1-36話:遠くにいる男が本気で焦った時点で、だいたい電話は震える
日報を開いた瞬間、マナトは固まった。
画面に並ぶ文字を、一度読んだ。
理解できなかった。
もう一度読んだ。
理解したくなかった。
対象者宅。
浴室。
水路経由の侵入。
分身体。
捕獲。
精神的ショックあり。
「……浴室?」
声が、思ったより低く出た。
風呂場。
脱衣所。
一人になる場所。
鍵も窓も、常識的な警戒も、意味を持たない場所。
そこに、侵入された。
マナトの指が、スマホの画面の上で止まる。
日報の末尾には、レンマらしい簡潔な補足があった。
『対象者に外傷なし。ただし恐怖反応強め。男体化状態で涙が止まらず。後に通常状態へ戻る。侵入者はヘリオス・サービスへ引き渡し予定』
「……」
マナトは、スマホを握りしめた。
外傷なし。
怪我はない。
捕獲済み。
安全確保済み。
その文字だけ見れば、最悪の事態は避けられている。
レンマとカイリは、間に合った。
むしろ、よく間に合ったと言うべきだった。
なのに。
(風呂場で襲われた)
その一点だけで、胸の奥が冷たくなる。
怒り。
焦り。
後悔。
そして、どうしようもない無力感。
マナトは一度、レンマへ電話をかけようとした。
親指が、連絡先の上で止まる。
事情を聞くなら、レンマだ。
戦闘の詳細も、敵の性質も、今後の警戒も、レンマに確認するべきだ。
けれど。
マナトの指は、結局コハルの名前を押していた。
数回の呼び出し音。
その間が、異様に長く感じた。
『……はい』
繋がった。
「コハルさんっ!」
自分でも驚くくらい、声が強く出た。
電話の向こうで、沈黙がある。
『マナトさん……』
その声は、いつもより小さかった。
けれど、ちゃんと返事があった。
それだけで、マナトは息を吐いた。
「風呂場で襲われたと聞きました。大丈夫ですか?」
『怪我はなかったです』
「いや……怪我だけではなくて」
言いながら、マナトは眉を寄せた。
違う。
言葉が足りない。
そういう確認ではない。
「心の傷が心配です」
『……』
コハルが黙った。
マナトは、自分の焦りがそのまま電話越しに流れていることに気づく。
「ごめんなさい。心配で、心の整理ができない中電話してしまいました」
『いや、ありがとうございます』
コハルの声が、ほんの少し柔らかくなる。
『マナトさんの声、やっぱり落ち着きます』
「……」
心臓が、嫌な方向ではなく跳ねた。
安心した。
でも、それ以上に、苦しくなった。
「俺が近くにいたら……」
そこで言葉が止まる。
絶対あなたをそんな目に遭わせないのに。
そう言いかけて、言えなかった。
無理だ。
そんなことは、言えない。
あのレンマがいた。
一級賢者のカイリもいた。
それでも、敵は侵入経路の隙を突いた。
自分が近くにいたとして、完璧に防げた保証なんてない。
同じ過ちをしたかもしれない。
いや、していた可能性の方が高い。
なのに、言いたかった。
守りたい。
そばにいたい。
怖い思いをしたあとに、電話越しではなく、同じ部屋で声をかけたい。
『いいんです。マナトさん、いつもありがとうございます』
「……」
『なんか、うまく言えないけど……そういう感じ、すごく好きです』
「え?」
『いや、違くて……その……』
電話の向こうで、コハルが慌てる気配がした。
マナトはスマホを握ったまま、完全に固まっていた。
(なんで俺、こんなにドキドキしてるんだ……)
今は、それどころではない。
コハルは襲われたばかりだ。
心配する場面だ。
冷静に状況を確認する場面だ。
なのに。
『私のこと、こんなに真剣に向き合ってくれる人って、今までいなかったんですよ』
「……」
『だから、嬉しいんです。今日レンマさんとカイリさんに守ってもらえて、遠くからマナトさんにも見守られてるんです』
「……はい」
『だから、私は幸せ者だなって……』
マナトは、目を伏せた。
その言葉が、嬉しかった。
嬉しくて、苦しかった。
コハルは優しい。
怖い目に遭った直後なのに、自分を安心させようとしている。
レンマにも、カイリにも、自分にも、感謝している。
だからこそ、守らなければならないと思った。
「コハルさん」
『はい』
「今日は、無理に明るくしなくていいです」
『……』
「怖かったなら、怖かったでいいです。眠れないなら、眠れないと言ってください。泣きたくなったら、また泣いてください」
『……はい』
「それは弱さではないです」
コハルの息が震えた。
『マナトさん、優しいですね』
「優しくはありません」
『優しいですよ』
「俺は、たぶん怒っているだけです」
『……怒ってるんですか?』
「はい」
マナトは、静かに言った。
「かなり」
電話の向こうで、コハルが小さく息を呑む。
「あなたが無事だったことには安心しています。でも、あなたが怖い思いをしたことには、まったく納得していません」
『……はい』
「今日は戸締まりでは足りません。レンマさんとカイリさんが近くにいるなら、その指示に従ってください。浴室や水回りの使用は、ヘリオス側の確認が終わるまで控えた方がいい」
『分かりました』
「それと」
『はい』
「今夜、眠れなかったら連絡してください」
『え、でも、マナトさんも寝ないと……』
「構いません」
『構いますよ』
「構いません」
『そこだけ頑固ですね』
「正常な判断です」
電話の向こうで、コハルが笑った。
弱い笑いだった。
でも、笑った。
マナトの胸の奥がほどける。
『じゃあ……眠れなかったら、連絡します』
「はい」
『でも、マナトさんも無理しないでくださいね』
「努力します」
『それ、無理する人の言い方です』
今度は、さっきより自然に笑った。
その声を聞けただけで、電話してよかったと思った。
『マナトさん』
「はい」
『電話、嬉しかったです』
「……俺も、声を聞けて安心しました」
『はい』
沈黙が落ちる。
切りたくない。
けれど、引き止めすぎてもよくない。
マナトは息を整える。
「今日は、休んでください」
『はい。マナトさんも』
「はい」
『おやすみなさい』
「おやすみなさい、コハルさん」
通話が切れた。
画面が暗くなる。
マナトはしばらく、その画面を見つめていた。
胸の奥が、まだ熱い。
怒りなのか。
安堵なのか。
それとも、別の何かなのか。
「……」
認めたくないわけではない。
ただ、認めた瞬間に、自分の行動が変わってしまいそうで怖かった。
けれど。
『そういう感じ、すごく好きです』
その言葉が、頭から離れなかった。
マナトは深く息を吐く。
そして、今度はレンマへ電話をかけた。
呼び出し音は、短かった。
『はーい』
「なんでそんな軽いんですか?」
『いやぁ、滅相もございません』
「……」
『今の沈黙、怖いね』
「今回も言い訳はしないんですね」
『しないよ』
「してもらったら困ります」
『うん。そこは本当に、俺の見落とし』
レンマの声は軽かった。
けれど、その奥は笑っていなかった。
『窓、玄関、周辺警戒、転移反応。そっちは見てた。でも水回りは後手に回った。最悪だった』
「最悪です」
『うん』
「コハルさんは、泣いていたんですね」
『泣いてた』
レンマは、即答した。
『あれは、きついよ。風呂場だからね。逃げ場ないし、服もないし、助けを呼ぶのも遅れる。あれを狙ってやったなら、相当性格が悪い』
「性格が悪い、で済ませるつもりですか」
『済ませないよ』
声が変わった。
『俺、今回の件で超キレたから』
「……」
『コハルちゃんをあんなに怖がらせて、泣かせてさ。そんな奴は俺が吹っ飛ばしてやるって、本気で思ってる』
「らしくないですね」
『でしょ? 何が言いたいかわかる?』
「なんですか?」
『俺さ、多分マナトと同じなんだよね』
「藪から棒に」
『コハルちゃんを想う気持ち』
「……」
『んー? まだ蓋をしてるつもりなんだ』
「……」
『好きなんでしょ? コハルちゃんのこと』
沈黙が落ちた。
マナトは、すぐには答えなかった。
答えられなかったのではない。
答えたら、戻れないと思った。
けれど、もう戻れないところまで来ていることも、分かっていた。
「――だったら、どうしたんですか?」
電話の向こうで、レンマが笑った気配がした。
『いいね』
「何がですか」
『今の返し、けっこう好き』
「茶化さないでください」
『茶化してないよ』
レンマの声が低くなる。
『俺、引くつもりないから』
「……」
『覚えといてね。それじゃ』
「待っ――」
ツーツー。
電話が切れた。
マナトは、スマホを耳から離す。
画面には、通話終了の文字。
「……勝手な人だな」
小さく呟く。
怒りはあった。
レンマに対しても。
敵に対しても。
自分に対しても。
けれど、それ以上に、奇妙なほど頭が冴えていた。
レンマは宣言した。
負けない、と。
つまり、レンマはもう自覚している。
あるいは、自覚することを選んだ。
軽い男のふりをしながら、真正面から踏み込んできた。
なら、自分はどうする。
マナトは、もう一度日報を開いた。
浴室。
水路経由。
媒介体。
本体未確保。
怒りに飲まれている場合ではない。
嫉妬に足を取られている場合でもない。
まずは、次を防ぐ。
そのうえで、敵を追う。
そして。
「……負けるつもりは、ありませんよ」
誰に言うでもなく、マナトは呟いた。
コハルの声が耳に残っている。
『マナトさんの声、やっぱり落ち着きます』
それだけで、十分だった。
今夜、自分が何をするべきかは決まった。
マナトは机に向かい、端末を開く。
水道系統。
排水経路。
集合住宅の配管図。
過去の類似事例。
侵入型能力者の媒介条件。
調べることは山ほどある。
その全部を、今夜中に洗い出す。
感情はある。
むしろ、ありすぎる。
でも、感情だけで守れるほど、現実は甘くない。
だから、マナトは冷静になる。
冷静に怒る。
遠くにいるなら、遠くにいるなりの戦い方がある。
コハルが明日、安心して水道の音を聞けるように。
風呂場を、ただの風呂場に戻せるように。
マナトは、画面に指を走らせた。
軽い男が風を刃にするなら。
自分は情報を刃にする。
そして、その刃の向かう先は、もう決まっていた。




