1-29話:護衛初日が楽しいほど、だいたい裏では誰かが動いている
焼肉店を出る頃には、夜の空気が冷たくなっていた。
駅前の明るさから離れると、人通りはまばらになる。
コハルはスマホを握ったまま、隣を歩くレンマをちらっと見た。
「……本当にごちそうさまでした」
「いいよいいよ。経費だから」
「それを言われるたびに、余計に申し訳なくなるんですけど」
「じゃあ、仕事だから」
「それもそれで、焼肉を仕事にしていいのか分からなくなります」
「大丈夫。世の中には、もっとよく分からない仕事がたくさんあるから」
「説得力があるようで、何も安心できないです」
レンマは楽しそうに笑った。
その軽さが、コハルにはありがたかった。
高級焼肉店。
護衛初日。
勇者歴。
マナトの年齢。
最後には、マナトからのメッセージまで来た。
情報量が多い。
(……二十七歳)
また頭の中に浮かんで、コハルは慌てて首を振った。
「どうしたの?」
「何でもないです」
「マナトのこと考えてた?」
「何でそうなるんですか!?」
「当たってた?」
「……焼肉のことを考えてました」
「へえ」
「何ですか、その顔」
「いや、焼肉って便利だなって」
「便利で済ませないでください」
会話をしているうちに、アパートが見えてきた。
いつもの建物。
いつもの階段。
いつもの入口。
そこまで来て、コハルはほっとした。
レンマは周囲を見回したあと、いつもの調子で言った。
「それじゃ、コハルちゃん。また明日ね」
「あ、はい」
コハルは玄関前で立ち止まり、頭を下げた。
「送ってもらって、ありがとうございました」
「仕事だからね〜。気にしないでね」
「でも……それとは別に、個人的にお礼は言いたいです」
そう言って、コハルは笑った。
仕事だから。
経費だから。
護衛だから。
そう言われるたびに、確かに気は楽になる。
でも、それだけでは済ませたくなかった。
「レンマさんがいてくれて、今日は安心しました」
「……」
その顔に、レンマは一瞬だけ言葉を失った。
夜の照明の下。
コハルの表情は、ひどく素直だった。
警戒がないわけではない。
怖がっていないわけでもない。
でも、ちゃんとこちらを見て、お礼を言っている。
「そっか」
レンマは笑った。
「マナトに電話してあげてね。それじゃ、おやすみ」
「あ、はい。おやすみなさい」
コハルはもう一度頭を下げて、部屋へ入っていった。
レンマはその場に立ったまま、ドアが閉まるまで見守った。
鍵のかかる音がする。
室内の明かりがつく。
そこでようやく、レンマは息を吐いた。
(めっちゃ……楽しかったな)
思ってから、自分で驚いた。
護衛初日。
状況確認。
高級焼肉。
マナトへの日報案件。
そういう名目はいくらでもある。
でも、実際にはただ普通に楽しかった。
(あんな反応良くてかわいい子、いないよなあ)
高い店に本気で焦るところ。
肉の値段に固まるところ。
マナトの年齢で動揺するところ。
照れているのに「焼肉屋だからです」で押し切ろうとするところ。
思い返すと、自然に笑ってしまう。
(マナトが好きになるのも分かる)
そこまで考えて、レンマは目を細めた。
好きになる。
言葉にしてしまえば簡単だ。
だが、マナト本人はたぶん、まだ認めていない。
コハルも、きっと自覚しきっていない。
だから面倒で。
だから見ていて面白い。
(マナトには悪いけど、コハルちゃんと仲良くなれたらいいな……)
そこまで考えて、レンマは自分の額を指で押さえた。
(なんか、めっちゃ俺らしくない……)
苦笑する。
けれど、その苦笑はすぐに消えた。
レンマはゆっくりと視線を横へ向ける。
アパートから離れた道。
街灯の届ききらない暗がり。
そこに、気配が残っていた。
焼肉店を出た時から。
いや、もっと前。
店の外にいた時から。
薄い視線が、ずっとまとわりついていた。
「……さて」
レンマは何事もなかったように歩き出した。
コハルのアパートから離れる。
大通りには出ず、あえて人気の少ない方へ向かう。
数百メートルほど歩いた先に、空き地があった。
古いフェンス。
雑草。
使われていない自販機。
夜の空気に沈んだ場所。
レンマはそこで足を止めた。
「出てきなよ」
声は軽かった。
けれど、さっきまでコハルに向けていた柔らかさはない。
「焼肉屋からずっと見てたよね? 何が目的?」
しばらく沈黙が落ちた。
それから、空き地の影が揺れた。
街灯の届かない場所から、一人の男が出てくる。
年齢は分かりづらい。
黒っぽい服。
顔立ちは暗がりでよく見えない。
ただ、目だけが妙に鈍く光っていた。
「……」
男は何も言わなかった。
レンマは軽く肩をすくめる。
「黙ってる感じ? まあ、いいけど」
次の瞬間、レンマの周囲の空気が変わった。
ふわり、と風が動く。
ただの夜風ではない。
地面の砂が巻き上がり、レンマの足元を中心に円を描いた。
「そっちがそういうつもりなら、こっちからやるよ」
男の唇がわずかに動いた。
「……今日は様子見だ。お前とやり合う気はない」
低く、淀んだ声だった。
レンマは笑った。
「へえ。逃げられるとでも思ってるの?」
言い終えるより早く、風が裂けた。
見えない刃が空き地を横切る。
雑草が一斉に刈り取られ、フェンスが甲高い音を立てて揺れた。
男の姿が消える。
いや、消えたように見えた。
次の瞬間、レンマの背後に気配。
「おっと」
レンマは振り返らず、身体を横にずらした。
男の手が、レンマの首があった場所を通り抜ける。
指先には、黒く濁った光のようなものがまとわりついていた。
「危ないなあ」
レンマの声は軽い。
だが、目は笑っていない。
男は再び消えた。
瞬間移動。
距離は短い。
だが、かなり厄介だった。
(位置をずらしてくるタイプか。連続使用もできる。視線か、影か、条件はまだ分からない)
レンマは冷静に周囲を見る。
右。
左。
背後。
足元。
次の一撃は上から来た。
男が空中に現れ、真下へ腕を振り下ろす。
レンマは片足で地面を蹴った。
風が身体を押し、紙一重で攻撃を避ける。
地面に黒い傷が走った。
「うわ。首どころか、身体ごといく気じゃん」
「……」
「無口だね。緊張してる?」
返事はない。
その代わり、男がまた消える。
(距離感を間違えたら、首を落とされるな)
レンマは息を整えた。
焦らない。
追いすぎない。
相手の移動先を読ませないように、風を広げる。
空き地全体に、薄い風の膜を張る。
目ではなく、肌で捉える。
空気の揺れ。
温度の差。
足音になる前の気配。
「そこ」
レンマが指を振る。
風の斬撃が斜めに走った。
男が現れた瞬間、その肩口をかすめる。
黒い服が裂け、血が飛んだ。
「……っ」
「当たったね」
レンマは笑う。
「瞬間移動って便利だけど、出てくる瞬間はあるわけだ」
男は初めて、わずかに表情を歪めた。
次の瞬間、男の姿が三つにぶれた。
正面。
右。
左。
分身ではない。
連続で移動した残像に近い。
レンマは一歩下がる。
正面の影が消える。
右も消える。
本命は左ではない。
「上」
レンマが呟いた。
風が真上へ跳ね上がる。
男の腕が弾かれた。
同時に、レンマは掌を振り抜く。
鋭い風が男の腹部を叩いた。
男の身体が空き地の端まで吹き飛ぶ。
フェンスに背中からぶつかり、金属音が響いた。
「これで話す気になった?」
レンマはゆっくり歩く。
「誰に頼まれた? 目的はコハルちゃん? それともマナトがいないことの確認?」
男は咳き込みながら、顔を上げた。
「……油断しているな」
「うん?」
「こんなところで、油を売っていていいのか?」
男の口元が歪む。
「俺の仲間が、新入り勇者を狙っているぞ」
レンマの足が止まった。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬で十分だった。
「何……!?」
男の姿が消える。
風の膜が揺れる。
追う。
だが、気配は一気に遠ざかった。
空き地の外。
路地。
さらにその先。
レンマは舌打ちした。
「クソッ!」
風を走らせる。
だが、追跡の途中で気配が途切れた。
完全に消えた。
「……やられた」
レンマは奥歯を噛んだ。
本当かどうかは分からない。
だが、確認しない選択肢はない。
コハルの部屋。
鍵は閉まっていた。
明かりもついていた。
それでも安全とは限らない。
レンマは地面を蹴った。
風が身体を押す。
走るより速く、夜道を抜ける。
数百メートルの距離が、やけに長く感じた。
(頼む。ブラフであってくれ)
アパートが見える。
階段を駆け上がる。
コハルの部屋の前で足を止める。
インターホンを押すより早く、レンマは声を出した。
「コハルちゃん、無事!?」
中で物音がする。
数秒後、ドアが開いた。
コハルが顔を出す。
「どうしたんですか?」
寝間着ではない。
さっきの服のまま。
スマホを片手に持っている。
たぶん、マナトに電話をかける前だったのだろう。
怪我はない。
部屋の中にも、荒らされた様子はない。
不審な気配もない。
レンマは一瞬だけ黙った。
それから、いつものように笑った。
「いや……なんでもないよ」
「え?」
「ただの思い違いだったみたいだ」
「思い違い?」
「うん。確認しただけ」
コハルは怪訝そうにレンマを見る。
「本当に大丈夫ですか? なんか、息が上がってますけど」
「焼肉食べたあとに急いで歩いたからかな」
「そんな理由あります?」
「あるある」
「本当ですか……?」
「大丈夫。コハルちゃんは鍵閉めて、マナトに電話してあげて。心配してると思うし」
「あ、はい……」
納得していない顔だった。
だが、今ここで説明するわけにはいかなかった。
怖がらせるには、まだ早い。
いや、隠すべきことではないのかもしれない。
けれど、少なくとも今はマナトと電話する前だ。
コハルの夜をこれ以上乱したくなかった。
「じゃあ、本当におやすみ」
「……おやすみなさい」
ドアが閉まる。
鍵の音がする。
レンマはその音を聞いてから、深く息を吐いた。
(ブラフかよ……)
全身から力が抜けそうになる。
だが、完全には抜かない。
周囲にもう一度風を流す。
今度はかなり広めに。
アパートの周り。
階段。
駐輪場。
裏手の細い道。
異常はない。
少なくとも、今は。
「取り逃がした、か」
レンマは呟いた。
言い訳はできる。
相手は瞬間移動持ち。
コハルを優先した判断。
ブラフを確認する必要があった。
でも、結果だけ見れば逃げられた。
(日報に、素直に『取り逃しました』って書かないとだな……)
マナトの顔が頭に浮かぶ。
真面目で。
硬くて。
たぶん、画面越しでも分かるくらい眉間に皺を寄せる。
『なぜ追跡を継続しなかったんですか』
言いそうだった。
「いや、コハルちゃん優先だろ。そこは怒るなよ、マナト」
誰にともなく言って、レンマは苦笑した。
ただ、次の瞬間には表情を戻す。
男は見ていた。
焼肉店から。
おそらく、コハルを。
そして、マナトが不在であることも知っていた。
つまり、偶然ではない。
「取り逃がしてしまったもんは仕方ない……明日からもっと警戒だな」
自分に言い聞かせる。
レンマはもう一度だけ、コハルの部屋の明かりを見上げた。
その明かりは、何事もなかったように穏やかだった。
だからこそ、守らなければならない。
「……ちゃんと守るって言ったばっかだしね」
そう呟いて、レンマは歩き出した。
夜道は、さっきより冷えていた。




