1-35話:軽い男が本気で怒った時点で、だいたい風は刃になる
黒い針が、レンマへ向かって放たれた。
浴室中の水滴が黒く染まり、無数の針になって飛ぶ。
避ける場所はない。
狭い。
濡れている。
足場は悪い。
背後にはコハルがいる。
そのさらに前には、カイリがいる。
だから、レンマは避けなかった。
指先を、ほんのわずかに動かす。
風が鳴った。
黒い針が、レンマに届く直前で止まる。
いや、止まったのではない。
一本一本、細かく削られていた。
風の糸。
見えない刃。
浴室全体に張り巡らされた、細すぎる風の線。
黒い針は、それに触れた瞬間、粉々に裂けた。
「……へえ」
レンマが、薄く笑う。
「思ったより速いじゃん」
泥の男は答えない。
ただ、顔の空洞を歪める。
笑っているようにも、怒っているようにも見えた。
「でもさ」
レンマの声は軽い。
軽いのに、冷たい。
「遅いよ」
次の瞬間、泥の男の右腕が落ちた。
コハルには何が起きたのか分からなかった。
レンマは動いていない。
剣も持っていない。
ただ、そこに立っているだけ。
なのに、泥の男の腕が、何の前触れもなく斬り飛ばされた。
びちゃり、と黒い腕が床に落ちる。
すぐに本体へ戻ろうとする。
だが。
「カイリくん」
「封じます!」
カイリの結界が床を走った。
落ちた黒い腕が透明な膜に包まれ、動きを止める。
「いいね」
レンマが一歩前に出る。
「じゃあ、もう一本」
左腕が落ちた。
泥の男が、初めて明確に揺らいだ。
体を液体へ戻し、壁へ散ろうとする。
「逃げるの早いね」
レンマの声が低くなる。
「でも、逃がすと思う?」
浴室の湯気が、一瞬で渦を巻いた。
風が内側へ集まる。
壁に散ろうとした黒い泥が、逆に中央へ引き戻される。
ぐしゃ、と音を立てて、泥の男が浴室の中央に叩きつけられた。
「水路を使うならさ」
レンマが手を上げる。
「風圧で押し返せばいいだけなんだよね」
排水口から、黒い泥が吹き出しかける。
けれど、逆向きの風がそれを押し込める。
シャワーヘッドから漏れていた黒い水も、風に押されて戻れない。
逃げ場がない。
泥の男が体を膨らませた。
今度は、人型ではない。
黒い塊。
水と泥と悪意を混ぜたような、巨大な肉塊。
カイリが息を呑む。
「質量を増やしています!」
「見れば分かるよ」
「レンマさん、かなり危険です!」
「うん」
レンマは笑った。
「だから早めに終わらせる」
泥の塊が跳ねた。
全身を刃のように尖らせ、レンマごと浴室を潰そうとする。
コハルは思わず叫んだ。
「レンマさん!」
「大丈夫」
レンマは振り返らない。
「コハルちゃんは、見てて」
その声が、妙に落ち着いていた。
次の瞬間。
風が、爆ぜた。
浴室の空気が一気に圧縮される。
黒い塊が止まる。
空中で押し留められる。
そして、見えない刃が何重にも走った。
数えられないほどの風刃が、黒い塊を細かく裂いていく。
泥が霧のように散る。
けれど、散った先から風が巻き取り、逃がさない。
結界が外へ漏れるのを封じる。
風が中へ集める。
レンマとカイリ。
二人の役割が、ぴたりと噛み合っていた。
泥の男は再生しようとした。
だが、形を作るより早く斬られる。
集まるより早く裂かれる。
逃げるより早く戻される。
「……本体じゃないなら、殺しても意味ないか」
レンマが呟く。
「じゃあ、捕まえる」
その言葉と同時に、風が細く収束した。
浴室の中央に、透明な球のようなものができる。
中には、黒い泥が渦を巻いている。
逃げようとしている。
暴れている。
でも、出られない。
「カイリくん、外側固めて」
「了解です!」
カイリの結界が、風の球の外側に重なる。
透明な膜が幾重にも巻きつき、黒い泥を封じ込める。
泥が内側から叩く。
球が揺れる。
だが、壊れない。
「よし」
レンマは、ようやく息を吐いた。
「捕獲完了」
その瞬間、浴室の空気が戻った。
湯気が白くなる。
黒い気配が薄れる。
ただ、割れた鏡と、濡れた床と、壊れた窓だけが、さっきまでの異常を残していた。
カイリはすぐに端末を取り出す。
「こちら天川です。対象者宅に水路経由の侵入者。分身体と思われる存在を封印、捕獲しました。ヘリオス・サービスへ回収班と解析班の派遣を要請します。……はい。対象者は無事です。精神的ショックあり。侵入経路は浴室の水道または排水管。周辺系統の確認もお願いします」
レンマは、風の球をカイリの結界へ預けるようにして、ゆっくり振り返った。
コハルは脱衣所の隅に座り込んでいた。
男の姿のまま。
バスタオルを肩から巻いて。
大きな体を小さく丸めるようにして。
泣いていた。
ぼろぼろと。
涙が溢れて止まらなかった。
百九十センチ近い男前の姿なのに、完全に怯えきっている。
そのアンバランスさが、余計に痛々しかった。
レンマの表情から、笑みが消えた。
「コハルちゃん」
コハルは顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃだった。
「怖かったです……ごめんなさい、涙止まらなくて……」
「謝らなくていいよ」
レンマは近づく。
けれど、距離は詰めすぎない。
しゃがんで、目線を合わせる。
「無理もないよ」
「でも、私、殴ったのに……男の姿なのに……」
「関係ないよ」
レンマは静かに言った。
「怖いもんは怖い。嫌なもんは嫌。そこに体の形は関係ない」
コハルの顔が、また歪んだ。
「助けに来てくれて、ありがとうございます……」
「間に合ってよかった」
レンマは目を伏せた。
「コハルちゃん……ごめんね。これは俺が侵入経路を想定してなかったせいだ」
「違います……レンマさんのせいじゃないです」
「いや、俺のミス」
レンマは軽く言った。
けれど、その軽さはいつもより苦かった。
「窓、玄関、周辺の人影、転移。そこばっかり見てた。水道とか排水管とか、そういう生活の中の穴を潰しきれてなかった」
「そんなの、普通は分からないです……」
「普通じゃない相手を警戒してるのに、普通で考えちゃ駄目だった」
コハルは何も言えなかった。
レンマは、いつも軽い。
冗談を言う。
経費でご飯を食べさせる。
カイリをからかう。
マナトをいじる。
でも今、目の前にいるレンマは、自分の失敗をちゃんと自分のものとして抱えていた。
「もう大丈夫」
レンマが笑う。
「俺、超キレたから」
「……え?」
「許さない」
その声は、優しいのに怖かった。
「コハルちゃんをこんな目に遭わせた奴には、相当の報いを受けてもらうよ」
「……」
「さっきのは、ただの分身体。本命はまだ捕まえられてないからさ」
「はい……」
「でも、次はこっちから探す。水路だろうが、影だろうが、鏡だろうが、どこに隠れてても引きずり出す」
レンマは、いつものように笑った。
「こういう卑怯なことする奴、いちばん嫌いなんだよね」
コハルは、その言葉を聞いて、少しだけ息ができた。
怖かった。
本当に怖かった。
自分の家。
自分の浴室。
一人でいる場所。
そこに入り込まれた。
それは、敵に襲われたというより、日常そのものを汚されたような恐怖だった。
でも。
目の前のレンマは、その恐怖を軽く扱わなかった。
怒ってくれていた。
自分の代わりに、ちゃんと怒ってくれていた。
「大丈夫だよ」
レンマがそっと手を伸ばす。
「もう泣かなくていいからね」
頭を撫でられた。
優しく。
いつもの軽さとは違う。
子ども扱いでも、からかいでもない。
壊れたものを急いで直そうとしない、ただそばにいるための手だった。
その瞬間だった。
ふっと、体から力が抜けた。
「あっ」
コハルが声を漏らす。
レンマも気づいた。
「あっ」
万能の心得が解けた。
広かった肩が戻る。
低かった重心が変わる。
骨格が戻る。
筋肉が戻る。
男の体が、女の体へ戻る。
そして。
バスタオル姿のまま。
コハルは、元の姿になった。
沈黙。
レンマの目が、一瞬だけ見開かれる。
次の瞬間、彼はものすごい速さで後ろを向いた。
「ごめん!!」
「きゃああああああ!!」
コハルの悲鳴が響いた。
「見ましたよね!?」
「見てない!」
「今、絶対見ましたよね!?」
「いや、変化した瞬間に視界が事故っただけで、意図的には見てない!」
「それ、見たってことですよね!?」
「不可抗力!」
「言い訳が早い!!」
カイリが端末を持ったまま、壁を向いて直立していた。
「俺は見てません! 完全に壁を見ています!」
「カイリさんは信用します!」
「ありがとうございます!」
「声量!」
「あ、すみません!」
レンマは背中を向けたまま、片手を上げる。
「コハルちゃん、とりあえず服。俺たち外出るから」
「早く出てください!!」
「はいはい」
「はいは一回です!」
「はい!」
「なんで元気なんですか!」
「カイリくんが移った」
「俺ですか!?」
「あなたも外です!!」
「了解しました!」
カイリは結界で封じた黒い球を慎重に浮かせながら、部屋の方へ移動する。
「回収班、到着まで十分です」
「その前に私、服着ます!!」
「はい! 見ません!」
「だから声量!」
「あ、すみません!」
レンマは扉の外へ出ながら、最後に背中越しに言った。
「コハルちゃん」
「何ですか!」
「無事でよかった」
その声だけは、ふざけていなかった。
コハルはバスタオルを握りしめたまま、黙る。
「……ありがとうございました」
「うん」
「でも、見た件は別です」
「はい」
「あとで怒ります」
「はい」
「覚悟してください」
「はい」
素直に返事をするレンマに、コハルは泣き笑いみたいな顔になった。
怖かった。
恥ずかしかった。
最悪だった。
今でも手が震えている。
でも、助かった。
レンマが来てくれた。
カイリが守ってくれた。
敵は捕まった。
そして、レンマは怒ってくれた。
それだけで、息ができる気がした。
ただし。
明日から風呂に入るのは、間違いなく怖い。
コハルはため息をつきながら、急いで服を取りに向かった。
その外では、レンマが壁にもたれながら、珍しく無言で立っていた。
カイリが端末越しに話している。
「はい。侵入者は封印済みです。対象者の安全確保を優先。回収後、解析をお願いします」
レンマは静かに目を細める。
捕まえたのは、分身体。
本命は別。
なら、次は探す番だ。
「……さて」
レンマは小さく呟いた。
「本当に、面倒になってきたね」
けれど、その口元には笑みがあった。
軽い笑み。
いつもの笑み。
ただし、その奥にある風は、もう完全に刃の形をしていた。




