなる。


 いつものレンマなら違う。

 もっと軽い。

 もっと器用だ。

 もっと上手に人の懐へ入り込む。

 でも今日は違った。


 迷っていた。

 焦っていた。

 それでも逃げなかった。


「……あんな顔、するんだ」


 ネックレスを握る。

 心が少し落ち着く。

 なのに。


(余計にドキドキするんだけど……!)


 胸の奥は落ち着かない。

 怖いわけじゃない。

 嫌なわけでもない。


 むしろ逆だから困る。


(……どうしよう)


 答えは出ない。


(マナトさん、明々後日帰ってくるのに……)


 その名前を思い浮かべる。

 すると今度は別の顔が浮かんだ。


 電話越しに声を掛けてくれた人。

 遠くにいるのに届いた人。

 安心させてくれる人。


 そして。

 今日。

 目の前で踏み込んできた人。


 頭が追いつかない。


「うぅ……」


 思わず額を押さえる。

 整理できない。

 どちらがどうとか。


 好きとか。

 そういう話じゃない。


 ただ。

 確実に何かが変わり始めている。

 昨日までとは違う。

 そんな予感だけはあった。


 コハルは膝を抱える。


 男の姿のまま。

 部屋の隅で小さくなる。

 胸元では、水色の石が静かに揺れていた。


 まるで。

 持ち主の心を知っているみたいに。


(……明日、どんな顔して会えばいいの)


 答えは出ない。

 出ないまま。

 夜だけが過ぎていく。


 そして――

 レンマはきっと知らない。


 今日渡したそのネックレスが。

 想像していた以上に。

 コハルの心へ残ってしまったことを。

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