1-38話:安心した夜に扉が鳴った時点で、だいたい偽物は本物の顔をしている
夜。
コハルは、ソファに座ったままスマホを握っていた。
部屋は静かだった。
浴室は直っている。
窓も、鏡も、壁も、何もなかったみたいに戻っている。
けれど、何もなかったわけではない。
水の音は、まだ怖い。
浴室の方を見るだけで、胸の奥が固くなる。
でも、昼間よりは息ができた。
それは、たぶん。
レンマが来てくれたからだった。
そのことを考えた瞬間、スマホが震えた。
表示された名前は、マナト。
コハルは息を整えてから、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『コハルさん』
マナトの声だった。
低くて、落ち着いていて、わずかに張り詰めている声。
それを聞いた瞬間、コハルの肩から力が抜けた。
「こんばんは」
『こんばんは。体調はどうですか』
「昨日よりは、だいぶ」
『そうですか』
短い返事だった。
でも、電話の向こうでマナトが息を吐いたのが分かった。
『よかったです』
「はい。今日は……休んでよかったです」
『それでいいと思います』
「会社に行けなかったの、ちょっと情けない気もしたんですけど」
『情けなくありません』
すぐに返ってきた。
迷いのない声だった。
『昨日のことがあって、翌日に普段通り出勤できる方が、むしろ無理をしています』
「……そう言ってもらえると、助かります」
『今日は、何か食べられましたか』
「はい。レンマさんが買ってきてくれたおにぎりと、ゼリーを」
『……そうですか』
ほんのわずかに、間があった。
コハルは気づかなかったわけではない。
けれど、そこに何を乗せればいいのか分からなかった。
「あと、修繕も来てくれて。窓とか、浴室の鏡とか、壁とか、全部直りました」
『報告は受けました。浴室内の結界膜も、二十四時間は維持されるそうです』
「はい。山本さんっていう、物だけ直せる四級賢者の人が来てくれて」
『……物だけ直せる四級賢者』
「便利ですよね」
『便利ですね』
マナトの声が、柔らかくなった。
「レンマさんも、経費で落とすからって何回も言ってました」
『言いそうです』
「言ってました」
コハルは小さく笑った。
電話の向こうで、マナトが黙る。
その沈黙は、怖いものではなかった。
でも、重かった。
『……今日は、笑えたんですね』
「え?」
『今、声が明るかったので』
「あ……はい」
コハルはスマホを持ち直した。
「レンマさんが来てくれて、普通に話せたので」
『……そうですか』
「浴室の前まで行けたんです。中には入れませんでしたけど」
『十分です』
マナトは即答した。
『それは、十分です』
「レンマさんにも、同じようなこと言われました」
『……』
「あ、すみません」
『謝ることではありません』
マナトの声は、いつも通りだった。
いつも通り、丁寧で、落ち着いていた。
けれど、その奥に一瞬だけ、何かが沈んだ気がした。
マナトは、スマホを握る手に力を込めていた。
レンマが来た。
レンマが修繕を手配した。
レンマが食事を持ってきた。
レンマが浴室の前まで付き添った。
レンマが、コハルを笑わせた。
全部、正しい。
全部、ありがたい。
全部、責める要素がない。
なのに、胸の奥が焼けるようだった。
(……よかったじゃないか)
コハルさんが安心できた。
それでいい。
それが一番いい。
そう思うのに。
(その場にいたかった)
そう思ってしまう。
マナトは目を伏せた。
嫉妬を声に乗せるな。
今、必要なのは自分の感情ではない。
『コハルさん』
「はい」
『レンマさんが来てくれて、よかったです』
「……はい」
『浴室の前まで行けたのも、本当に大きいと思います。今日は、それ以上頑張らなくていいです』
「……マナトさん」
『はい』
「マナトさんも、同じこと言うんですね」
『……同じでしたか』
「少し」
『それなら、たぶん正しいです』
「ふふ」
コハルが笑った。
その声を聞いて、マナトはようやく息ができた。
自分が言いたかった言葉を、レンマが先に言っていたとしても。
自分がそばにいられなかったとしても。
今、コハルが笑えているなら、それでいい。
そう思うしかなかった。
『今日は、眠れそうですか』
「分かりません。でも、昨日よりは大丈夫そうです」
『眠れなかったら、連絡してください』
「またそれ言いますね」
『言います』
「マナトさん、寝る気あります?」
『あります』
「本当に?」
『努力します』
「それ昨日も聞きました」
『では、今日は善処します』
「それも怪しいです」
コハルはまた笑った。
マナトはその声を胸に刻むように聞いた。
通話は、それから続いた。
仕事のこと。
食事のこと。
浴室には無理に入らないこと。
水道を使うときは、しばらく音楽を流してもいいかもしれないこと。
どれも小さな話だった。
けれど、その小ささが、今のコハルにはありがたかった。
通話を終える頃には、眠気も戻ってきていた。
『では、今日は休んでください』
「はい。マナトさんも、ちゃんと休んでください」
『努力します』
「また努力」
『……寝ます』
「本当ですか?」
『本当です』
「信じます」
『はい』
沈黙があった。
切るのが惜しい沈黙だった。
「マナトさん」
『はい』
「電話、ありがとうございました」
『こちらこそ。声を聞けて安心しました』
「はい」
『おやすみなさい、コハルさん』
「おやすみなさい」
通話が切れた。
部屋が静かになる。
コハルはスマホを膝の上に置いて、息を吐いた。
「……落ち着くなあ」
小さく呟く。
マナトの声は、やっぱり落ち着く。
レンマとは違う。
レンマは、部屋に風を通してくれるみたいな人だ。
怖さを軽くする。
笑わせてくれる。
でも、ふいに心臓に悪いことを言う。
マナトは、深く息をさせてくれる人だ。
乱れたものを、ゆっくり整えてくれる。
電話越しでも、ちゃんと隣にいるみたいに感じる。
どちらも違う。
でも、どちらも今の自分にはありがたかった。
コハルはソファから立ち上がり、部屋の戸締まりを確認した。
玄関。
窓。
浴室の扉。
浴室の前では、足が止まった。
でも、昼間ほど息は詰まらなかった。
「……今日はここまでで合格」
レンマの声を思い出して、コハルは小さく笑った。
そして寝る準備をしようとした、その時だった。
インターホンが鳴った。
「……っ」
肩が跳ねる。
時計を見る。
二十二時半を過ぎていた。
こんな時間に、誰が。
スマホは鳴っていない。
メッセージも来ていない。
コハルは玄関へ向かわず、まずスマホを手に取った。
もう一度、インターホンが鳴る。
そして、扉の向こうから声がした。
「コハルちゃん〜」
レンマの声だった。
明るくて、軽い。
昼間と同じ声。
コハルは息を吐いた。
「レンマさん?」
「急に来ちゃってごめん! ちょっと部屋の中の結界のことで確認したいことがあって!」
「あ、そうなんですね」
コハルは玄関へ向かった。
ドアスコープを覗く。
そこには、レンマがいた。
いつもの軽い顔。
いつもの姿。
いつもの立ち方。
不自然なところは、ないように見えた。
けれど、コハルは迷った。
こんな時間。
急な訪問。
メッセージなし。
でも、結界のことならありえる。
昼間も、浴室の結界膜の話をしていた。
コハルはチェーンを外した。
「どうぞ」
「ありがと〜」
レンマが部屋に入る。
その瞬間。
空気が変わった。
殺気。
「……っ!?」
背筋が一瞬で冷えた。
昼間、レンマが入ってきた時とは違う。
鋭くて、冷たい悪意。
(え……!? この人……レンマさんじゃない!?)
コハルは反射的に後ろへ跳んだ。
「誰ですか!!?」
距離を取る。
玄関からリビング側へ下がり、テーブルを挟む位置へ移動する。
レンマの姿をした男は、きょとんとした顔をした。
「え? もう気づいたの?」
声もレンマだった。
顔もレンマ。
背丈も、髪も、口元の笑い方も。
でも違う。
言葉には言い表せないオーラ。
まとう空気。
視線の湿度。
別人だ。
「近づかないでくださいっ!」
「へえ。面白いな」
レンマの姿をした男は、楽しそうに笑った。
「俺の姿は今、君の安心できる人になっているはずなのに」
「安心できる人……!?」
「警戒できない人。好きで、信頼していて、自分が求めている人の姿になっているはずだよ?」
「ちがっ!!」
「ん?」
男が首を傾げた。
その瞬間、レンマの身体がどろりと液体化した。
黒い泥のような液体が、肌の上をなぞる。
髪の色が揺らぐ。
目の形が変わる。
背の高さが変わる。
そして。
そこに立っていたのは、マナトだった。
「……っ」
コハルの息が止まった。
マナトの姿。
マナトの目。
ついさっきまで電話していた人の顔。
でも、違う。
「お?」
マナトの姿をした男が、マナトの声で笑う。
「こっちの男の方がタイプ?」
「違います!!」
「違わないよ。体は正直だ」
次の瞬間、距離を詰められた。
速い。
コハルは避けようとした。
けれど、間に合わない。
顎を掴まれた。
「うぐっ……!」
指が強い。
マナトの顔が、近い。
近すぎる。
頭が混乱する。
違う。
これはマナトではない。
分かっている。
分かっているのに。
体が、動かない。
(万能の心得……!)
発動しない。
理由は、すぐに分かった。
この二人の姿だからだ。
レンマ。
マナト。
自分が安心してしまう相手。
信頼してしまう相手。
危険だと判断する前に、心が一瞬止まってしまう相手。
体が、危機だと読み取ってくれない。
「俺と一緒に来い」
マナトの声で、男が言った。
背筋が凍る。
違う。
その声で言わないでほしい。
その顔で見ないでほしい。
「嫌……です……!」
「嫌って顔じゃないな」
「違う……!」
男の顔が近づく。
ゆっくりと、唇が重なりそうになる。
その瞬間。
「方陣結界!!」
声が響いた。
コハルの目が見開かれる。
玄関側ではない。
窓側でもない。
部屋の床に、透明な結界陣が開いていた。
そこから飛び出すように、カイリが現れた。
「チッ」
マナトの姿をした男が舌打ちをして、コハルから離れる。
コハルはその場に崩れかけた。
カイリが即座に結界を張る。
透明な壁が、コハルと男の間に立ち上がった。
「こいつは俺が!!」
カイリの声が響く。
いつもより大きい。
でも今は、その声量がありがたかった。
「月岡さん、下がってください!!」
「カイリさん……!」
「今めちゃくちゃ強いのが外にいて、レンマさんが食い止めてます!」
「外に……!?」
コハルの顔から血の気が引いた。
つまり、これは。
目の前の男だけではない。
外には、もっと危険な何かがいる。
「こいつは侵入用の分身体です! 認識阻害と変身能力持ち! 信頼している相手の姿になるタイプです!」
カイリが早口で説明しながら、結界を何重にも展開する。
「すみません、声量!!」
「今は大丈夫です!」
「ありがとうございます!!」
「やっぱり大きいです!!」
「すみません!!」
こんな状況なのに、いつもの調子が戻りそうになる。
でも、目の前の男が笑った瞬間、その余裕は消えた。
「へえ。結界術か」
マナトの姿で、男が言う。
「邪魔だな」
黒いモヤが指先に集まる。
カイリの結界に、黒いひびが入った。
「っ……!」
カイリの顔が歪む。
「強い……! けど、止めます!!」
「カイリさん!」
「大丈夫です! 恐らく!」
「恐らく!?」
「今のは言葉のあやです!!」
カイリは両手を前に出した。
結界がさらに重なった。
透明な壁が、三枚、四枚、五枚と増えていく。
男は笑った。
その顔は、マナトのままだった。
コハルの胸が痛む。
違う。
この人はマナトではない。
それでも、マナトの顔で悪意を向けられることが、こんなにも苦しい。
「やめて……」
「ん?」
「その顔で、笑わないでください」
男が目を細める。
「へえ」
輪郭が、また揺れた。
マナトの姿が泥に包まれる。
次の瞬間、レンマの姿に戻った。
「じゃあ、こっち?」
「……っ」
「こっちも嫌?」
レンマの声。
レンマの顔。
でも中身は違う。
昼間、「今日はここまでで合格」と言ってくれた人ではない。
怖かったことまで今日直さなくていいと言ってくれた人ではない。
その姿を使われるのが、嫌だった。
ひどく、嫌だった。
「あなたは……レンマさんじゃない」
コハルは震える声で言った。
「マナトさんでもない」
男が笑う。
「じゃあ、君はどっちが好きなの?」
「そういう話じゃないです!!」
「そういう話だよ」
男の顔に、黒いモヤが広がる。
「君が求める顔を、俺は選べる。君の心が勝手に教えてくれる」
「……っ」
「レンマ。マナト。どっちもいいね。どっちも君の中で、入りやすい」
コハルの喉が詰まる。
気持ち悪い。
心の中に土足で入られているような感覚だった。
「許しません!!」
カイリが叫んだ。
結界が床を走る。
偽物の足元を囲むように、透明な陣が広がった。
「対象固定!」
光が弾ける。
レンマの姿をした男の輪郭が揺れる。
「うざいな」
男が指を鳴らした。
黒い泥が結界を削る。
ぎし、と嫌な音がした。
その時。
外から、ものすごい風の音が響いた。
窓ガラスが震える。
直ったばかりの窓が、びりびりと鳴った。
コハルは反射的にそちらを見た。
夜の向こうで、何かが光った。
風が渦を巻いている。
白い閃光のような風の刃が、建物の外を走っている。
その中心に、誰かがいる。
見えない。
でも分かる。
レンマだ。
本物のレンマが、外で戦っている。
「レンマさん……!」
「外は外で本命です!」
カイリが叫ぶ。
「レンマさんが足止めしてます! こっちは俺が処理します!」
「でも……!」
「月岡さんは、自分を守ってください!!」
その言葉で、コハルは息を吸った。
自分を守る。
誰かに守られるだけではなく。
自分でも、立つ。
昨日、男の姿になって殴った。
それでも怖かった。
今日、浴室の前まで行った。
それでも怖かった。
でも、怖いだけでは終わりたくなかった。
(動け……)
コハルは拳を握った。
目の前の男は、レンマの顔で笑っている。
嫌だ。
その顔で笑うな。
その声で、自分を呼ぶな。
その姿を、汚すな。
「万能の心得……!」
今度こそ。
胸の奥で、何かが熱くなった。
けれど、発動はまだ不安定だった。
体の奥で力が揺れるだけで、形にならない。
男がそれに気づき、笑った。
「無理だよ。君はまだ迷ってる」
「……っ」
「俺を危険だと認識しきれてない。だって、俺の顔が好きなんだろ?」
「違う!!」
叫んだ瞬間、部屋の空気が震えた。
カイリの結界が光る。
そして。
コハルのスマホが震えた。
画面に表示された名前。
マナト。
通話ではない。
メッセージだった。
『絶対に、カイリさんの結界の内側から出ないでください。相手は視覚と感情認識を利用します。姿ではなく、行動だけを見てください』
「……!」
マナト。
マナトが、気づいている。
どこからか情報を拾っている。
状況を読んでいる。
コハルはメッセージを握りしめるように見た。
姿ではなく、行動だけを見る。
目の前の男を見る。
レンマの顔。
レンマの声。
でも、やっていることは違う。
勝手に入ってきた。
殺気を向けた。
顎を掴んだ。
無理やり連れていこうとした。
自分の心を覗き込んだ。
レンマじゃない。
マナトでもない。
ただの敵だ。
「……あなたは」
コハルの声が低くなった。
「私の大切な人たちの顔を使っただけの、敵です」
その瞬間。
万能の心得が発動した。
体が熱くなる。
骨格が変わる。
重心が落ちる。
視界が高くなる。
男の姿になったコハルは、結界の内側で拳を握った。
偽物のレンマが、初めて目を細めた。
「へえ」
「カイリさん」
「はい!!」
「結界、開けられますか」
「殴りますか!?」
「はい」
「了解です!!」
カイリの声が、部屋に響いた。
結界の一部が、一瞬だけ開く。
コハルは踏み込んだ。
怖い。
まだ怖い。
でも、それ以上に腹が立っていた。
「その顔で――」
拳を振る。
「笑わないでください!!」
拳が、偽物の顔面に叩き込まれた。
レンマの顔が歪む。
ノイズが走る。
黒いモヤが弾ける。
偽物の体が、玄関側の壁まで吹き飛んだ。
カイリがすぐに叫ぶ。
「封じます!!」
結界が床から立ち上がり、黒いモヤごと偽物を包む。
外では、風がさらに激しく鳴った。
夜は、まだ終わっていない。
コハルは荒い息を吐きながら、拳を下ろした。
スマホが、もう一度震える。
『そのままカイリさんの指示に従ってください』
マナトからだった。
コハルは画面を見つめた。
そして、小さく頷いた。
まだ震えている。
それでも今度は。
ただ泣くだけでは、終わらなかった。




