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1-24話:有給の残りを聞かれた時点で、だいたい普通の相談ではない

 スマホが震えたのは、ちょうどレンマとのやり取りを終え、ベッドに倒れ込もうか迷っていた時だった。


 今日はもう誰とも話したくない。

 というか、これ以上何か増やしたくない。


 そう思っていたはずなのに、画面に表示された名前を見た瞬間、コハルは思わず上体を起こしていた。


「……マナトさん?」


 ついさっき別れたばかりだ。

 何か忘れ物でもしたのだろうか。

 それとも、さっきの送金の件でまた何か言い足りなくなったのか。


 少し迷ってから通話を取る。


「もしもし」


『……先程、別れたばかりですみません』


 第一声がそれで、コハルは少し眉を上げた。


 声が固い。

 固いというか、妙に沈んでいる。


「どうしたんですか?」


『……コハルさんて、有給はどのくらいありますか?』


「え、急になんですか……?」


 質問の角度がおかしい。

 あまりにもおかしい。


 何その確認。

 人事面談なの?


 というか、なぜ今ここで有給残日数の話になるのか。


 数秒、電話の向こうが静かになる。


「……」


『……』


「たしか、二十日くらいあったと思いますけど」


『そうなんですね』


 また沈黙。


 今度はさっきより長い。

 しかも、その沈黙の中に、何かを言い出しづらそうにしている気配があった。


 電話越しなのに分かるくらい、分かりやすく。


(え、この間、何……?)


 コハルはスマホを耳に当てたまま、少し首をかしげた。


 何を言いたいのかが全く見えない。

 だが、見えないわりに、ものすごく思い詰めている感じだけは伝わってくる。


「え、どうしたんですか? なんか思い詰めてます?」


『いや……』


 歯切れが悪い。

 びっくりするほど悪い。


(歯切れ悪っ! 分かりやす!)


 真面目な人が、真面目なまま狼狽えている時ほど、見ている側が妙に不安になるものだ。


 いや、今は見えていないのだが、たぶん顔もだいぶ終わっている気がする。


『実は、出張に行くことになりまして』


「え、そうなんですね」


『二週間なんです』


「二週間……」


『福岡です』


「……また、遠いですね」


『遠いんです』


「その返し方ある?」


 危うく笑ってしまいそうになった。


 弱ったような声音。


 事実を伝えているだけなのに、どこか「もう嫌だ」と言外に滲んでいる。


 コハルはベッドの端に座り直し、少し真面目に聞く姿勢になった。


 二週間。

 福岡。


 普通に考えれば、まあまあ大きい出張だ。

 そして、たぶんこの人にとっては、今その話が来ること自体が問題なのだろう。


 そこまで考えた瞬間、妙な発想が頭をよぎった。


「え!!? それで、有給取ってついてこいってことですか!?」


『いや、ごめんなさい。そんなことは無理だと理解しています』


 即答だった。

 しかも、かなり真顔で言っていそうな声だった。


「冗談です! 冗談ですけど、急に有給って聞くから!」


『……すみません』


「いや、そこ謝るところですか……?」


 やっぱりいつものマナトではない。


 明らかに調子がおかしい。

 落ち着いてはいるのに、落ち着いていない。


 理性で整えているのに、その下でだいぶ慌てている感じだ。


『俺がいない間に、何かあったらと思うと……』


 その言葉に、コハルは一瞬だけ黙った。


 ああ、そういうことか。


 ようやく腑に落ちる。


 この人は今、出張が嫌なのではない。

 自分がいない間に何か起きる可能性が嫌なのだ。


 しかも、かなり本気で嫌がっている。


「だ、大丈夫ですって! 夜出歩かなければ、そんな襲われることないですよ!」


『……今の、フラグみたいなんですが』


「え!?!?」


 しまった、と思った時にはもう遅かった。


 慰めるつもりだったのに、今の言い方はたしかに怪談で真っ先に死ぬ人の台詞みたいだった。


「ち、違います! 違いますからね!? “気をつけます”の意味です!」


『……ならいいんですが』


「全然よくない声してますけど?」


『……』


「ほんとに大丈夫ですか、マナトさん」


 聞くと、向こうで小さく息を吐く音がした。


 それが、疲れているのか、迷っているのか、諦めかけているのか分からない感じで、少し胸がざわつく。


『……会わせたい人がいるんです』


「え……勇者とかですか?」


『はい。暁光の勇者です』


 暁光の勇者。


 字面がすごい。

 めちゃくちゃ光属性っぽい。


 異世界帰りの感覚で言うなら、絶対に初期パーティーの正統派前衛か、物語後半で出てくる高火力の上位職である。


(いや、何を分析してるんだ私は)


 コハルは自分で自分に突っ込んだ。


「暁光って……すごいですね。なんかもう、名前の時点で絶対強いやつじゃないですか」


『強いです』


「即答」


『かなり』


「え、そんなにですか」


『かなりです』


 その“かなり”に変な実感がこもっていて、逆に少し怖かった。


 マナトが強さを盛って話すタイプではないのは、なんとなく分かっている。

 だからこそ、その評価はたぶん相当なのだろう。


「……その人に会った方がいい感じですか?」


『本当は、あまり会わせたくはないです』


「えっ」


『でも、会ってもらった方が安全だと思っています』


 そこでコハルは、少し言葉を失った。


 会わせたくない。

 でも、会わせた方が安全。


 矛盾しているようで、たぶんこの人の中では全然矛盾していないのだろう。


 嫌だけど必要。

 できれば避けたいけど、避けるべきではない。


 そういう板挟みの声だった。


「……マナトさん、その人のこと苦手なんですか?」


『苦手というか……』


「というか?」


『距離感が雑です』


「え、何それちょっと嫌ですね」


『しかも強いです』


「嫌な情報が増えた」


『でも、信頼はできます』


「嫌なのか信頼してるのか、どっちなんですか」


『両方です』


「めんどくさい人間関係だなあ……」


 思わず本音が漏れた。


 だが、電話の向こうでマナトが小さく「本当にそうです」と返したので、少し面白くなってしまう。


 この人が素直に同意する時は、だいたいかなり本気だ。


「その、暁光の勇者さんって、どういう人なんですか?」


『……女性です』


「え」


『かなり強引です』


「ええ」


『あと勘がいいです』


「会う前から緊張してきたんですけど」


『……すみません』


「いや、紹介する側がそんなテンションでどうするんですか」


 そう言うと、向こうが少し黙った。


 その沈黙が、さっきまでの重たいものとは違っていた。

 たぶん、困っている。


 コハルはそこで、ようやく息を抜いた。


 不安はある。

 怖くないわけではない。


 勇者だの賞金首だの、今まで自分と関係がないはずだった世界の人たちが、どんどん近づいてきている感覚もある。


 でも、その中心で一番困っているのが、たぶん今電話の向こうにいる人だ。


「……マナトさん」


『はい』


「それ、私のために言ってくれてるんですよね」


『……まあ』


「“まあ”じゃないでしょ」


『コハルさんの安全のためです』


「はい、言い直した」


 少し笑う。


 向こうは笑っていない気がする。

 でも、その不器用な言い直し方が、妙にこの人らしかった。


「じゃあ、会います」


『……』


「必要なんですよね?」


『必要だと思っています』


「だったら、会いますよ」


 そう言ったあと、自分でも意外だった。


 もっと渋るかと思っていた。

 もっと怖がるかと思っていた。


 けれど、マナトがここまで言い淀みながら、それでも必要だと言うなら、たぶんそれは本当に必要なのだろうと思えた。


 電話の向こうで、かすかに息を呑む気配がした。


『……ありがとうございます』


「いや、そこお礼言うところですか?」


『面倒なことに巻き込んでる自覚はあります』


「それは今さらです」


『……否定してもらえないんですね』


「だって、もうとっくに巻き込まれてますし」


『……そうですね』


 その返事は、苦かった。


 コハルは膝を抱えながら、天井を見上げた。


 白い天井。

 静かな部屋。

 テーブルの上には高級パン。

 冷蔵庫の中には実用的すぎる食材。


 そして耳元には、明らかに参っている男の声。


「その、暁光の勇者さんとは、いつ会うんですか?」


『できれば今週中に』


「早いなあ」


『出張前に、一度ちゃんと顔を合わせておきたいので』


「……なるほど」


 それはたぶん、マナトなりの最低限の準備なのだろう。


 自分がいなくなる前に、安全の線を一本でも引いておきたい。

 そういうことだ。


「分かりました。じゃあ、日程合わせましょう」


『はい』


「でも一つだけ」


『何でしょう』


「その人、いきなり“保護します”とか“監視対象です”みたいな感じで来たら帰りますからね」


『それは俺も嫌です』


「即答」


『そうならないようにします』


「お願いします。ほんとに」


 そこまで話して、ようやく通話の空気が落ち着いた。


 最初のあの重たさが、薄くなっている。

 完全には消えていない。

 たぶん消えない。


 でも、少なくともさっきの「有給ありますか」から始まった時よりは、だいぶ会話らしくなっていた。


「……福岡、そんなに嫌なんですか?」


 ふと思って聞く。


 すると、少し間があったあとで、


『嫌です』


 予想以上に即答が返ってきた。


「はは」


『笑わないでください』


「いや、だってそこは迷わないんだなって」


『迷う要素ありますか』


「それはないですけど」


 少し可笑しかった。


 でも、その即答の裏にあるものが何なのかは、なんとなく分かってしまう。


 遠いから嫌なのではない。

 自分がいない間ができるから嫌なのだ。


「……ちゃんと戻ってきてくださいね」


 そう言うと、向こうが一瞬黙った。


 それから、かなり静かな声で、


『戻ります』


 と言った。


 短いのに、妙に強い返事だった。


「じゃあ、その間に私も勝手に死なないようにします」


『その言い方やめてください』


「冗談です」


『冗談に聞こえません』


「大丈夫ですって」


『その“大丈夫”が信用できないんですが』


「うわ、厳しい」


『心配してるんです』


「……知ってます」


 言ったあと、恥ずかしかった。


 向こうもたぶん、一瞬だけ黙った。


 気まずいような、でも切るには少し惜しいような、妙な沈黙が落ちる。


「……じゃあ、その勇者さんとの予定、決まったら連絡ください」


『分かりました』


「あと、福岡の詳細も」


『それも送ります』


「ちゃんとご飯食べてくださいね。思い詰めすぎるとろくなことないので」


『それは……コハルさんに言われたくない気もします』


「なにそれ」


『昨日の件がありますし』


「ぐっ……」


 言い返せない。

 完全に言い返せない。


 コハルは唇を尖らせたが、電話の向こうには当然見えていない。


「……じゃあ、お互いちゃんと寝ましょう」


『そうですね』


「今日はもう増やさないでくださいよ。情報量」


『善処します』


「善処かあ……」


『保証はできません』


「正直すぎるなあ」


 そう言って、少し笑う。


 通話の向こうでも、ごくわずかに空気が緩んだ気がした。


『……では、また連絡します』


「はい。おやすみなさい」


『おやすみなさい』


 通話が切れる。


 コハルはそのまま、しばらくスマホを見つめていた。


 部屋は静かだった。

 けれど、さっきまでとは違う静けさだった。


 福岡。

 二週間。

 暁光の勇者。


 自分の知らない話が、また一つ増えた。

 増えたのに、不思議と、ほんの少しだけ呼吸はしやすかった。


「……何なんだろ、ほんとに」


 また同じ言葉が漏れる。


 だが、今度のそれは、さっきまでより少し柔らかかった。


 テーブルの上には高級パン。

 冷蔵庫の中には実用的な食材。

 スマホには、さっき切れたばかりの通話履歴。


 静かに休みたいはずの日曜の夜なのに、人の気配ばかりが残っている。


 落ち着かない。

 面倒だ。

 かなり面倒だ。


 それでも。


 誰かに心配してもらっている。

 誰かに気にかけてもらえている。

 その事実は、少し嬉しくもあった。

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