1-37:壊れた風呂場が少し直った時点で、だいたい心も勝手に動き出す
翌朝。
コハルは、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
目を開けた瞬間、まず天井が見えた。
いつもの天井。
いつもの部屋。
いつもの朝の光。
それなのに、いつも通りだとは思えなかった。
「……」
布団の中で、コハルはしばらく動けなかった。
身体が重い。
眠れたのか、眠れていないのかも分からない。
夜中に何度も目を覚ました気がする。
水の音がした気がして、そのたびに息を止めた。
実際には、たぶん何も鳴っていなかった。
それでも、耳の奥には残っている。
浴室の音。
排水口の音。
黒い泥が這い出してくる、あの嫌な気配。
「……無理」
小さく呟いた。
会社に行く気にはなれなかった。
行けないことはない。
熱があるわけではない。
怪我もない。
昨日のことを知らない人から見れば、ただの平日の朝だ。
けれど、着替えて、メイクをして、駅まで歩いて、会社の席に座って、いつものようにメールを返して、誰かに「おはようございます」と言う。
それを想像しただけで、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
有給は残っている。
一応、仕事は一段落している。
急ぎの案件も、昨日のうちに片づけてある。
今日一日くらい休んでも、たぶん大きな迷惑はかけない。
そう自分に言い聞かせてから、コハルはスマホを手に取った。
まず会社へ連絡を入れる。
体調不良のため、本日お休みをいただきます。
定型文みたいな文章を送るだけなのに、指先が震えた。
送信して、深く息を吐く。
それから迷って、マナトとレンマのメッセージ画面を開いた。
『おはようございます。今日は仕事に行く気が起きなくて……休みます』
同じ文面を、二人に送った。
送った直後、胸がざわついた。
大げさだと思われるだろうか。
もう大丈夫なはずなのに、と思われるだろうか。
守ってもらったのに、まだ怖がっているのかと思われるだろうか。
けれど、返事はすぐに来た。
『了解です。また夜電話します』
マナトだった。
短い。
けれど、責める感じは一切なかった。
休んでいい。
そういう前提で返ってきた文章のように思えた。
少し遅れて、レンマからも返事が来た。
『わかった! 後で顔出すね』
「……顔出すんだ」
コハルはスマホを見つめた。
来るんだ、と思った。
来てくれるんだ、とも思った。
安心した。
そして、そのすぐあとに、なぜか心臓が変な跳ね方をした。
「……いや、違う違う」
コハルは布団を頭までかぶった。
何が違うのかは、自分でも分からなかった。
◇
昼前。
インターホンが鳴った。
その音に、コハルの肩が跳ねる。
昨日までは普通の音だった。
宅配か、管理会社か、近所の誰かか。
それくらいにしか思わなかった音。
でも今は違う。
何かが来た。
そう思ってしまう。
スマホが震えた。
『来たよ〜! 怪しい風使いです』
「自分で言うんだ……」
少しだけ笑えた。
コハルは玄関まで行き、ドアスコープを覗いた。
レンマがいた。
片手にコンビニの袋。
その後ろには、工具箱のようなものを持った、スーツ姿の見知らぬ男性が一人立っている。
コハルはチェーンをかけたまま、ドアを開けた。
「……本当に来たんですね」
「来るって言ったからね」
レンマはいつもの調子で笑った。
けれど、コハルの視線が後ろの男性へ向いたことに気づくと、すぐに説明してくれた。
「ヘリオスの修繕班。割れた窓ガラスと、浴室の鏡と壁、今日直せるところまで直してもらう」
「えっ、今日ですか?」
「うん。放置すると怖いでしょ」
「それは……そうですけど」
「大丈夫。経費で落とすから」
「そこ、軽いですね」
「経費って言葉は人を安心させるから」
「させません」
そう言いながらも、コハルは肩の力が抜けた。
レンマの隣にいた男性が、ぺこりと頭を下げる。
「ヘリオス・サービス修繕担当の山本です。壊れた物体の復元と補強を担当しています。お邪魔してよろしいでしょうか」
言葉の響きが、妙に業務的だった。
レンマが小声で付け足す。
「物だけ直せる四級賢者。人は直せないけど、壁とか鏡とか窓とかはかなりいける」
「そんな便利なスキルあったんですね……」
「ね。めっちゃ便利だよね」
「私もそういうのが欲しかったです」
「たしかに便利そう」
「便利の方向性が違う気もしますけど」
コハルはチェーンを外した。
玄関を開けると、レンマはすぐには入ってこなかった。
「入って大丈夫?」
その一言に、コハルは息を止めた。
昨日もそうだった。
近づく前に、ちゃんと止まってくれる。
それが今は、とてもありがたかった。
「……はい。大丈夫です」
「じゃ、お邪魔します」
レンマが室内に入る。
修繕担当の山本は慣れた様子で、まず割れた窓ガラスの方へ向かった。
カーテンの隙間から、ひび割れた窓が見える。
昨日の戦闘で割れたまま、応急処置の透明な膜が張られていた。
それを見た瞬間、コハルの胸がまたざわついた。
壊れた窓。
割れた鏡。
削れた壁。
床に残った細かな傷。
全部が、昨日は本当にあったのだと突きつけてくる。
「コハルちゃん」
レンマの声がした。
近すぎない距離に、彼が立っている。
「見てなくていいよ。嫌なら別の部屋にいて」
「……でも、私の部屋ですし」
「だからこそ、無理しなくていい」
「……」
その言い方が、妙にずるかった。
命令ではない。
過剰な気遣いでもない。
ただ、逃げ道を置いてくれる言い方だった。
「じゃあ……リビングにいます」
「うん。何かあったら呼ぶ」
コハルはリビングのソファに座った。
レンマはコンビニ袋をテーブルに置く。
「水を使わなくても食べられるもの買ってきた。おにぎり、サンドイッチ、ゼリー。あと紙パックのお茶」
「ありがとうございます」
「マナトなら栄養バランス百点のやつを送ってきそうだから、俺は食べやすさ担当」
「なんですか、その分担」
「敵を倒すにも役割分担が大事だからね」
「食事の話ですよね?」
「食事も戦いだよ」
レンマは真顔で言った。
コハルは思わず笑った。
笑ってから、驚く。
笑えた。
昨日はあんなに怖かったのに。
今もまだ、浴室の方を見るだけで胸が詰まるのに。
それでも、笑えた。
レンマはその顔を見て、目元を緩めた。
「よかった」
「え?」
「今、笑ったから」
「……そんなに分かりやすいですか」
「うん」
「嘘でも、そんなことないよって言ってください」
「俺、嘘苦手なんだよね」
「絶対得意ですよね」
「ばれた?」
また笑ってしまう。
その間にも、玄関側から静かな作業音が聞こえていた。
ガラスの欠片を集める音。
壁に手をかざしているらしい低い詠唱。
ヘリオスの人が小声で確認する声。
やがて、浴室の方から淡い光が漏れた。
コハルは反射的に身体をこわばらせる。
レンマがすぐに気づいた。
「大丈夫。修繕の光。敵じゃない」
「……はい」
「見に行かなくていいからね」
「はい」
素直に返事をした。
今の自分は、浴室に近づけない。
それを認めるだけで、悔しかった。
でも、マナトが言ってくれた。
それは弱さではない、と。
レンマも言ってくれた。
怖いもんは怖い、と。
だから、今日はそういう日でいいのだと思うことにした。
しばらくして、山本がリビングの入口から声をかけた。
「窓ガラス、復元完了しました。浴室の鏡も破片欠損が少なかったため修復可能です。壁の損傷は補強込みで直します。痕跡はほぼ消えますが、念のため結界膜を一枚残します」
「ありがとうございます……」
コハルが頭を下げると、山本は淡々と頷いた。
「費用は……どうされますか?」
レンマが横から親指を立てた。
「経費で落とすから」
「二回言わなくていいです」
「大事なことだから」
「私が払わないって意味では安心しましたけど」
「でしょ?」
レンマは満足そうに笑った。
それから、ふと真面目な顔になる。
「あと、浴室の水道と排水口には仮封印を入れてる。水路経由の侵入は、同じ方法ではできない。もちろん本体が別の手を使う可能性はあるけど、昨日の穴は潰した」
「……昨日の穴」
コハルは小さく繰り返した。
生活の中の穴。
蛇口。
排水口。
風呂場。
いつもなら意識すらしない場所。
そこを狙われた。
「怖いですよね」
「うん。怖いと思う」
レンマは否定しなかった。
「だから、普通に戻すのは急がなくていいよ。今日は入らなくていい。明日も無理なら入らなくていい。必要ならヘリオスで別の入浴設備を手配するし、カイリくんに結界つきの簡易シャワーブース作らせてもいい」
「カイリさん、そんなこともできるんですか」
「できるできる。たぶん声でかめに説明してくれる」
「想像できます」
また笑った。
レンマはそれを見て、安心したように息を吐いた。
その仕草が、なぜか目に残った。
いつもの余裕たっぷりのレンマではなくて。
ちゃんとこちらの反応を見て、ちゃんと安心している顔。
その顔を見て、胸が小さく跳ねた。
「……レンマさん」
「ん?」
「昨日、ありがとうございました」
「うん」
「助けに来てくれて」
「うん」
「怒ってくれて」
そこまで言うと、レンマの表情がわずかに止まった。
すぐに軽い笑顔に戻るかと思った。
でも、戻らなかった。
「……怒るよ、そりゃ」
声が低かった。
コハルの指先が、膝の上で動く。
「コハルちゃん、あんな顔してたし」
「……そんなにひどかったですか」
「ひどかった」
「そこも嘘で否定してください」
「無理」
レンマは静かに言った。
「忘れられない顔だったから」
「……」
心臓が、変なふうに鳴った。
まっすぐ見られているわけではない。
レンマの視線は横に逸れていた。
なのに、言葉だけがまっすぐ届いた。
忘れられない顔。
それが嬉しい言葉なのか、悲しい言葉なのか、分からなかった。
でも、自分の怖さが、ちゃんと誰かの中に残っているのだと思った。
軽く扱われていない。
流されていない。
それが、苦しくて、嬉しかった。
「だからさ」
レンマはいつもの調子を取り戻すように笑った。
「次は、泣く前に呼んで」
「そんな簡単に言いますけど」
「うん。簡単じゃないのは分かってる」
「……」
「でも、呼んで。暇でも、怖くても、水の音が嫌でも、なんかむかつくでもいいから」
「むかつくでもいいんですか」
「いいよ。俺、むかつかれ慣れてるし」
「でしょうね」
「即答ひどくない?」
コハルは笑った。
笑ったあと、視線を落とす。
「じゃあ……怖かったら、連絡します」
「うん」
「暇でも?」
「うん」
「むかついても?」
「それは内容によるかな」
「さっきと言ってること違います」
「ごめん、むかつきの種類による」
「雑です」
やりとりは軽い。
けれど、胸の奥は軽くなかった。
レンマがいるだけで、昨日の部屋が少しずつ別の場所に戻っていく気がした。
怖い場所のままではなく、直してもらえる場所。
誰かが来てくれる場所。
まだ暮らしていける場所。
しばらくして、修繕が終わった。
山本が確認のために声をかける。
「窓、浴室鏡、壁面損傷、すべて復元完了しました。浴室内の結界膜は二十四時間維持されます。排水口、蛇口、換気口にも簡易封印を入れてあります」
コハルは恐る恐る浴室の入口まで行った。
レンマは後ろについてきた。
近すぎない距離だった。
浴室の扉は開いている。
中を見る。
鏡は直っていた。
割れた線はない。
壁の傷もない。
窓ガラスも透明に戻っている。
何もなかったみたいだった。
でも、コハルの中では、何もなかったことにはならない。
足が止まる。
「……入らなくていいよ」
後ろからレンマの声がした。
「見るだけで十分」
「……はい」
「今日はここまでで合格」
「合格って」
「すごいでしょ。浴室の前まで来られた」
「そんなことで?」
「そんなことじゃないよ」
声が、また優しくなった。
「怖い場所を見たんだから、十分すごい」
その瞬間、コハルはなぜか泣きそうになった。
泣きたくない。
もう泣きたくない。
でも、胸の奥が熱くなる。
「……レンマさんって」
「うん?」
「たまに、ずるいこと言いますよね」
「え、口説いてるってこと?」
「違います!」
「違うんだ」
「違います!」
勢いよく否定してから、コハルは自分の顔が熱くなっていることに気づいた。
レンマが笑う。
その笑い方が、昨日までより近く感じた。
近く感じただけで、距離は変わっていない。
ちゃんと離れている。
それなのに、心臓だけが勝手に近づいたみたいだった。
「顔赤いよ」
「浴室が暑いだけです」
「水使ってないのに?」
「暑いんです」
「そっか」
「納得してください」
「してるしてる」
「してないです」
レンマは楽しそうに笑った。
そのあと、ふっと真面目な顔になって、浴室の中を見た。
「……ここ、ただの風呂場に戻そうね」
「え?」
「昨日の場所じゃなくてさ。コハルちゃんが普通に髪乾かして、普通に文句言って、普通に疲れたって言える場所に戻す」
「……」
「時間はかかるかもだけど」
レンマは軽く肩をすくめた。
「まあ、手伝うよ。経費で落ちる範囲で」
「最後の一言で台無しです」
「だって大事じゃん」
コハルは笑った。
笑いながら、思った。
この人は軽い。
本当に軽い。
でも、軽い言葉の下に、ちゃんと置いてくれるものがある。
怖さを否定しない。
壊れたものを、壊れたままにしない。
急がせない。
それが、怖いくらい安心できた。
修繕班が帰る準備を始める。
レンマも玄関へ向かった。
「じゃ、俺もそろそろ行くね」
「もうですか?」
また、思わず言ってしまった。
レンマが振り返る。
コハルはすぐに視線を逸らした。
「あ、いや、修繕が終わったなら、そうですよね」
「いてほしい?」
「……」
軽い声だった。
いつもの調子だった。
でも、コハルはすぐに返せなかった。
それが悔しかった。
「……いてほしい、というか」
「うん」
「一人になるのが、ちょっとだけ怖いです」
言ってから、胸がきゅっとした。
弱音だった。
でも、言えた。
レンマは笑わなかった。
「じゃあ、もう少しいる」
「いいんですか?」
「いいよ。仕事だから」
「またそれですか」
「あと、俺がいたいから」
「……え?」
コハルが顔を上げる。
レンマは、少しだけ目を細めた。
からかっているような、そうでもないような顔。
「一応、心配してるんだよ」
「……」
「なに、その顔」
「いえ……今のは、ちょっと」
「ちょっと?」
「ずるかったです」
レンマは一瞬きょとんとして、それから楽しそうに笑った。
「へえ」
「なんですか」
「いや、覚えとこって思って」
「覚えなくていいです!」
コハルは慌てて言った。
でも、心臓はまだ落ち着かなかった。
レンマは結局、それから三十分ほど残ってくれた。
ソファには座らず、窓際の壁にもたれて、他愛ない話をした。
カイリの声量の話。
ヘリオスの経費申請の話。
マナトが昨夜たぶん寝ていないだろうという話。
「マナトさん、寝てないんですか?」
「たぶんね。あの子、怒ると調べものに逃げるタイプだから」
「逃げる?」
「本人は戦ってるつもりだと思うけどね」
「……マナトさんらしいです」
「うん。そこが強いんだよね」
レンマは、遠くを見るように言った。
その横顔に、コハルは一瞬見入ってしまった。
レンマはマナトを茶化す。
でも、ちゃんと認めている。
ライバルみたいで、仲間みたいで。
軽いのに、変なところで真っ直ぐだ。
「コハルちゃん?」
「はい?」
「また顔赤い」
「赤くないです」
「今日それ三回目」
「数えないでください」
「じゃあ四回目から数える」
「そういう意味じゃないです」
レンマは笑った。
コハルも笑った。
やがて、レンマは本当に帰ることになった。
玄関で靴を履きながら、彼はいつものように片手を上げる。
「何かあったら連絡して」
「はい」
「何もなくても、怖かったら連絡して」
「はい」
「暇でも」
「はい」
「むかついても」
「内容によるんですよね?」
「よく覚えてる」
「覚えますよ、それくらい」
レンマは笑った。
それから、声を落とした。
「コハルちゃん」
「はい」
「昨日の場所は、今日少し直った」
「……はい」
「でも、怖かったことまで今日直さなくていいからね」
コハルは息を止めた。
「ゆっくりでいいよ」
その声は、ふざけていなかった。
コハルは、胸の奥がきゅっとなるのを感じた。
「……ありがとうございます」
「うん」
「レンマさん」
「ん?」
「来てくれて、よかったです」
言ってから、自分で驚いた。
レンマも一瞬だけ黙った。
そして、いつもの軽い笑みを浮かべる。
「それ、けっこう嬉しいね」
その一言が、なぜか耳に残った。
「んじゃ、またね」
ドアが閉まる。
部屋が静かになる。
けれど、朝よりは怖くなかった。
割れた窓は直った。
浴室の鏡も戻った。
壁の傷も消えた。
でも、それ以上に。
あの浴室の前で「今日はここまでで合格」と言ってくれた声が、部屋の中に残っている気がした。
◇
夕方。
スマホが震えた。
マナトからだった。
『体調はいかがですか。無理に話さなくても大丈夫です。夜、少しだけ電話してもいいですか』
コハルは画面を見つめた。
マナトの言葉は、やっぱり落ち着く。
丁寧で、急かさなくて、こちらの呼吸に合わせてくれる。
レンマは来てくれた。
マナトは遠くから気にしてくれる。
どちらも違う。
どちらも、ありがたい。
そして、どちらにも胸が揺れる。
コハルはゆっくり返信した。
『ありがとうございます。電話、大丈夫です』
送信してから、ソファに座った。
まだ浴室には入れない。
水の音も怖い。
会社にも行けなかった。
でも、昨日よりは息ができる。
もう一度スマホが震えた。
今度はレンマだった。
『修繕完了報告、こっちでも確認したよ。全部経費で落ちたから安心して』
コハルは思わず笑った。
続けて、もう一通。
『あと、今日は自分に甘くしていい日ね。マナトに怒られない範囲で』
「なんでそこでマナトさん……」
笑いながら、コハルは胸に手を当てた。
まだ、何も分からない。
怖さも。
安心も。
ドキッとした理由も。
でも、昨日までと同じではない。
レンマを見る目も。
マナトの声を待つ気持ちも。
自分の中にある何かも。
少しずつ、形を変え始めている。
コハルは修繕された浴室の方を一度だけ見た。
まだ怖い。
でも、完全に怖いだけの場所ではなくなった。
そう思えたことが、今日いちばんの進歩だった。




