1-26話:誰かに見られた時点で、だいたい言い訳は通用しない
月曜日の仕事終わり。
コハルは、ほとんど魂だけになった状態で会社を出た。
「……疲れた……」
小さく呟く。
ただでさえ、昨日から情報量が多すぎた。
その全部を頭の片隅に押し込んだまま、普通の顔で仕事をするのは、思った以上に無理があった。
朝の時点では、まだ何とかなると思っていた。
会社に行けば、日常に戻れる。
いつも通り仕事をして、いつも通り昼休みに入り、いつも通り帰る。
そうすれば、少しは落ち着く。
そう思っていた。
だが、甘かった。
◇
「コハル」
昼休み。
弁当を開けた瞬間だった。
向かいの席に、ノアが当然のように座った。
その顔は、いつものにやにや顔だった。
この時点で、嫌な予感しかしない。
「……何?」
「昨日さ」
「うん」
「見たよ」
「何を?」
聞き返した時点で、負けだった。
ノアの口角が、ゆっくり上がる。
「コハルが、マナトさんと、もう一人の顔の良い男に挟まれて歩いてるところ」
「……」
箸が止まった。
完全に止まった。
「……人違いじゃない?」
「いや、無理あるよ。マナトさんは知ってるし。もう一人は知らないけど、あれもだいぶ顔良かった」
「……」
「ねえ」
「……はい」
「本命どっち?」
「違う!!」
思わず声が出た。
周囲の社員がちらっとこちらを見る。
コハルは慌てて声を落とした。
「違うから。そういうのじゃないから」
「え、じゃあ何? マナトさんが本命で、もう一人は遊び?」
「違う!!」
「じゃあ逆? もう一人が本命で、マナトさんがキープ?」
「もっと違う!!」
「えー、じゃあ何でマナトさんと、あんな顔の良い男をもう一人連れてるの!?」
「連れてない! 連れてないから!」
「でも挟まれてたよね?」
「結果的に!」
「結果的に男二人に挟まれる人生って何?」
「私が聞きたいよ!!」
ノアは楽しそうだった。
心底楽しそうだった。
こっちは全然楽しくない。
「コハルにも、ついにモテ期が来たんかぁ〜」
「いや、違うって!」
「私もあやかりたーい!」
「違うって言ってるのに!?」
「で、マナトさんとはどこまでいったの?」
「どこにもいってない!」
「じゃあ、もう一人とは?」
「だから違う!」
「じゃあ二人ともまだ未定?」
「何その選択肢!?」
最悪だった。
仕事中より、昼休みの方が疲れた。
しかもノアは、追及の手を緩めなかった。
「でもさー、マナトさんって、コハルと距離近くない?」
「近くないよ」
「近いよ」
「どこが」
「心を許してる感じ?」
「考察やめて」
「あと昨日の感じ、完全に護衛だったよね」
「……」
「え、何その沈黙」
「何でもない」
「何でもある沈黙じゃん」
「ない」
「じゃあ、もう一人の人は?」
「え?」
「マナトさんと一緒にいた、もう一人。雰囲気ゆるそうな人」
「……」
「顔はゆるいのに、なんか妙に強そうだった」
「見る目ありすぎない?」
「え、やっぱり強いの?」
「違う。いや、違わないけど、違う」
「何それ。もっと気になるんだけど」
「気にしないで」
「無理」
「無理じゃない」
「無理だよ。友達がマナトさんと謎のイケメンに挟まれて歩いてたら、誰でも気になるでしょ」
「友達ってそういう時、そっとしておくものじゃないの?」
「それは無理」
「即答……」
ノアは頬杖をついて、にやにやしたまま続けた。
「で、結局どっちが好きなの?」
「だから違うって」
「目ぇ逸らした」
「逸らしてない」
「逸らした」
「見間違い」
「耳赤いよ」
「うるさい!」
その後も、業務の合間に何度も視線を感じた。
ノアが遠くからにやにやしている。
課長から資料の修正を頼まれても、頭の片隅でノアの言葉がぐるぐる回る。
本命どっち。
マナトさんともう一人。
二人とも遊び。
モテ期。
違う。
全部違う。
違うはずなのに、否定すればするほど、妙に自分の声が上ずっていた気がする。
「……違うし」
帰り道、コハルは肩を落として歩いた。
「違う。絶対違う」
そう自分に言い聞かせる。
そもそも、あの二人はそういう相手ではない。
マナトは先輩で、世話役で、妙に心配性で、強くて、真面目で、たまに距離感がおかしい人。
レンマは勇者で、軽くて、強くて、何を考えているかよく分からなくて、でも危ない時に助けてくれた人。
どちらも普通ではない。
だから、恋愛とか、モテ期とか、そういうふわふわした話に乗せるには、あまりにも物騒すぎる。
「……でも顔がいいのは否定できないんだよな……」
そこだけが厄介だった。
ノアの観察眼が無駄に正しい。
悔しい。
◇
アパートに着く頃には、体力も気力もほぼ尽きていた。
靴を脱ぎ、鍵を閉め、チェーンまで掛ける。
「戸締まり、よし……」
誰に言うでもなく確認してから、コハルは部屋に入った。
バッグを置く。
上着を脱ぐ。
そのまま床に座り込みそうになって、何とか踏みとどまる。
「……お風呂……ご飯……どっち先……」
悩む。
かなり悩む。
だが、その前にスマホが震えた。
「……」
画面を見る。
金色マナト。
心臓が、一瞬だけ変な跳ね方をした。
「……噂をすれば、じゃないんだよ……」
小さく文句を言ってから、通話を取る。
「もしもし」
『お疲れ様です』
「あ、お疲れ様です」
声はいつも通りだった。
いや、いつも通りにしようとしている声だった。
それだけで、嫌な予感がした。
『今、大丈夫ですか?』
「はい。ちょうど帰ってきたところです」
『そうですか。無事に帰宅できたならよかったです』
「毎回そこ確認されるの、ちょっと怖いんですけど」
『必要なので』
「即答……」
コハルは苦笑しながら、ベッドの端に腰を下ろした。
『明日、仕事終わり、時間貰えないですか?』
「え、はい……何時頃ですか?」
『十八時半とかでもいいですか?』
「構わないです」
返事をしてから、身構える。
マナトがこの調子で時間を取ってほしいと言う時点で、普通の話ではない。
そして、予想通りだった。
『例の――暁光の勇者と会いましょう』
「は、はい」
声が固まった。
自分でも分かるくらい固まった。
暁光の勇者。
昨日聞いた時点で、字面だけでもう強そうだった相手。
マナトが「かなり強い」と即答した相手。
距離感が雑で、強引で、勘がいい女性。
会う前から情報が怖い。
『固まらなくて大丈夫です』
「………」
固まるに決まっている。
むしろ固まらない方が無理だ。
『……俺がなんとかします』
その声は、頼もしいはずだった。
内容だけ見れば、確かに頼もしい。
けれど。
「……今、ちょっと自信なさそうでしたよね?」
『……そんなことは』
「ありましたよね?」
『……善処します』
「善処なんだ」
『相手が相手なので』
「会う前から不安になる情報を増やさないでください」
『すみません』
謝られると、それ以上責めにくい。
ずるい。
「その人、そんなにすごいんですか?」
『すごいです』
「また即答」
『強いですし、判断も早いです。人を見る目もあります』
「褒めてるのに、なんでそんな嫌そうなんですか」
『距離感が雑なので』
「そこに戻るんですね」
『大事です』
かなり本気の声だった。
コハルは思わず笑う。
笑ってから、ふと昼休みのノアの顔が脳裏に浮かんだ。
マナトさんと、もう一人。
本命どっち。
二人とも遊び。
違う。
本当に違う。
なのに今、自分はそのうちの一人と電話していて、明日はまた別の勇者に会う約束をしている。
「……ノアに言ったら絶対また面倒になる」
言わないでおこう。
絶対に言わないでおこう。
『コハルさん?』
「あ、はい。聞いてます」
『明日は駅前で待ち合わせで大丈夫ですか?』
「はい。十八時半ですね」
『お願いします』
「分かりました」
そこまで話して、沈黙が落ちた。
切ってもいいはずなのに、なぜか切るタイミングが分からない。
コハルは指先でベッドのシーツをつまんだ。
「あの」
『はい』
「マナトさん、出張の準備とか大丈夫なんですか?」
『大丈夫です』
「本当に?」
『……たぶん』
「今、たぶんって言いました?」
『言いました』
「正直」
『嘘をつく意味がないので』
「いや、そこはちょっと取り繕ってもよくないですか」
『苦手です』
「知ってます」
言ってから、少し恥ずかしくなる。
知っている。
自分はもう、この人のそういうところを少しずつ知っている。
それが妙に落ち着かなくて、でも嫌ではなかった。
『あ、出歩かないでくださいね』
「分かってますよ!」
反射的に声が大きくなった。
昨日の夜の件があるので、強くは言い返せない。
言い返せないが、言われっぱなしも悔しい。
『本当に分かってますか?』
「分かってます!」
『コンビニもです』
「うっ」
『今、詰まりましたね』
「詰まってません」
『詰まりました』
「……分かってます。今日は出ません」
『はい。では、戸締まりきちんとして寝てください』
「子ども扱いしてません?」
『してません』
「ほんとですか?」
『心配してるだけです』
「……それ言われると、何も言えないんですけど」
『では、言わなくて大丈夫です』
「そういう意味じゃないです」
電話の向こうで、空気が緩んだ気がした。
マナトが笑ったのかもしれない。
見えていないのに、そう思った。
『明日、迎えに行きます』
「はい」
『無理しないでください』
「マナトさんもです」
『俺は大丈夫です』
「その“大丈夫”も信用できないです」
『……』
「ほら、黙った」
『明日、話します』
「はい」
それで、通話は終わりに向かう。
『では、おやすみなさい』
「おやすみなさい」
通話が切れた。
部屋が静かになる。
コハルはしばらくスマホを見つめ、それからゆっくり息を吐いた。
「……また増えた」
明日の予定。
暁光の勇者。
マナトの心配。
ノアの誤解。
レンマとマナトに挟まれて歩いていた日曜日の記憶。
全部が頭の中でぐちゃぐちゃになっている。
疲れている。
確実に疲れている。
でも。
「……ちょっと、非日常にワクワクしてる?」
ぽつりと呟いて、コハルはベッドに倒れ込んだ。
天井を見つめる。
明日、また新しい人に会う。
たぶん、面倒な人だ。
強くて、距離感が雑で、マナトが苦手そうにしている人。
普通の日常から、また一歩遠ざかる気がする。
それでも、マナトが必要だと言った。
なら、たぶん必要なのだろう。
「……寝よ」
今度こそ、今日はもう増やさない。
そう決めて、コハルは目を閉じた。
戸締まりは、ちゃんとした。
出歩く予定もない。
スマホも枕元に置いた。
それでも、眠りに落ちる直前。
ノアの声が、なぜか頭の中で蘇った。
『コハルにも、ついにモテ期が来たんかぁ〜』
「……違うって……」
小さく寝言みたいに呟いて。
その否定が、昼間より弱くなっていることには、気づかないふりをした。




