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1-31話:帰ってきた時点で、だいたい手遅れになっている

 チャイムを押す指先が、硬かった。

 マナトは、コハルのアパートの前に立っていた。

 出張から戻ってきたばかりだった。


(……安全確認だ)


 そう、自分に言い聞かせる。

 コハルに直接会う。

 無事を確認する。

 土産を渡す。

 レンマからの報告内容と、本人の様子に齟齬がないかを見る。

 業務上、必要な確認だった。

 たぶん。

 数秒後、扉の向こうで足音がした。


「はい」


 鍵の開く音。

 チェーンが外れる音。

 ドアが少し開き、そこからコハルが顔を出した。


「あ……」


 コハルの目が丸くなる。

 その反応を見ただけで、マナトの胸の奥が緩んだ。


「コハルさん、お疲れ様です。今、帰ってきました」


「マナトさん……」


 コハルは驚いた顔をしたあと、ふわっと笑った。


「おかえりなさい」


 その言葉が、思っていたよりも深く刺さった。

 出張から帰った。

 ただそれだけのことだ。

 けれど、その一言で、本当に帰ってきた気がした。


「……はい。ただいま戻りました」


 マナトは手に持っていた紙袋を差し出す。


「お土産です」


「え、本当に買ってきてくれたんですか?」


「約束しましたので」


 中には、通りもんの箱が入っている。

 コハルはそれを受け取ると、嬉しそうに目を細めた。


「ありがとうございます。すごく嬉しいです」


 その笑顔に、マナトは思わず笑みをこぼした。

 自分でも気づくくらい、表情が緩んだ。

 その時だった。


「おー! マナト帰ってきたんだ」


 アパートの奥から、聞き慣れた声がした。

 マナトの表情が止まる。

 コハルの背後。

 部屋の奥。

 レンマが、当たり前のように顔を出した。


「……なんでレンマさんが?」


 マナトは怪訝な顔で言った。

 状況がおかしい。

 コハルの部屋。

 夜。

 レンマ。

 くつろいだ様子。

 情報が、脳内で処理されない。


「あ、いろいろあってさ」


 レンマは照れたように笑った。


「俺たち、付き合うことになったんだよ」


「……え?」


 音が消えた気がした。

 マナトは、ただ聞き返すことしかできなかった。

 横で、コハルが恥ずかしそうに頬を染める。


「はい、そうなんです」


 嬉しそうに微笑むコハル。

 その瞳は、マナトではなく、レンマを映していた。


「……そう、なんですか」


 声が、自分のものではないみたいだった。

 レンマはにこにこと笑っている。


「マナトが恋のキューピットになってくれたんだね。ありがとう!」


「……」


「どうしたの? マナト」


「マナトさん?」


 二人に心配される。

 けれど、何も言えない。

 言葉が出なかった。

 喉の奥に、何かが詰まっている。

 いや、違う。

 詰まっているのは言葉ではない。

 もっと重くて、もっと冷たくて、名前をつけたくない何かだった。


「実は婚約もしててさ」


 レンマがさらっと言った。


 コハルが手を差し出す。

 薬指に、指輪が光っていた。

 大きい。

 かなり大きい。

 笑ってしまうくらい大きいダイヤだった。


 自分の給料の半年分くらいはしそうだった。

 いや、半年では足りないかもしれない。

 そんな計算をしている場合ではないのに、頭は妙に冷静に値段を見積もってしまう。


「レンマさん、すごく心強くて、かっこよくて……惹かれちゃいました」


 コハルはそう言って、レンマを見上げた。

 その表情は、マナトが見たことのないものだった。


 安心している。

 信頼している。

 嬉しそうで。

 照れていて。


 完全に、恋をしている顔だった。


「……」


 マナトは、一歩も動けなかった。

 通りもんの紙袋だけが、なぜかコハルの手の中でやけに現実的に見えた。


 自分が出張に行っている間に。

 コハルはレンマと焼肉に行き。

 レンマに送られ。

 レンマに守られ。

 レンマに安心して。

 レンマを好きになった。


 そう考えた瞬間。

 胸の奥が、ぐしゃりと潰れた。


「マナト?」


 レンマが首を傾げる。


「大丈夫ですか?」


 コハルが心配そうにこちらを見る。

 その顔すら、優しかった。

 優しいから、余計に苦しかった。

 マナトは口を開いた。

 けれど、出てきたのは言葉ではなかった。


「うわああああ!!!」


 そこで、視界が跳ねた。

 マナトはベッドの上で飛び起きた。


 暗い部屋。

 薄いカーテン。

 見慣れない天井。

 ホテルの空調音。


 息が荒い。

 心臓が、ありえない速度で鳴っていた。


「……夢」


 出張二日目。

 最悪の夢を見た。


 マナトはしばらく、ベッドの上で固まっていた。

 手元に通りもんの紙袋はない。

 コハルのアパートでもない。

 レンマもいない。

 ダイヤの指輪もない。

 当然、婚約もしていない。

 たぶん。


「……たぶんって何だ」


 自分で自分に突っ込む。

 マナトは片手で顔を覆った。

 体が熱い。

 寝起きのせいだけではない。

 今見た夢の内容が、あまりにも具体的すぎた。


 レンマがコハルの部屋にいる。

 付き合っている。

 婚約している。

 巨大な指輪。

 コハルが「惹かれちゃいました」と言う。


「……最悪だ」


 声に出すと、余計に現実味が増した。

 マナトは枕元のスマホを手に取る。


 時刻は午前五時四十七分。

 早すぎる。

 コハルに連絡する時間ではない。

 レンマに電話する時間でもない。

 ましてや、夢を見たから確認するなど、正気ではない。


(落ち着け)


 自分に言い聞かせる。

 これは夢だ。

 現実ではない。

 レンマは信用できる。

 コハルも、そんな軽率な人ではない。

 そもそも一晩で交際と婚約まで進むわけがない。

 常識的に考えれば、ありえない。

 ありえないはずなのに。


(……でも、焼肉には行った)


 そこだけ現実だった。

 高級焼肉。

 楽しかったらしい。


 レンマは距離が近い。

 コハルは素直で、反応が良くて、人に感謝できる人だ。

 あのレンマが好感を持つ可能性は、ゼロではない。

 いや、ゼロにしてほしい。


「……何を考えているんだ、俺は」


 マナトはスマホを伏せた。

 仕事。

 出張。

 護衛体制。

 不審者。

 短距離転移。

 戦力確認。

 考えるべきことはいくらでもある。

 なのに、頭の中で一番鮮明なのは、夢の中のコハルの笑顔だった。

 レンマを見上げていた、あの笑顔。

 実際には見たことがないはずなのに、やけに鮮明だった。


「……」


 マナトは深く息を吐いた。


 嫉妬。


 その単語が頭に浮かんで、すぐに追い払う。


 違う。

 違うはずだ。


 これは護衛上の懸念だ。

 レンマとの距離が近くなりすぎると、情報管理や安全確認に影響する可能性がある。

 対象者の精神的依存先が複数になることは、状況次第では不安定要素にもなる。

 だから、自分は気にしている。


 そうだ。

 そういうことだ。


「……無理がある」


 自分で否定した。


 マナトはベッドから降りる。

 洗面台へ向かい、顔を洗った。

 冷たい水が、意識をはっきりさせる。

 鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。


 寝不足。

 焦り。

 動揺。

 それを全部、無表情で隠そうとしている顔。


「……冷静になれ」


 鏡の自分に言う。

 まず、現実を確認する。

 コハルは無事。

 レンマは護衛中。

 敵は偵察段階。

 自分は出張中。

 戻る予定はまだ先。

 やるべきことは、焦って戻ることではない。

 現地での仕事を片付け、可能な限り早く戻ること。

 その間、レンマとリンカに情報を共有し、コハルの安全を維持すること。


 それだけだ。

 それだけ、のはずだった。

 スマホが震えた。

 マナトは反射的に手に取る。

 レンマからだった。


『おはよ。コハルちゃん周辺、夜間異常なし。今のところ平和』


 マナトは無言で画面を見た。

 寝起きに見る文面として、あまりよくない。

 しかも、最後に追加でメッセージが来た。


『ちなみにコハルちゃん、通りもん楽しみにしてるっぽかったよ』


「……」


 マナトはスマホを握ったまま、数秒黙った。

 通りもん。

 夢の中でも渡していた。

 現実でも、買う予定だった。

 いや、もう買ってある。

 昨日、駅で確保している。

 問題はそこではない。

 コハルが楽しみにしている。

 それは嬉しい。

 なのに、その情報をレンマから聞くことが悔しかった。


『報告ありがとうございます。夜間警戒、引き続きお願いします』


 そこまで打って、迷う。

 もう一文、入れるべきか。

 入れないべきか。

 マナトは数秒考えたあと、追加した。


『コハルさんには、あまり余計なことを言わないでください』


 送信。

 すぐに既読がついた。

 返信も早かった。


『変な夢でも見た?』


「……」


 マナトはスマホを伏せた。


 読まれている。

 非常に腹立たしい。

 だが、否定するために返信するのも、かえって認めることになる。

 無視する。

 それが最善だ。

 数秒後、また震えた。


『図星?』


 マナトは深く息を吐いた。


『業務に関係ない連絡は控えてください』


 送信。


『はいはい。じゃあ業務連絡。コハルちゃんには今日、少しだけ昨日の件を話す。怖がらせない範囲で』


 マナトの表情が引き締まる。

 そこは重要だった。


『お願いします。説明後、反応を共有してください』


『了解。あと、リンカさんにも共有済み。朝から説教された』


『俺も後ほど連絡します』


『真面目だねえ』


 そこでやり取りを止めた。

 マナトはスマホを置き、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。

 外はまだ薄暗い。

 出張先の朝は、いつもより静かだった。

 その静けさの中で、夢の残滓だけが妙に騒がしい。


 レンマとコハルが付き合う。

 婚約する。

 自分が恋のキューピットだと言われる。

 馬鹿げている。

 あまりにも馬鹿げている。

 でも、その夢がなぜ痛かったのか。

 理由は、もう分かっている。

 分かっているのに、認めるのが難しい。


「……コハルさん」


 名前を呼ぶ。

 誰もいない部屋で。

 声に出しただけで、胸が苦しくなった。


 守りたい。

 心配だ。

 無事でいてほしい。

 怖がらせたくない。

 笑っていてほしい。


 そこまでは、ずっと分かっていた。

 でも。

 誰かの隣で、自分の知らない顔で笑っているところは。

 見たくない。


「……」


 マナトは額に手を当てた。

 それはもう、護衛の範囲ではなかった。


 仕事でもない。

 責任でもない。

 安全管理でもない。

 もっと個人的で。

 もっと厄介で。


 名前をつけたら、後戻りできなくなるものだった。

 スマホがまた震えた。

 今度はコハルからだった。


『おはようございます。出張二日目も気をつけてください。昨日は電話ありがとうございました』


 マナトは画面を見つめた。

 ただの朝の挨拶。

 短いメッセージ。

 それだけで、さっきまで胸に残っていた悪夢の冷たさが薄れた。

 マナトはゆっくり息を吐く。

 そして、丁寧に返信を打った。


『おはようございます。ありがとうございます。コハルさんも、今日はなるべく一人で行動しないでください』


 少し考えて、もう一文。


『通りもんは、戻ったら必ず渡します』


 送信。

 数十秒後、返信が来た。


『楽しみにしてます』


 マナトは画面を見たまま、目を細めた。

 夢は夢だ。

 現実ではない。

 コハルはまだ、そこにいる。

 レンマに守られながら。

 自分の連絡に返事をしてくれる場所にいる。

 だから今は、それでいい。

 いや。

 よくはない。


「……早く帰りたい」


 ぽつりと呟いて、マナトは立ち上がった。

 今日の予定を、最短で終わらせる。

 余計なミスはしない。

 焦りは出さない。

 必要な仕事は、完璧に片付ける。

 そして、できるだけ早く帰る。

 安全を確認するために。

 それから。


 それ以外の理由については、まだ考えないことにした。

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