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1-40話:最悪の夜が終わった時点で、だいたい安心も説教も電話越しに来る

 黒い球は、透明な結界膜に包まれたまま、夜の空気の中で震えていた。


 暴れる。

 内側から叩く。

 逃げようとする。


 けれど、もう遅い。


 レンマの風が外側を押さえ、カイリの結界が内側の逃げ道を潰している。


 黒い影は、霧にも、泥にも、影にも戻れない。

 ただ、小さな球の中で醜く蠢くだけだった。


 数分後。


 マンション前に、黒い車が二台停まった。

 降りてきたのは、ヘリオス・サービスの回収班だった。


 制服でもスーツでもない。

 ただ、全員が妙に静かで、慣れていた。

 非日常を、日常の業務みたいに処理する人たち。


 その一人が、レンマに軽く頭を下げる。


「対象の引き渡し、確認します」


「よろしく。中の分身体もカイリくんが封じてる」


「承知しました」


 黒い球は、専用のケースに収められた。


 透明な筒のような容器。

 その内側に、幾何学模様の光が何重にも走っている。


 黒い影が、一瞬だけ大きく膨らんだ。


 だが、ケースの内壁に触れた瞬間、ばち、と青白い光が弾けた。

 影はすぐに縮んだ。


「うわ。嫌そう」


 カイリが見つめる。


 レンマが呟く。


「まあ、嫌だろうね」


 回収班は淡々と作業を続ける。


 コハルの部屋にいた分身体も、カイリの結界ごと小型の封印容器に移された。


 部屋の中には、まだ嫌な気配が残っていた。

 でも、さっきまでのような圧迫感はない。


 終わった。

 少なくとも、今夜の襲撃は。


 コハルは、部屋の隅で毛布を肩にかけたまま座っていた。


 男の姿はもう解けている。

 いつもの自分の身体に戻っている。

 それでも、手はまだ震えていた。


 玄関の方で、レンマが回収班と短く話している。

 カイリは結界の残留反応を確認していた。


「月岡さん」


 カイリが振り返った。


「はい」


「室内の結界、念のため厚くしておきます。浴室、玄関、窓、換気口、排水管周辺。全部です」


「ありがとうございます……」


「いえ!」


 返事が大きい。

 でも、いつもより抑えている気がした。

 たぶん本人なりに気を遣っている。


 そこへ、レンマが戻ってきた。


「引き渡し完了。ヘリオス側で解析に回すってさ」


「……捕まえたんですよね?」


「うん。今度は本体っぽい。少なくとも、さっき外で暴れてたやつは回収した」


 レンマは軽く言う。

 でも、その目はまだ鋭かった。


「ただ、仲間がいる可能性は残る。だから、油断はしない」


「はい……」


 コハルは小さく頷いた。


 安心したい。

 でも、安心しきれない。

 敵は捕まった。

 けれど、この部屋に入られた。

 マナトとレンマの顔を使われた。

 自分の心の中を覗かれた。

 その気持ち悪さは、まだ胸の奥に残っている。


 レンマはそれを分かっているみたいに、無理に明るくしなかった。

 ただ、いつもより柔らかい声で言った。


「引き続き警戒強めとくから。安心してね、コハルちゃん」


「……はい」


 続けて、カイリが背筋を伸ばす。


「俺も、警戒強めます! 月岡さんは、おやすみください!」


「ありがとうございます」


「はい!」


「声量」


「あっ、すみません」


 空気が緩んだ。

 コハルは毛布を握りしめたまま、小さく笑う。


 笑えた。

 それだけで、自分でも驚いた。

 レンマがそれを見て、ほっとしたように目を細める。


「じゃあ、俺たちは外と廊下見るから。何かあったらすぐ呼んで」


「はい」


「スマホ、手元に置いといてね」


「はい」


「あと、ドアは開けない」


「はい」


「俺の声でも?」


「……開けません」


「よし。偉い」


 レンマは軽く手を振り、カイリと一緒に部屋を出た。


 鍵の音。

 結界の淡い光。

 遠ざかる足音。


 部屋が静かになる。


 コハルはしばらく、動けなかった。


 ソファの上で膝を抱え、スマホを見つめる。

 すると、画面が震えた。

 表示された名前は、マナト。

 心臓が、一度強く鳴った。


 コハルはゆっくり通話ボタンを押した。


「……もしもし」


『コハルさん』


 低くて、落ち着いた声。

 でも、その奥に張り詰めたものがある。


『よくやってくれました』


「はい……」


『無事でよかったです』


「……」


 その一言で、急に喉の奥が詰まった。

 さっきまで、なんとか保っていた。


 殴った。

 立った。

 泣かないようにした。


 でも、マナトの声を聞くと、力が抜けてしまう。


『今度こそ本体を捕まえられたみたいなので、今夜は安心して――は無理だと思いますが』


「無理ですね」


『ですよね』


 マナトの返しが早くて、コハルは笑った。


『この前の影の瞬間移動の男とは別ですからね。でも、敵が一人減ったのは確かです』


「そうですね」


『今日で十日目ですね』


「はい……」


『早く、帰りたいです』


「ホームシックですか?」


 冗談のつもりで言った。

 けれど、電話の向こうのマナトは、すぐには返さなかった。


『それもありますし……』


「はい」


『コハルさんに会えないと、不安で俺の心が保たないんです』


「ええ!?」


 思わず声が裏返った。


『危なっかしいんですよ』


「なんか、子供扱いされてます!?」


『否定はしません』


「私のほうが年上なのにっ!」


 そう言った瞬間、電話の向こうが静かになった。


「……マナトさん?」


『それもそうですね』


「はい?」


『じゃあ、今度お姉さんらしいところ見せてください』


「え!? 急になんですか!?」


『ふふっ』


 マナトらしくない笑い声だった。

 低くて、楽しそうで。

 いつもの丁寧な声より、近い。


 そのせいで、コハルの頬が一気に熱くなった。


「からかわないでくださいっ!」


『コハルさんは、からかい甲斐があるので』


「……」


 完全に、自分が年下みたいに扱われている。


 とてもよくない。

 コハルは毛布をぎゅっと握った。


「そういえば」


『はい』


「さっき、どうして私の状況が分かったんですか?」


『なんのことですか?』


「メッセージくれたじゃないですか」


『……』


「……」


 沈黙。


 妙に長い。


「マナトさん?」


『勘です』


「絶対嘘!! わかりやすっ!!」


『えっと……』


「……」


『その……』


「……」


『引きませんか……?』


「早く……言ってください」


 コハルの声が低くなる。

 電話の向こうで、マナトが息を吸った。


『簡単に言うと、ハッキングに近いことをしました』


「……えっ?」


『コハルさんのスマホにアクセスして、危機的状況が分かるようにしたんです』


「それって……」


雷帝掌握(ボルトマスター)の応用です』


「電撃を放つスキルじゃなかったの!?」


『まあ、そうなんですが……電化製品くらいなら、電波を飛ばしてハッキングできるようになりました』


「…………」


 コハルはスマホを耳に当てたまま固まった。


 最悪の事実が発覚した。


 いや、助かった。

 助かったのは事実だ。

 あのメッセージがなければ、フルポテンシャルを発動できなかったかもしれない。


 でも。

 でも、スマホにアクセス。

 危機的状況が分かるように。


 それはつまり。


「……マナトさん」


『はい』


「今とかは?」


『いや、でも、今とかはしてませんからね!』


 早い。

 返事が早すぎる。


「……私の今の格好、分かりますか?」


『いや、そんな……常に探ってるわけではないので……』


「常に、という言い方がすでに怖いんですけど」


『違います。違うというか、常時監視ではなく、異常値検知に近いです』


「異常値検知」


『音声、加速度、通信状態、周辺電波の乱れ、急激な操作不能状態などを拾って、危険かどうかを判断するだけです』


「だけ、じゃないです」


『はい。すみません』


 マナトは素直に謝った。

 その声に、コハルは言葉を失う。


 怒りたい。

 怒るべきだと思う。

 これはかなり危ない。

 でも、そのおかげで助かった。

 それも分かっている。


「……どこまで見えるんですか?」


『映像は見ていません』


「本当に?」


『本当です。カメラにはアクセスしていません。マイクも常時起動ではありません。異常音検知のフラグだけです』


「専門用語で煙に巻こうとしてません?」


『してません』


「じゃあ、さっき私が何してたかは?」


『分かりません』


「本当に?」


『本当です』


「じゃあ、今の私は怒ってると思いますか?」


『……怒っているというより、恥ずかしがっていると思います』


「分かってるじゃないですか!!」


『声で分かります』


「もう!!」


 コハルは毛布を頭からかぶりそうになった。

 でも、スマホを持っているのでできない。


 恥ずかしい。

 ものすごく恥ずかしい。


 助かった。

 ありがたい。

 でも恥ずかしい。


 この感情をどう処理すればいいのか分からない。


『コハルさん』


「はい……」


『勝手にしたことは謝ります。許可を取るべきでした』


「……はい」


『ただ、今の状況では、俺が遠隔でできることが限られています。だから、少しでも危険を拾えるようにしました』


「……」


『言い訳に聞こえると思います』


「聞こえます」


『はい』


「でも……助かりました」


『……』


「だから、怒りたいけど、怒りきれないです」


『それは、かなり困らせていますね』


「困ってます」


『すみません』


「でも、次からは言ってください」


『はい』


「勝手にスマホに入らない」


『はい』


「カメラは絶対ダメ」


『絶対にしません』


「マイクもダメ」


『危険検知以外では使いません』


「危険検知も、後で説明してください」


『分かりました』


「あと」


『はい』


「私が寝てる時に変なこと確認しないでください」


『しません』


「本当に?」


『本当に』


「じゃあ、今の会話、レンマさんに言っていいですか?」


『それはやめてください』


「なんでですか?」


『ものすごく面倒なことになります』


「やっぱり後ろめたいんじゃないですか」


『後ろめたいです』


 即答だった。

 コハルは思わず笑ってしまった。


「そこは認めるんですね」


『はい。かなり』


「マナトさん、真面目なのに、たまにすごいことしますよね」


『今回に関しては、自覚があります』


「ありますよね」


『あります』


 電話の向こうで、マナトが息を吐いた。


『……怖かったですよね』


 急に声が柔らかくなった。

 コハルは、返事に詰まった。


「……怖かったです」


『はい』


「レンマさんの顔で笑われるのも、マナトさんの顔で近づかれるのも、すごく嫌でした」


『はい』


「分かってるのに、体が動かなかったんです。違うって分かってるのに、見た目が知ってる人だと、一瞬止まっちゃって」


『当然です』


「当然ですか?」


『当然です。信頼している相手の姿を使われたんです。判断が鈍るのは、あなたの弱さではありません』


「……」


『それでも、あなたは見抜いて、拒んで、殴った』


「はい……」


『本当に、よくやりました』


 コハルの目の奥が熱くなる。


 泣きたくない。

 もう泣きたくない。


 でも、声が震えた。


「……マナトさんが、姿じゃなくて行動を見ろって言ってくれたから」


『それを選んだのはコハルさんです』


「でも」


『俺は言っただけです。実際に見て、判断して、立ったのはあなたです』


「……」


『誇っていいです』


 その言葉で、コハルは息を吸えた。


 今日の夜は、最悪だった。

 部屋に入られた。

 大切な人たちの姿を汚された。

 怖かった。


 でも、自分は殴った。

 泣くだけでは終わらなかった。


「……ありがとうございます」


『こちらこそ』


「え?」


『無事でいてくれて、ありがとうございます』


 まただ。


 こういうことを真面目に言う。

 コハルは毛布の中で、顔を真っ赤にした。


「そういうの、ずるいです」


『何がですか?』


「そういうところです」


『よく分かりませんが、すみません』


「分かってないなら謝らないでください」


『はい』


 沈黙が落ちた。


 さっきまで怖かった部屋が、電話越しの声で少しだけ違って感じる。


 静けさはまだ怖い。

 浴室の方は見たくない。


 でも、スマホの向こうにマナトがいる。

 外にはレンマとカイリがいる。

 それだけで、完全ではないけれど、息ができた。


『今日は、眠れそうですか』


「正直、無理そうです」


『ですよね』


「はい」


『では、眠くなるまで繋いでいてもいいです』


「マナトさん、寝る気あります?」


『あります』


「努力します、じゃないんですか?」


『努力します』


「ほら」


『善処します』


「もっと怪しい」


 コハルは笑った。

 今度は、自然に。


『笑えましたね』


「……はい」


『よかったです』


「マナトさん」


『はい』


「明日、レンマさんにスマホの件言います」


『……』


「言います」


『軽めにお願いします』


「内容によります」


『非常に困りました』


「困ってください」


 電話の向こうで、マナトが笑った。

 やっぱり、珍しい笑い方だった。


『分かりました。説教は受けます』


「はい」


『でも、後悔はしていません』


「そこは反省してください」


『反省はしています。後悔はしていません』


「頑固」


『はい』


 コハルは、ため息をついた。


 最悪の夜だった。

 怖くて、気持ち悪くて、恥ずかしくて、腹も立っている。


 でも。

 その全部の中に、安心が混ざっている。

 それが、悔しいくらいありがたかった。


『コハルさん』


「はい」


『今夜は一人じゃありません』


「……はい」


『外にレンマさんとカイリさんがいます。俺も起きています』


「マナトさんは寝てください」


『善処します』


「また」


『でも、何かあれば必ず気づきます』


「ハッキングで?」


『……できれば、そこは遠隔警戒と言ってください』


「嫌です」


『はい』


 コハルはまた笑った。

 そして、スマホを握り直す。


「マナトさん」


『はい』


「今は、ありがとうございます」


『今は?』


「スマホの件は、あとで怒ります」


『はい』


「でも、今は……助かりました」


『……はい。それで十分です』


 電話の向こうの声は、安心していた。


 コハルはソファに体を預ける。

 毛布を肩まで引き上げる。


 浴室は、まだ怖い。

 水の音も、まだ怖い。

 誰かの顔を信じることも、少し怖い。


 でも。

 行動を見ればいい。

 そう言ってくれた声がある。


 外では、風が静かに吹いている。

 さっきまで怖かったその音が、今は頼もしかった。


 コハルは目を閉じた。

 通話は、まだ切らなかった。

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