1-42話:近くにいるだけじゃ足りないと気づいた時点で、だいたい何かが変わる
翌日。
コハルは、何事もなかったみたいに出勤していった。
顔は、昨日よりすっきりしていた。
昨夜の影が、ほんのわずかに薄れている。
それを見て、レンマはほっとする。
同時に、別の顔が浮かんだ。
マナト。
(……そりゃそうだよね)
分かっている。
昨日のあの状態から、あそこまで持ち直した理由。
自分じゃない。
近くにいたのは、自分だったのに。
あの場に立っていたのも、自分だったのに。
最後に、あの子の呼吸を整えたのは――
遠くにいるあいつだ。
(……嬉しいことなのにな)
胸の奥に、黒いものが残る。
薄くはなっている。
でも、消えない。
引っかかる。
たぶんこれ、しばらく残るやつだ。
◇
風が吹く。
結界の余韻が、まだ空気に薄く残っている。
昼の光は、やけに穏やかだった。
昨夜の騒ぎが嘘みたいに、街は何事もなく動いている。
人が歩く。
車が通る。
遠くで、子どもの笑い声がした。
(……平和だな)
ぽつりと、そんな言葉が浮かぶ。
けれど――
レンマの視線が、遠くを向いた。
昨夜。
リンカの声。
『東北に来い』
短かった。
説明もなかった。
理由もなかった。
それなのに、あの一言だけで十分だった。
“何かが起きている”と分かるには。
(……結局、あのあと電話しても繋がらない)
発信履歴だけが残っている。
折り返しはない。
あの人が出ない時は、大体ろくでもない時だ。
(本格的に動いてるな)
胸の奥で、別の緊張が静かに広がる。
さっきまで考えていたのは、コハルのことだった。
マナトのことだった。
距離のことだった。
でも――
それとは別の線で、確実に何かが進んでいる。
しかも、そっちは待ってくれない。
「……平和だね」
さっき自分で言った言葉を、噛みしめる。
こんなにも穏やかで。
こんなにも普通で。
なのに、その裏で、確実に何かが崩れ始めている。
(……タイミング、最悪だな)
小さく息を吐く。
コハル。
マナト。
東北。
全部が同時に動いている。
どれも、後回しにはできない。
でも――
全部に手を伸ばせるほど、器用でもない。
「レンマさん?」
カイリの声で、意識が戻る。
「ん、なんでもない」
軽く返す。
顔は、いつも通りに戻しておく。
不穏は、外に出すものじゃない。
まだ、ここは平和だ。
少なくとも――
コハルが帰ってくるまでは。
コハルのアパート周辺。
昼間のパトロール。
昨夜の襲撃を受けて、警戒レベルは一段階引き上げられている。
侵入経路の再確認。
結界の張り直し。
違和感の洗い出し。
やることは多い。
カイリは外壁に手を当て、静かに目を閉じた。
「……いきます」
声が、わずかに低くなる。
次の瞬間。
淡い光が、指先から広がった。
見えない膜が、空気に溶けるように張られていく。
壁。
窓。
換気口。
配管。
敵に使われた“穴”を、ひとつずつ潰していく。
丁寧に。
執拗に。
光は柔らかい。
だが、触れれば確実に弾く強さがある。
「相変わらず、綺麗に張るね」
「ありがとうございます!!」
即答。
やっぱり元気だ。
「昨日より厚くしてます。二重……いや、三重構造です」
「へえ」
「分身体侵入も想定して、内側にも仕込んでます!」
「……いいね」
素直に評価する。
若い。
声は大きい。
リンカへの好意も隠さない。
でも、判断は的確だ。
昨日のミスを、そのまま今日の修正にしている。
レンマは視線を外した。
(……こっちは、どうだか)
自分の中は、まだ整っていない。
戦闘の反省。
リンカの言葉。
東北の件。
そして――
コハルとマナト。
さっき見た顔が、頭に残っている。
安心した顔。
軽くなった呼吸。
――あれ、自分じゃ出せなかったやつだ。
「ねえ、カイリくん」
「なんでひょう!?」
噛んだ。
「噛んだ?」
「あっ、すみません!! 何でしょう!!」
「うん、それでいい」
笑ってから、レンマは続ける。
「カイリくんはさ、好きな人がいるとするじゃん?」
「はい! リンカさんですね!」
「……まあ、それでもいいし、別でもいいけど」
「はい!!」
迷いがない。
「その人を、別の誰かも好きだったとする」
「恋敵ですね!」
「理解が早いね」
「はい!」
「その恋敵が強かったら、どう動く?」
「それは……うーん」
カイリは手を止めずに考えた。
「……同じことはしないです」
「同じこと?」
「はい。同じことしてたら勝てません。だから、違うことをします」
レンマは目を細める。
「例えば?」
「恋敵が落ち着いてる人なら、こっちは賑やかに行きます。逆なら、逆で」
「なるほどね」
単純。
でも、芯は外していない。
「だから――」
カイリは顔を上げた。
「マナトさんが落ち着いてるタイプなら、レンマさんはもう少し近づいて、意識させた方がいいと思います!!」
「ええっ!? ちょっと……」
思わず素が出る。
「分かりますよ。ずっと一緒にいましたから!!」
「……やられたね」
「レンマさんが、年下の俺に聞くってことは、相当参ってるってことです!!」
直球。
「リードしてたら、こんな話しません!!」
「……グサッと来るね、それ」
「すみません!!」
「いや、いいよ」
レンマは小さく笑う。
図星だった。
余裕があれば、こんな話はしない。
そもそも――
自分から弱みを曝け出すタイプじゃない。
「でもさ」
「はい!」
「昨日は完全にマナトのターンだったよね」
「そうですね!!」
即答。
「即答する?」
「はい!!」
迷いがない。
「……まあ、そうだよね」
肩をすくめる。
あの状況。
あの距離。
それでも届いた声。
思い出すと、胸の奥がざらつく。
悔しい、というより。
――届かなかった、という感じだ。
「でも」
カイリが声を落とす。
「負けではないと思います」
「へえ」
「役割が違うだけです」
レンマは視線を向ける。
「どう違うの?」
「マナトさんは落ち着いているので、安心させてくれる人です」
「うん」
「レンマさんはその距離感で、心を溶かしてくれる人です」
「……」
「どっちも必要です。でも、同じ土俵じゃないです」
結界が閉じる。
光が、静かに消える。
「だから、勝負の仕方も違います!!」
風が吹く。
レンマは黙った。
(遠くと、近く、か)
遠くにいて、届くやつ。
近くにいて、届かなかった自分。
比較すると、ちょっと笑えない。
「……なるほどね」
小さく呟く。
昨日の自分は、“守る”に寄りすぎていた。
正しい。
でも、それだけじゃ足りない。
“怖くない状態”までは作れても、
“立ち上がる理由”までは渡せていない。
そこを、あいつに持っていかれた。
「レンマさん!!」
「ん?」
「勝ってほしいです!!」
「ほんと?」
「はい!! かっこいいですから!!」
レンマは息を吐く。
「それ、マナトと仕事してたら、マナトにも言うでしょ」
「そうかもしれません!!」
「ははっ、正直だな」
ポケットに手を入れる。
視線は、コハルの部屋。
さっきの顔が、まだ残っている。
軽くなった顔。
(……あれ、次は俺で出させるか)
ふっと、考える。
「やり方、変える」
「え?」
「守るだけじゃなくて、“近くにいる”こともやる」
ただそばにいる、じゃない。
ちゃんと、意識させる距離で。
「……いいと思います!!」
「でしょ?」
軽く笑う。
でも、風は少し変わった。
守るだけじゃない。
距離を詰める。
意識させる。
あいつには、あいつのやり方がある。
なら、自分も。
同じ土俵に乗らないなら――
横から奪いに行けばいい。
「……さて」
軽く伸びる。
「続けよっか」
「はい!!」
二人は歩き出す。
昼の中を。
何も知らない日常の中を。
でも裏では、まだ終わっていない。
東北。
勇者招集。
残り火。
そして距離。
(明日は違う、か)
レンマは小さく笑った。
その笑みは軽い。
けれど、胸の奥には、まだ陰りが残っていた。




