1-39話:軽い男が本気で怒った時点で、だいたい夜の風は逃げ道を塞ぐ
外では、風が荒れていた。
ただの風ではなかった。
夜の空気そのものが、何かに怒っているみたいだった。
マンションの外壁に沿って、白い刃のような風が走る。
電線が震える。
街灯が揺れる。
植え込みの葉が、まとめて同じ方向へ伏せる。
その中心に、レンマが立っていた。
いつものように笑っている。
軽く。
気楽そうに。
肩の力が抜けたような姿勢で。
けれど、その目だけが笑っていなかった。
「いやあ」
レンマは、目の前の影を見上げる。
「ほんと、面倒なことしてくれるね」
マンション前の道路に、黒い人影が立っていた。
人型ではある。
でも、人間ではない。
顔がない。
輪郭が曖昧。
黒い霧と泥を、人の形に無理やり固めたような存在だった。
その背後から、細い影が何本も伸びている。
排水溝。
電柱の影。
車の下。
マンションの壁。
夜の中にある暗がり全部が、その男の体の一部みたいだった。
「分身体は中か」
レンマが呟く。
「コハルちゃんの部屋に入ったね」
黒い影は答えない。
ただ、顔のない頭をわずかに傾けた。
その仕草だけで、レンマのこめかみがぴくりと動く。
「……へえ」
声が低くなった。
「今、笑った?」
次の瞬間。
風が跳ねた。
黒い影の左半身が、斜めに裂ける。
音は遅れて来た。
空気が切られ、地面が削れ、アスファルトに細い線が刻まれる。
影はぐにゃりと歪み、すぐに元へ戻ろうとした。
「戻るなよ」
レンマが指を動かす。
風の糸が、裂けた部分に絡みついた。
再生しようとした黒い霧が、細かく切り刻まれて散る。
影が初めて動いた。
地面の影が一斉に伸びる。
蛇のように。
槍のように。
レンマの足元から。
背後から。
横から。
同時に突き上がる。
「遅い」
レンマは一歩も動かなかった。
風が足元で円を描く。
迫ってきた影の槍が、その円に触れた瞬間、全部細切れになった。
黒い破片が雨のように散る。
けれど、その一つ一つが、また小さな虫のように動き出す。
「うわ」
レンマは笑った。
「気持ち悪い」
声は軽かった。
軽かったのに、温度がなかった。
「しかも、あれでしょ。中の分身体、コハルちゃんの知り合いになるやつでしょ」
影が、ぴたりと止まった。
レンマの笑みが深くなる。
「図星?」
風が、さらに強くなる。
「最低だね」
その一言と同時に、レンマの周囲の空気が沈んだ。
重い。
見えない圧力が、道路全体を押さえつける。
黒い影の足元が、アスファルトにめり込む。
逃げようとした影の枝が、風圧で地面へ叩きつけられる。
「コハルちゃんの怖がる場所に入って」
レンマが一歩進む。
「水道とか、排水口とか、風呂場とかさ」
また一歩。
「今度は、安心してる相手の顔を使って部屋に入る?」
黒い影が、後ろへ下がろうとする。
できなかった。
背後には、もう風の壁があった。
左右にも。
上にも。
道路の上に、見えない檻ができていた。
「逃げ道、ないよ」
レンマは笑う。
「俺、今けっこう怒ってるから」
影の体が膨らんだ。
黒い霧が広がり、レンマを包もうとする。
街灯が一瞬消えかける。
周囲の影が濃くなる。
けれど。
「だから遅いって」
レンマが手を横に払った。
風が横薙ぎに走る。
黒い霧が、全部裂けた。
霧なのに、布のように裂けた。
裂けた先から、さらに細かい風の刃が入り込み、再生する前に削り続ける。
影の奥から、低い声が漏れた。
「……なぜ、そこまで怒る」
「は?」
レンマの声が、さらに冷えた。
「対象は、お前の所有物ではない」
「そうだね」
レンマは即答した。
「コハルちゃんは誰のものでもない」
風が一瞬止まる。
その静けさが、逆に怖かった。
「だからさ」
レンマの目が細くなる。
「勝手に踏み込んだお前が、いちばん許せないんだよ」
次の瞬間、風が爆ぜた。
影の右腕が消える。
左足が砕ける。
胴体に何十本もの切れ込みが入る。
再生しようとするたび、風が先回りする。
逃げようとするたび、道を塞ぐ。
影の一部がマンションの壁へ溶け込もうとすれば、壁面を這う風がそれを削り落とす。
排水溝へ逃げようとすれば、逆向きの風圧が黒い霧を押し返す。
「水路はもう使わせない」
レンマが呟く。
「影も使わせない」
風の糸が、道路の影全部に絡みつく。
「壁も、隙間も、換気口も」
マンションの外壁を、細い風が走る。
「コハルちゃんの部屋に繋がるものは、全部俺が塞ぐ」
黒い影が、初めて明確にたじろいだ。
その瞬間だった。
マンションの中から、鈍い衝撃音が響いた。
何かが壁に叩きつけられた音。
続いて、カイリの大きな声が無線に入ってきた。
レンマの視線が、一瞬だけ上へ向いた。
「……中も動いたね」
その顔に、わずかに安堵が浮かぶ。
「カイリくん、間に合ったか」
次の瞬間。
レンマの端末が震えた。
画面に一瞬だけ表示される通知。
マナトからの共有メッセージだった。
『コハルさんが、万能の心得発動。分身体を打撃。カイリさんが封印中』
レンマはそれを見て、ほんの少しだけ笑った。
「……やるじゃん、コハルちゃん」
その笑みは、今までと違っていた。
軽くない。
嬉しそうで。
誇らしそうで。
少しだけ、苦しそうだった。
けれど、すぐに影へ視線を戻す。
「で」
レンマは、端末をしまった。
「中の分身体を殴られた気分、どう? 明らかに弱体化してるでしょ?」
黒い影が震えた。
怒りか。
痛みか。
それとも、焦りか。
レンマは首を傾げる。
「ねえ」
声が静かになる。
「俺の顔を使ったんだって?」
影は答えない。
「マナトの顔も?」
風が、低く鳴った。
「コハルちゃんに、何した?」
影が、わずかに笑った気がした。
その瞬間。
道路の空気が、完全に変わった。
レンマの表情から、笑みが消える。
「ああ」
彼は小さく息を吐いた。
「もういいや」
夜の風が、一斉に集まった。
上から。
横から。
地面すれすれから。
建物の隙間から。
街路樹の枝の間から。
全部の風が、レンマの指先へ集まる。
「捕まえるつもりだったけど」
レンマは、黒い影を見た。
「ちょっと削るね」
風が、線になった。
細い。
細すぎる。
目に見えないほどの刃。
それが、黒い影の周囲を何重にも囲む。
影が逃げようとする。
無理だった。
次の瞬間、風の檻が縮んだ。
黒い影の体が、内側から細かく裂けていく。
大きく斬るのではない。
潰すのでもない。
削る。
削る。
削る。
再生する力ごと。
影へ逃げる性質ごと。
霧になる性質ごと。
少しずつ、確実に削り取っていく。
「ぐ、あ……っ」
初めて、影が声を上げた。
レンマは止めなかった。
「痛い?」
淡々と聞く。
「よかった」
風がさらに締まる。
「コハルちゃんは、もっと怖かったと思うよ」
影の形が崩れる。
人型ではなくなっていく。
黒い塊になり、そこからまた無数の手が伸びる。
その手の一本が、レンマの頬をかすめた。
血が、一筋流れる。
レンマはその血を指で拭った。
「……へえ」
笑った。
「まだ動けるんだ」
黒い影が、最後の力で膨れ上がる。
マンションごと包み込むように、巨大な黒い幕になった。
◇
上の階の窓が、黒く染まる。
廊下の灯りが瞬く。
周囲の空気が冷える。
部屋の中のコハルにも、その気配は届いた。
結界の内側で、コハルは顔を上げる。
「外……」
カイリが、封印した分身体を押さえながら叫ぶ。
「本体が暴れてます! でも大丈夫です! レンマさんがいます!」
その言葉の直後。
外から、レンマの声が聞こえた気がした。
距離がある。
窓もある。
風の音もある。
それでも、なぜか届いた。
「――大丈夫」
いつもの軽い声ではなかった。
でも、確かにレンマの声だった。
「コハルちゃんは、中にいて」
たぶん、そう言っている。
コハルの胸が、どくんと鳴る。
外で、黒い幕が一気に落ちてくる。
マンションを覆うように。
部屋ごと。
結界ごと。
すべてを飲み込むように。
レンマはそれを見上げた。
そして、片手を上げる。
「言ったでしょ」
風が、彼の背後で渦を巻く。
「逃げ道は塞いだって」
上昇気流が爆発した。
地上から空へ。
巨大な風の柱が立つ。
黒い幕が、真下から貫かれた。
裂ける。
めくれる。
吹き上げられる。
夜空へ押し上げられた黒い影を、無数の風刃が追いかける。
数えきれないほどの刃が、黒を裂く。
マンションの周囲だけ、嵐の中心みたいになっていた。
けれど、不思議と窓は割れない。
人には当たらない。
道路に停まっている車にも、植え込みにも、余計な被害は出ない。
全部、制御されている。
怒っているのに。
完全にキレているのに。
レンマの風は、必要なものだけを斬っていた。
「なぜ……ここまで……」
黒い影が、空中で崩れながら呻く。
「ただの対象者だろう……」
レンマは、風の中で静かに笑った。
「違うよ」
その声は、低かった。
「コハルちゃんは、コハルちゃんだ」
風が収束する。
「対象者とか、帰還者とか、賞金首とか」
レンマの目が鋭くなる。
「そういう名目で雑に扱っていい子じゃない」
最後の風が、黒い影の中心を貫いた。
黒い塊が、空中で弾ける。
霧になろうとする。
影になろうとする。
水路へ逃げようとする。
でも、もう遅い。
レンマの風が、すべての欠片を一か所へ集めた。
小さな黒い球になる。
暴れる。
震える。
逃げようとする。
「カイリくん!」
レンマが無線で叫ぶ。
部屋の中で、カイリが顔を上げた。
『はい!!』
「外側、固められる!?」
『いけます!! たぶん!!』
「たぶんはやめて!」
『いけます!!』
カイリの結界陣が、部屋の床から外へ広がる。
マンションの壁を伝い、窓を越え、夜の空気へ伸びる。
透明な膜が、レンマの作った黒い球を包んだ。
『固定!!』
カイリの声が響く。
結界が閉じる。
黒い球は、何度か内側から叩いた。
だが、壊れない。
レンマはようやく手を下ろした。
風が収まる。
夜の街に、少しずつ静けさが戻っていく。
街灯が揺れを止める。
葉が落ちる。
遠くで車の音が戻る。
レンマはその場に立ったまま、深く息を吐いた。
「……ほんと」
頬の血を拭う。
「面倒な夜だね」
いつもの軽い口調だった。
でも、声は少し掠れていた。
端末が震える。
マナトからだった。
『外の本体反応、縮小を確認。コハルさんは無事です』
レンマは画面を見て、ふっと笑った。
「そっか」
その一言だけで、肩から少し力が抜けた。
すぐに、もう一通。
『ただし、コハルさんはかなり消耗しています。今は刺激を増やさないでください』
レンマは一瞬黙った。
それから、小さく笑う。
「マナト、俺の扱い雑じゃない?」
でも、否定はしなかった。
レンマはマンションを見上げた。
コハルの部屋の窓には、まだ明かりがついている。
そこに向かって、軽く手を振る。
見えているかは分からない。
それでも振った。
「……大丈夫だよ」
誰に言うでもなく、呟く。
「今度は、ちゃんと間に合ったから」
その声は、風に紛れて消えた。
けれど、部屋の中で。
コハルはなぜか、少しだけ顔を上げた。
外の風が、もう怖くなかった。




