1-30話:心配が電話越しに届く時点で、だいたい嫉妬も混ざっている
部屋に戻ってからも、コハルはしばらく玄関の前で立ち尽くしていた。
鍵は閉めた。
チェーンもかけた。
靴も脱いだ。
部屋の明かりもついている。
なのに、なぜか落ち着かない。
(レンマさん、何だったんだろう……)
さっきの様子は、明らかに普通ではなかった。
息が上がっていた。
表情も、ほんの一瞬だけ硬かった。
それなのに、本人は「思い違い」と言った。
(絶対、何かあったよね……)
そう思う。
思うけれど、問い詰めるほどの勇気はなかった。
レンマが隠した。
怖がらせないように。
たぶん、そういうことなのだろう。
「……うん」
コハルはスマホを見た。
マナトに電話をする。
そう約束していた。
画面に表示された名前を見ただけで、胸の奥が忙しくなる。
(……二十七歳)
また思い出してしまった。
「いや、今それ関係ないから」
自分に言い聞かせて、通話ボタンを押す。
呼び出し音は、ほとんど鳴らなかった。
『コハルさん』
「は、はい。こんばんは」
『無事ですか?』
「無事です」
『鍵は閉めましたか?』
「閉めました」
『チェーンは?』
「かけました」
『窓は?』
「あ、窓……」
『確認してください』
「はい……」
コハルはスマホを耳に当てたまま、リビングの窓へ向かった。
鍵を確認する。
ちゃんとかかっている。
「閉まってました」
『よかったです』
電話越しに、マナトが息を吐いた気がした。
たったそれだけで、安心する。
それが少し悔しい。
『焼肉屋に行ったそうですね』
「え、はい……」
声が一段低くなった気がした。
『大丈夫ですか?』
「え?」
『何もされませんでしたか?』
「いや、大丈夫でした」
『本当に?』
「本当にです。普通に焼肉を食べただけです」
『レンマさんの“普通”は信用しすぎないでください』
「レンマさん、そこまで信用ないんですか?」
『信用はしています』
「してるんですね」
『ただ、距離感は信用していません』
「言い方……」
コハルは思わず笑ってしまった。
マナトは本気なのだろう。
声が真面目すぎる。
『高い店だったんですよね?』
「……まあ、ちょっと」
『ちょっと?』
「かなり……かもしれないです」
『レンマさんが払ったんですか?』
「経費だそうです」
『……』
「マナトさん?」
『日報で確認します』
「そこ日報なんですね」
『重要事項です』
「焼肉の支払いが?」
『コハルさんが変な店に連れていかれていないかどうかが、です』
「ちゃんとしたお店でしたよ。お肉もおいしかったです」
『……そうですか』
間があった。
それから、マナトがぽつりと言う。
『楽しそうですね』
「え?」
『いえ。何でもありません』
何でもない声ではなかった。
コハルはスマホを持ち替える。
なぜか頬が熱くなった。
「楽しかったですけど……でも、変な意味じゃないですよ?」
『変な意味とは?』
「え、いや、その……」
『俺は何も言っていません』
「言ってないですけど、何か言ってる感じがしました」
『気のせいです』
「気のせいじゃない気がします」
電話の向こうで、マナトが黙る。
その沈黙が、妙に分かりやすかった。
『……レンマさんと、何を話したんですか』
「え?」
『何か俺のこと、話していましたか?』
「え!!?」
『図星ですか』
「いや……何も」
『今の反応で、何もは無理があります』
「本当に、そんな大したことは話してないです」
『大したことではない俺の話をしたんですね』
「誘導尋問みたいになってません?」
『確認です』
「確認の圧が強いです」
コハルはソファに座った。
バッグを横に置き、膝の上でスマホを握る。
言うべきか迷う。
マナトが二十七歳だと知った。
自分より二つ下だと知った。
それで動揺した。
そんなこと、本人に言えるわけがない。
『コハルさん』
「はい」
『何を聞きましたか』
「……年齢を」
『誰のですか』
「マナトさんの……」
また沈黙。
今度は、さっきより長かった。
『レンマさんが言ったんですか?』
「はい」
『……そうですか』
「怒ってます?」
『怒ってはいません』
「本当ですか?」
『余計なことを言う人だとは思っています』
「それは怒ってるのでは……」
『怒ってはいません』
声は冷静だった。
冷静すぎて、逆に怒っているようにも聞こえた。
「その……意外でした」
『何がですか』
「マナトさん、落ち着いてるから。私より年上か、同じくらいだと思ってました」
『……そうですか』
「はい」
そこで、マナトが黙った。
ほんの少しだけ、声の調子が変わる。
『コハルさんは』
「はい?」
『……いくつなんですか?』
「え」
今度は、コハルが黙る番だった。
考えてみれば、マナトと年齢の話をしたことはなかった。
出会ってからずっと、男体化とか、帰還者だとか、賞金首だとか、非日常の話ばかりだった。
普通ならするはずの、何気ない自己紹介をしていない。
「……二十九です」
小さく言った。
電話の向こうで、マナトが息を止めたような気配がした。
『二十九……』
「はい」
『……コハルさん、年上だったんですね』
「そう、みたいです」
『すみません』
「え、何で謝るんですか?」
『勝手に、年下か、同じくらいだと思っていました』
「それは……まあ、私もマナトさんのこと年上だと思ってましたし」
『そうですか』
「はい」
妙な沈黙が落ちる。
さっきまでの心配や確認とは違う。
もっと個人的で、やわらかくて、逃げ場のない沈黙。
コハルはスマホを握り直した。
『……嫌ではないですか?』
「え?」
『年下の男に、こうやって世話を焼かれるのは……嫌ですか?』
その声は、少しためらっていた。
いつものマナトなら、こんな聞き方はしない。
必要なことは必要だと言い切る。
危ないことは危ないと言い切る。
守ると決めたら、たぶん迷わない。
でも今の声には、ほんの少しだけ不安が混ざっていた。
それが分かってしまって、コハルの胸が変なふうに鳴った。
「……嫌じゃないです」
『本当に?』
「はい」
『迷惑では』
「ないです」
『過保護だとは思いますよね』
「それは思います」
『……』
「あ、でも、嫌ではないです。本当に」
慌てて付け足すと、電話の向こうでマナトが息を吐いた。
「というか……」
『はい』
「年下とか、年上とか、知ったらびっくりはしましたけど」
『はい』
「でも、マナトさんはマナトさんなので」
言ってから、自分で恥ずかしくなる。
何だそれは。
当たり前のことを、すごく真面目に言ってしまった。
電話の向こうで、マナトがまた黙った。
『……そうですか』
「はい」
『なら、よかったです』
その声が柔らかくなった。
コハルはスマホを耳に当てたまま、視線を落とす。
「マナトさん」
『はい』
「出張、大丈夫ですか?」
『こちらは問題ありません』
「ちゃんとご飯食べました?」
『食べました』
「何をですか?」
『弁当です』
「野菜は?」
『……少し』
「人には栄養が偏ると判断力が鈍るって言うのに」
『明日から気をつけます』
「本当ですか?」
『本当です』
今度はコハルが笑った。
心配されているだけではない。
自分も、マナトを心配している。
そう気づくと、胸の奥が静かに温かくなった。
『コハルさん』
「はい」
『レンマさんは信用できます』
「はい」
『でも、何かあったら俺に連絡してください』
「分かってます」
『夜中でもです』
「はい」
『遠慮しないでください』
「はい」
『絶対です』
「……マナトさん」
『はい』
「心配しすぎです」
『自覚はあります』
「あるんですね」
『でも、やめる気はありません』
きっぱり言われて、コハルは言葉を失った。
それから、小さく笑う。
「……ありがとうございます」
『当然です』
また、その四文字だった。
コハルはスマホを握りしめる。
遠くにいるのに。
声だけなのに。
なぜか、部屋の中が安全になった気がした。
その頃。
レンマは人気のない道を歩きながら、スマホに日報を打ち込んでいた。
『護衛初日報告。
対象者、月岡コハルさん。
勤務後、食事を兼ねた状況確認を実施。
高級焼肉店にて面談。対象者に異常なし。
帰宅時、焼肉店付近から対象者を監視していたと思われる不審者を確認。
対象者帰宅確認後、追跡および接触。
相手は短距離の瞬間移動能力を使用。
戦闘発生。
負傷を与えるも、対象者への別働隊襲撃を示唆されたため、対象者の安全確認を優先。
結果、不審者を取り逃がしました。
対象者に被害なし。
現在、周辺警戒を強化中』
打ち終えてから、レンマは画面を見つめた。
「……硬いな」
自分で言って、苦笑する。
だが、これくらいでちょうどいい。
ふざけて書ける内容ではない。
送信。
既読は、即座についた。
「早っ」
思わず声が出た。
次の瞬間、スマホが震える。
着信。
相手は当然、マナトだった。
「はいはい、もしもし」
『初日から戦闘って……しかも取り逃したんですね』
第一声から重い。
レンマは夜空を見上げた。
「あぁ……うん。言い訳はしないよ」
『相手の能力は?』
「短距離転移。たぶん連続使用可。出現時にわずかに空気の乱れがある。影か視線か、発動条件は不明。攻撃は黒い光みたいなのを手にまとわせてた。触れたら切断か、侵食系かも」
『速度は?』
「速い。でも、純粋な身体能力というより転移で補ってる感じ。正面から殴り合えば俺の方が有利。ただ、逃げるのはかなり上手い」
『なるほど』
マナトの声は、怒っているというより、すでに分析に入っていた。
『いや、あなたが取り逃がしたということは、逃げることに特化した相手だと想定します。あと、状況的にどう考えてもコハルさんの安全確認優先でした。そこに関して、レンマさんの判断が間違っているとは思いません』
「ならよかったよ」
『ただし』
「出た。ただし」
『今後は単独追跡禁止でお願いします』
「護衛なのに?」
『護衛だからです。相手はコハルさんを狙っている可能性が高い。レンマさんを引き離す目的でブラフを使ったなら、次も同じことをします』
「まあ、そうだね」
『相手は俺の不在を知っていた可能性があります』
「そこ、俺も気になった」
『焼肉店から見ていたんですよね』
「うん。たぶん店の外にいた。コハルちゃんは気づいてない」
『気づかせないでください』
「怖がらせたくないから、まだ話してない」
『……その判断は理解できます』
間があった。
『でも、完全に隠すのは危険です』
「分かってる。明日、言い方考えるよ」
『お願いします』
マナトの声が低くなる。
『コハルさんは、自分が狙われている自覚がまだ弱いです』
「まあ、普通に暮らしてた子だからね」
『だからこそ、守る側が過剰なくらいでちょうどいい』
「マナトは元から過剰だけどね」
『否定しません』
「しないんだ」
『できません』
レンマは思わず笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
「それと、もう一つ」
『何ですか』
「相手、俺とやり合う気はないって言ってた。今日は様子見だって」
『つまり、こちらの戦力確認』
「たぶんね。思い返すと、俺の戦力を確認してたな」
『厄介ですね』
「悪い」
『謝ることではありません。接触された時点で、ある程度は避けられません』
「マナト、本当に冷静だね」
『冷静ではありません』
即答だった。
レンマは口を閉じる。
電話の向こうのマナトの声は、落ち着いている。
でも、それは落ち着いているように聞こえるだけだ。
『今すぐ戻れないことに、かなり苛立っています』
「……だろうね」
『ですが、戻ったところで相手の狙い通りになる可能性もある。俺が不在の間を狙っているなら、こちらの動揺も見られている』
「うん」
『だから、今はレンマさんに任せます』
その言葉に、レンマは目を細めた。
任せる。
簡単な言葉ではない。
特に、マナトにとっては。
「珍しいね。マナトが俺にそういう言い方するの」
『茶化さないでください』
「はいはい」
『本気です』
「分かってる」
夜風が吹いた。
レンマはコハルのアパートの方を振り返る。
遠くに、小さく明かりが見えた。
「ちゃんと守るよ」
『お願いします』
「あと、コハルちゃんとは普通に焼肉食べただけだからね」
『……』
「沈黙やめてよ」
『分かっています』
「分かってる声じゃないなあ」
『レンマさん』
「はい」
『コハルさんに余計なことを話しましたね』
「年齢のこと?」
『それです』
「あれくらいいいでしょ」
『よくありません』
「年下って知られて困るの?」
『困るというか……』
マナトが珍しく言葉を詰まらせた。
レンマはにやっと笑う。
「しかもコハルちゃん、マナトより年上だったんでしょ?」
『……』
「あれ、知らなかった?」
『今、本人から聞きました』
「へえ」
『何ですか』
「いや、いいねえと思って」
『何がですか』
「年下だと分かって、ちょっと遠慮が出るマナト」
『切りますよ』
「図星だ」
『切ります』
「はいはい、ごめんごめん」
レンマは笑いながら、声を落とした。
「でもさ、コハルちゃん、マナトのことちゃんと気にしてたよ」
『……何を話しました?』
「それは本人に聞きな」
『レンマさん』
「大事なことは本人から聞くべきでしょ」
しばらく沈黙が落ちた。
それから、マナトが息を吐く。
『分かりました』
「素直でよろしい」
『調子に乗らないでください』
「はいはい」
『明日以降、護衛体制を変更します。リンカさんにも共有します』
「リンカさんに?」
『当然です』
「怒られるかな」
『かなり』
「だよねえ」
『俺も怒られます』
「マナトも?」
『俺が不在時の想定を甘く見ていたので』
「いや、それは違うでしょ。全部予測できるわけじゃない」
『それでもです』
マナトらしい、と思った。
自分の責任ではないことまで、自分の責任として持とうとする。
だから、重くなる。
だから、危なっかしい。
「マナト」
『何ですか』
「コハルちゃん、無事だよ」
『……はい』
「今のところはね。でも、それは俺がいるからだけじゃない。マナトが先に手を打っていたからでもある」
『……』
「だから、全部一人で背負わないように」
電話の向こうで、マナトは何も言わなかった。
短いようで、長い沈黙だった。
『努力します』
「そこは、はいって言いなよ」
『できる保証がないので』
「真面目か」
『真面目です』
「知ってる」
レンマは苦笑した。
『引き続き、お願いします』
「了解」
『何かあれば即連絡を』
「分かってる」
『夜間も警戒してください』
「するよ」
『コハルさんに近づく人物がいたら』
「止める」
『不審な気配があれば』
「確認する」
『レンマさん自身も無理はしないでください』
「……お」
『何ですか』
「俺の心配もしてくれるんだ?」
『当然です。あなたが倒れたら、コハルさんを守れません』
「理由が業務的」
『それだけではありません』
その一言は、不器用だった。
レンマはふっと笑う。
「はいはい。ありがと」
『では、また報告をお願いします』
「了解。おやすみ、マナト」
『おやすみなさい』
通話が切れた。
レンマはスマホを下ろし、夜の道を見た。
冷たい風が頬を撫でる。
空き地で戦った時の、あの黒い気配はもうない。
けれど、消えたわけではない。
どこかに潜っただけだ。
「逃げるのが得意な敵、ね」
レンマは小さく呟いた。
そして、アパートの方をもう一度見る。
コハルの部屋の明かりは、まだついていた。
その向こうで、きっとさっきまでマナトと電話をしていたのだろう。
心配されて。
困って。
照れて。
それでも、安心している。
「……ほんと、ちゃんと守んないとな」
軽く言ったつもりだった。
けれど、その声は思ったより真面目だった。
レンマは自分でそれに気づいて、苦笑する。
「俺らしくないなあ」
そう言いながらも、足は自然とアパートの周囲を巡回する方向へ向かっていた。
夜はまだ長い。
護衛初日は、まだ終わっていない。




