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37/53

1-37:壊れた風呂場が少し直った時点で、だいたい心も勝手に動き出す

 翌朝。


 コハルは、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。

 目を開けた瞬間、まず天井が見えた。


 いつもの天井。

 いつもの部屋。

 いつもの朝の光。


 それなのに、いつも通りだとは思えなかった。


「……」


 布団の中で、コハルはしばらく動けなかった。


 身体が重い。

 眠れたのか、眠れていないのかも分からない。

 夜中に何度も目を覚ました気がする。

 水の音がした気がして、そのたびに息を止めた。


 実際には、たぶん何も鳴っていなかった。

 それでも、耳の奥には残っている。


 浴室の音。

 排水口の音。

 黒い泥が這い出してくる、あの嫌な気配。


「……無理」


 小さく呟いた。


 会社に行く気にはなれなかった。

 行けないことはない。

 熱があるわけではない。

 怪我もない。


 昨日のことを知らない人から見れば、ただの平日の朝だ。


 けれど、着替えて、メイクをして、駅まで歩いて、会社の席に座って、いつものようにメールを返して、誰かに「おはようございます」と言う。


 それを想像しただけで、胸の奥がぎゅっと縮んだ。


 有給は残っている。

 一応、仕事は一段落している。

 急ぎの案件も、昨日のうちに片づけてある。

 今日一日くらい休んでも、たぶん大きな迷惑はかけない。


 そう自分に言い聞かせてから、コハルはスマホを手に取った。


 まず会社へ連絡を入れる。

 体調不良のため、本日お休みをいただきます。

 定型文みたいな文章を送るだけなのに、指先が震えた。


 送信して、深く息を吐く。


 それから迷って、マナトとレンマのメッセージ画面を開いた。


『おはようございます。今日は仕事に行く気が起きなくて……休みます』


 同じ文面を、二人に送った。

 送った直後、胸がざわついた。


 大げさだと思われるだろうか。

 もう大丈夫なはずなのに、と思われるだろうか。

 守ってもらったのに、まだ怖がっているのかと思われるだろうか。


 けれど、返事はすぐに来た。


『了解です。また夜電話します』


 マナトだった。


 短い。

 けれど、責める感じは一切なかった。

 休んでいい。

 そういう前提で返ってきた文章のように思えた。


 少し遅れて、レンマからも返事が来た。


『わかった! 後で顔出すね』


「……顔出すんだ」


 コハルはスマホを見つめた。


 来るんだ、と思った。

 来てくれるんだ、とも思った。

 安心した。


 そして、そのすぐあとに、なぜか心臓が変な跳ね方をした。


「……いや、違う違う」


 コハルは布団を頭までかぶった。

 何が違うのかは、自分でも分からなかった。


          ◇


 昼前。


 インターホンが鳴った。

 その音に、コハルの肩が跳ねる。

 昨日までは普通の音だった。


 宅配か、管理会社か、近所の誰かか。

 それくらいにしか思わなかった音。


 でも今は違う。

 何かが来た。

 そう思ってしまう。


 スマホが震えた。


『来たよ〜! 怪しい風使いです』


「自分で言うんだ……」


 少しだけ笑えた。


 コハルは玄関まで行き、ドアスコープを覗いた。


 レンマがいた。

 片手にコンビニの袋。

 その後ろには、工具箱のようなものを持った、スーツ姿の見知らぬ男性が一人立っている。


 コハルはチェーンをかけたまま、ドアを開けた。


「……本当に来たんですね」


「来るって言ったからね」


 レンマはいつもの調子で笑った。


 けれど、コハルの視線が後ろの男性へ向いたことに気づくと、すぐに説明してくれた。


「ヘリオスの修繕班。割れた窓ガラスと、浴室の鏡と壁、今日直せるところまで直してもらう」


「えっ、今日ですか?」


「うん。放置すると怖いでしょ」


「それは……そうですけど」


「大丈夫。経費で落とすから」


「そこ、軽いですね」


「経費って言葉は人を安心させるから」


「させません」


 そう言いながらも、コハルは肩の力が抜けた。


 レンマの隣にいた男性が、ぺこりと頭を下げる。


「ヘリオス・サービス修繕担当の山本です。壊れた物体の復元と補強を担当しています。お邪魔してよろしいでしょうか」


 言葉の響きが、妙に業務的だった。

 レンマが小声で付け足す。


「物だけ直せる四級賢者。人は直せないけど、壁とか鏡とか窓とかはかなりいける」


「そんな便利なスキルあったんですね……」


「ね。めっちゃ便利だよね」


「私もそういうのが欲しかったです」


「たしかに便利そう」


「便利の方向性が違う気もしますけど」


 コハルはチェーンを外した。

 玄関を開けると、レンマはすぐには入ってこなかった。


「入って大丈夫?」


 その一言に、コハルは息を止めた。


 昨日もそうだった。

 近づく前に、ちゃんと止まってくれる。

 それが今は、とてもありがたかった。


「……はい。大丈夫です」


「じゃ、お邪魔します」


 レンマが室内に入る。


 修繕担当の山本は慣れた様子で、まず割れた窓ガラスの方へ向かった。


 カーテンの隙間から、ひび割れた窓が見える。

 昨日の戦闘で割れたまま、応急処置の透明な膜が張られていた。


 それを見た瞬間、コハルの胸がまたざわついた。


 壊れた窓。

 割れた鏡。

 削れた壁。

 床に残った細かな傷。


 全部が、昨日は本当にあったのだと突きつけてくる。


「コハルちゃん」


 レンマの声がした。

 近すぎない距離に、彼が立っている。


「見てなくていいよ。嫌なら別の部屋にいて」


「……でも、私の部屋ですし」


「だからこそ、無理しなくていい」


「……」


 その言い方が、妙にずるかった。


 命令ではない。

 過剰な気遣いでもない。

 ただ、逃げ道を置いてくれる言い方だった。


「じゃあ……リビングにいます」


「うん。何かあったら呼ぶ」


 コハルはリビングのソファに座った。

 レンマはコンビニ袋をテーブルに置く。


「水を使わなくても食べられるもの買ってきた。おにぎり、サンドイッチ、ゼリー。あと紙パックのお茶」


「ありがとうございます」


「マナトなら栄養バランス百点のやつを送ってきそうだから、俺は食べやすさ担当」


「なんですか、その分担」


「敵を倒すにも役割分担が大事だからね」


「食事の話ですよね?」


「食事も戦いだよ」


 レンマは真顔で言った。

 コハルは思わず笑った。


 笑ってから、驚く。

 笑えた。

 昨日はあんなに怖かったのに。


 今もまだ、浴室の方を見るだけで胸が詰まるのに。


 それでも、笑えた。


 レンマはその顔を見て、目元を緩めた。


「よかった」


「え?」


「今、笑ったから」


「……そんなに分かりやすいですか」


「うん」


「嘘でも、そんなことないよって言ってください」


「俺、嘘苦手なんだよね」


「絶対得意ですよね」


「ばれた?」


 また笑ってしまう。


 その間にも、玄関側から静かな作業音が聞こえていた。

 ガラスの欠片を集める音。

 壁に手をかざしているらしい低い詠唱。

 ヘリオスの人が小声で確認する声。


 やがて、浴室の方から淡い光が漏れた。


 コハルは反射的に身体をこわばらせる。

 レンマがすぐに気づいた。


「大丈夫。修繕の光。敵じゃない」


「……はい」


「見に行かなくていいからね」


「はい」


 素直に返事をした。


 今の自分は、浴室に近づけない。

 それを認めるだけで、悔しかった。


 でも、マナトが言ってくれた。

 それは弱さではない、と。


 レンマも言ってくれた。

 怖いもんは怖い、と。


 だから、今日はそういう日でいいのだと思うことにした。


 しばらくして、山本がリビングの入口から声をかけた。


「窓ガラス、復元完了しました。浴室の鏡も破片欠損が少なかったため修復可能です。壁の損傷は補強込みで直します。痕跡はほぼ消えますが、念のため結界膜を一枚残します」


「ありがとうございます……」


 コハルが頭を下げると、山本は淡々と頷いた。


「費用は……どうされますか?」


 レンマが横から親指を立てた。


「経費で落とすから」


「二回言わなくていいです」


「大事なことだから」


「私が払わないって意味では安心しましたけど」


「でしょ?」


 レンマは満足そうに笑った。

 それから、ふと真面目な顔になる。


「あと、浴室の水道と排水口には仮封印を入れてる。水路経由の侵入は、同じ方法ではできない。もちろん本体が別の手を使う可能性はあるけど、昨日の穴は潰した」


「……昨日の穴」


 コハルは小さく繰り返した。


 生活の中の穴。

 蛇口。

 排水口。

 風呂場。


 いつもなら意識すらしない場所。

 そこを狙われた。


「怖いですよね」


「うん。怖いと思う」


 レンマは否定しなかった。


「だから、普通に戻すのは急がなくていいよ。今日は入らなくていい。明日も無理なら入らなくていい。必要ならヘリオスで別の入浴設備を手配するし、カイリくんに結界つきの簡易シャワーブース作らせてもいい」


「カイリさん、そんなこともできるんですか」


「できるできる。たぶん声でかめに説明してくれる」


「想像できます」


 また笑った。


 レンマはそれを見て、安心したように息を吐いた。

 その仕草が、なぜか目に残った。


 いつもの余裕たっぷりのレンマではなくて。

 ちゃんとこちらの反応を見て、ちゃんと安心している顔。

 その顔を見て、胸が小さく跳ねた。


「……レンマさん」


「ん?」


「昨日、ありがとうございました」


「うん」


「助けに来てくれて」


「うん」


「怒ってくれて」


 そこまで言うと、レンマの表情がわずかに止まった。

 すぐに軽い笑顔に戻るかと思った。

 でも、戻らなかった。


「……怒るよ、そりゃ」


 声が低かった。

 コハルの指先が、膝の上で動く。


「コハルちゃん、あんな顔してたし」


「……そんなにひどかったですか」


「ひどかった」


「そこも嘘で否定してください」


「無理」


 レンマは静かに言った。


「忘れられない顔だったから」


「……」


 心臓が、変なふうに鳴った。


 まっすぐ見られているわけではない。

 レンマの視線は横に逸れていた。

 なのに、言葉だけがまっすぐ届いた。


 忘れられない顔。


 それが嬉しい言葉なのか、悲しい言葉なのか、分からなかった。

 でも、自分の怖さが、ちゃんと誰かの中に残っているのだと思った。


 軽く扱われていない。

 流されていない。

 それが、苦しくて、嬉しかった。


「だからさ」


 レンマはいつもの調子を取り戻すように笑った。


「次は、泣く前に呼んで」


「そんな簡単に言いますけど」


「うん。簡単じゃないのは分かってる」


「……」


「でも、呼んで。暇でも、怖くても、水の音が嫌でも、なんかむかつくでもいいから」


「むかつくでもいいんですか」


「いいよ。俺、むかつかれ慣れてるし」


「でしょうね」


「即答ひどくない?」


 コハルは笑った。

 笑ったあと、視線を落とす。


「じゃあ……怖かったら、連絡します」


「うん」


「暇でも?」


「うん」


「むかついても?」


「それは内容によるかな」


「さっきと言ってること違います」


「ごめん、むかつきの種類による」


「雑です」


 やりとりは軽い。

 けれど、胸の奥は軽くなかった。


 レンマがいるだけで、昨日の部屋が少しずつ別の場所に戻っていく気がした。


 怖い場所のままではなく、直してもらえる場所。


 誰かが来てくれる場所。

 まだ暮らしていける場所。


 しばらくして、修繕が終わった。

 山本が確認のために声をかける。


「窓、浴室鏡、壁面損傷、すべて復元完了しました。浴室内の結界膜は二十四時間維持されます。排水口、蛇口、換気口にも簡易封印を入れてあります」


 コハルは恐る恐る浴室の入口まで行った。


 レンマは後ろについてきた。

 近すぎない距離だった。

 浴室の扉は開いている。


 中を見る。


 鏡は直っていた。

 割れた線はない。

 壁の傷もない。

 窓ガラスも透明に戻っている。

 何もなかったみたいだった。


 でも、コハルの中では、何もなかったことにはならない。


 足が止まる。


「……入らなくていいよ」


 後ろからレンマの声がした。


「見るだけで十分」


「……はい」


「今日はここまでで合格」


「合格って」


「すごいでしょ。浴室の前まで来られた」


「そんなことで?」


「そんなことじゃないよ」


 声が、また優しくなった。


「怖い場所を見たんだから、十分すごい」


 その瞬間、コハルはなぜか泣きそうになった。


 泣きたくない。

 もう泣きたくない。

 でも、胸の奥が熱くなる。


「……レンマさんって」


「うん?」


「たまに、ずるいこと言いますよね」


「え、口説いてるってこと?」


「違います!」


「違うんだ」


「違います!」


 勢いよく否定してから、コハルは自分の顔が熱くなっていることに気づいた。


 レンマが笑う。

 その笑い方が、昨日までより近く感じた。


 近く感じただけで、距離は変わっていない。

 ちゃんと離れている。


 それなのに、心臓だけが勝手に近づいたみたいだった。


「顔赤いよ」


「浴室が暑いだけです」


「水使ってないのに?」


「暑いんです」


「そっか」


「納得してください」


「してるしてる」


「してないです」


 レンマは楽しそうに笑った。


 そのあと、ふっと真面目な顔になって、浴室の中を見た。


「……ここ、ただの風呂場に戻そうね」


「え?」


「昨日の場所じゃなくてさ。コハルちゃんが普通に髪乾かして、普通に文句言って、普通に疲れたって言える場所に戻す」


「……」


「時間はかかるかもだけど」


 レンマは軽く肩をすくめた。


「まあ、手伝うよ。経費で落ちる範囲で」


「最後の一言で台無しです」


「だって大事じゃん」


 コハルは笑った。

 笑いながら、思った。


 この人は軽い。

 本当に軽い。


 でも、軽い言葉の下に、ちゃんと置いてくれるものがある。


 怖さを否定しない。

 壊れたものを、壊れたままにしない。

 急がせない。


 それが、怖いくらい安心できた。


 修繕班が帰る準備を始める。

 レンマも玄関へ向かった。


「じゃ、俺もそろそろ行くね」


「もうですか?」


 また、思わず言ってしまった。


 レンマが振り返る。

 コハルはすぐに視線を逸らした。


「あ、いや、修繕が終わったなら、そうですよね」


「いてほしい?」


「……」


 軽い声だった。

 いつもの調子だった。


 でも、コハルはすぐに返せなかった。

 それが悔しかった。


「……いてほしい、というか」


「うん」


「一人になるのが、ちょっとだけ怖いです」


 言ってから、胸がきゅっとした。


 弱音だった。

 でも、言えた。

 レンマは笑わなかった。


「じゃあ、もう少しいる」


「いいんですか?」


「いいよ。仕事だから」


「またそれですか」


「あと、俺がいたいから」


「……え?」


 コハルが顔を上げる。


 レンマは、少しだけ目を細めた。

 からかっているような、そうでもないような顔。


「一応、心配してるんだよ」


「……」


「なに、その顔」


「いえ……今のは、ちょっと」


「ちょっと?」


「ずるかったです」


 レンマは一瞬きょとんとして、それから楽しそうに笑った。


「へえ」


「なんですか」


「いや、覚えとこって思って」


「覚えなくていいです!」


 コハルは慌てて言った。

 でも、心臓はまだ落ち着かなかった。


 レンマは結局、それから三十分ほど残ってくれた。

 ソファには座らず、窓際の壁にもたれて、他愛ない話をした。


 カイリの声量の話。

 ヘリオスの経費申請の話。

 マナトが昨夜たぶん寝ていないだろうという話。


「マナトさん、寝てないんですか?」


「たぶんね。あの子、怒ると調べものに逃げるタイプだから」


「逃げる?」


「本人は戦ってるつもりだと思うけどね」


「……マナトさんらしいです」


「うん。そこが強いんだよね」


 レンマは、遠くを見るように言った。


 その横顔に、コハルは一瞬見入ってしまった。


 レンマはマナトを茶化す。

 でも、ちゃんと認めている。

 ライバルみたいで、仲間みたいで。

 軽いのに、変なところで真っ直ぐだ。


「コハルちゃん?」


「はい?」


「また顔赤い」


「赤くないです」


「今日それ三回目」


「数えないでください」


「じゃあ四回目から数える」


「そういう意味じゃないです」


 レンマは笑った。

 コハルも笑った。


 やがて、レンマは本当に帰ることになった。


 玄関で靴を履きながら、彼はいつものように片手を上げる。


「何かあったら連絡して」


「はい」


「何もなくても、怖かったら連絡して」


「はい」


「暇でも」


「はい」


「むかついても」


「内容によるんですよね?」


「よく覚えてる」


「覚えますよ、それくらい」


 レンマは笑った。


 それから、声を落とした。


「コハルちゃん」


「はい」


「昨日の場所は、今日少し直った」


「……はい」


「でも、怖かったことまで今日直さなくていいからね」


 コハルは息を止めた。


「ゆっくりでいいよ」


 その声は、ふざけていなかった。

 コハルは、胸の奥がきゅっとなるのを感じた。


「……ありがとうございます」


「うん」


「レンマさん」


「ん?」


「来てくれて、よかったです」


 言ってから、自分で驚いた。

 レンマも一瞬だけ黙った。


 そして、いつもの軽い笑みを浮かべる。


「それ、けっこう嬉しいね」


 その一言が、なぜか耳に残った。


「んじゃ、またね」


 ドアが閉まる。

 部屋が静かになる。


 けれど、朝よりは怖くなかった。


 割れた窓は直った。

 浴室の鏡も戻った。

 壁の傷も消えた。


 でも、それ以上に。


 あの浴室の前で「今日はここまでで合格」と言ってくれた声が、部屋の中に残っている気がした。


          ◇


 夕方。


 スマホが震えた。

 マナトからだった。


『体調はいかがですか。無理に話さなくても大丈夫です。夜、少しだけ電話してもいいですか』


 コハルは画面を見つめた。

 マナトの言葉は、やっぱり落ち着く。

 丁寧で、急かさなくて、こちらの呼吸に合わせてくれる。


 レンマは来てくれた。

 マナトは遠くから気にしてくれる。


 どちらも違う。

 どちらも、ありがたい。

 そして、どちらにも胸が揺れる。


 コハルはゆっくり返信した。


『ありがとうございます。電話、大丈夫です』


 送信してから、ソファに座った。


 まだ浴室には入れない。

 水の音も怖い。

 会社にも行けなかった。


 でも、昨日よりは息ができる。


 もう一度スマホが震えた。

 今度はレンマだった。


『修繕完了報告、こっちでも確認したよ。全部経費で落ちたから安心して』


 コハルは思わず笑った。

 続けて、もう一通。


『あと、今日は自分に甘くしていい日ね。マナトに怒られない範囲で』


「なんでそこでマナトさん……」


 笑いながら、コハルは胸に手を当てた。


 まだ、何も分からない。


 怖さも。

 安心も。

 ドキッとした理由も。


 でも、昨日までと同じではない。


 レンマを見る目も。

 マナトの声を待つ気持ちも。

 自分の中にある何かも。


 少しずつ、形を変え始めている。


 コハルは修繕された浴室の方を一度だけ見た。


 まだ怖い。

 でも、完全に怖いだけの場所ではなくなった。


 そう思えたことが、今日いちばんの進歩だった。

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