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1-23話:離れなきゃいけない時に限って、だいたい守りたいものの方が増えていく

 リンカと別れて一人になると、さっきまで耳障りだった駅前のざわめきが、妙に遠く感じた。


 春の午後はまだ明るい。

 空は薄く青く、通りには買い物帰りの家族や、笑いながら歩く学生たちがあふれている。


 平和だった。

 驚くほど平和で、だからこそ、自分の持っている封筒の重さだけが妙に浮いていた。


 マナトは人の流れを避けるように歩きながら、無意識に封筒を持ち直した。


 コハルの近くに住みたいと思った。

 それをリンカに見抜かれた。

 レンマがもう動いていることも知った。

 ヘリオス・サービスも、もうコハルを完全な“外”の人間のままでは見ていないらしい。


 面倒だった。

 本当に、面倒だった。


「……最悪だな」


 小さく呟く。


 ただ、その“最悪”の中身は、さっきまでと少し違っていた。


 リンカに見抜かれたことが腹立たしかった。

 レンマがもう動いているのも嫌だった。

 何より、自分が物件を見に行ったこと自体、冷静に考えると終わっている。


 そして、コハルを巡る状況が、少しずつ“個人の問題”ではなくなりつつあることへの焦り。


 その全部が、胸の内側で鈍く重なっている。


 スマホが震えた。


 反射的に取り出して画面を見る。

 会社の上司からだった。


 嫌な予感しかしなかった。


 人通りの少ない路地へ逸れてから、通話ボタンを押す。


「……はい」


『あ、金色くん? 今大丈夫?』


「大丈夫です」


『ごめんね休日に。ちょっと業務連絡でさ』


 その時点で、かなり嫌だった。

 休日の業務連絡で、ろくな話だったためしがない。


『再来週から二週間、福岡行ってもらえる?』


「……は?」


 声が素で出た。

 自分でも驚くくらい、取り繕えていなかった。


『あー、急で悪い。向こうの新設ライン、立ち上げで人足りないらしくてさ。応援要請』


「……再来週から、二週間ですか」


『そうそう。今のところその予定。細かい日程はまた送るけど』


「……」


『金色くん、毎年この時期行ってるし、勝手分かってるでしょ? 現場も助かるって話で』


 頭の中が、一瞬だけ真っ白になった。


(このタイミングで出張とは……最悪すぎる)


 あまりにも間が悪かった。

 いや、間が悪いどころではない。

 ほとんど嫌がらせみたいなタイミングだった。


 コハルが賞金首に狙われた直後。

 レンマが動き出した直後。

 リンカたちヘリオス・サービスが本格的に関わり始めそうな直後。


 そこに自分だけ二週間、福岡。


 ふざけているのかと思った。


 もちろん会社はそんな事情を知るはずもないので、本当にただの偶然なのだろう。

 だからこそ余計に腹が立つ。


 しかも福岡。

 それがまた最悪だった。


 近県ならまだ週末に顔を出すことも考えられた。

 だが福岡は、そういう距離ではない。


 なんで今年に限って千葉工場じゃないのか、と本気で思う。


『金色くん? 聞こえてる?』


「……聞こえてます」


『厳しそう?』


 断りたい、と思った。

 本気で断りたかった。


 何なら、その瞬間だけは退職の文字すら頭をよぎった。


(いや、流石に退職はダメだ。考えすぎた。というか、いつもこの時期は出張行ってるしな。当然といえば当然だ)


 頭の中で自分に突っ込む。

 突っ込みながらも、少しもすっきりはしなかった。


 去年も一昨年も、この時期は応援に回っている。

 新設ラインの立ち上げは大抵人手が足りず、扱いに慣れた人間が引っ張られる。


 それは分かっていた。

 むしろ、来てもおかしくない話だった。


 ただ、今は最悪だった。


「……行けます」


 気づけば、そう答えていた。


『助かる! 詳細また送るね。ホテルも会社で押さえるから』


「はい」


『あと今の現場の引き継ぎ、来週中にお願い。じゃ、よろしく』


「……了解です」


 通話が切れる。

 スマホの画面が暗くなって、そこに自分の顔が薄く映った。


 あまり機嫌のいい顔ではなかった。


「……何なんだよ、ほんとに」


 誰に向けるでもなく言う。

 返事は当然ない。


 路地の壁にもたれ、マナトはしばらく空を見上げた。


 青かった。

 さっきも思ったが、本当にどうでもいいくらい青い。


 二週間。


 言葉にすると短い。

 だが、今はあまりにも長かった。


 その間に何か起きたらどうする。

 実際、昨日もう襲われている。


 レンマがいる。

 リンカたちもいる。


 理屈だけで言えば、自分がいない間の戦力は十分すぎるくらいかもしれない。


 そこまで考えて、胸の奥が嫌な感じにざわついた。


 コハルのことは、守るだけならレンマに任せるのが一番だと分かっている。

 分かっているが、任せたくない。


 そこがもう、かなり駄目だった。


 レンマは強い。

 判断も早い。

 あの男が本気で動くなら、コハルを守るだけなら自分より適任かもしれない。


 少なくとも、出張で県外に飛ばされる人間よりは圧倒的に適任だ。


 だが、任せたくなかった。


 守れるから任せる、という理屈と。

 近づいてほしくない、という感情が。


 頭の中で真っ向からぶつかる。


(……最低だな)


 守ることが第一なら、レンマに任せるのが正解だ。

 実力も分かっている。

 自分の感情を挟む余地は、本来ない。


 ないはずなのに、そこで素直に割り切れない。


 二人の距離が近くなるのは避けたい。

 そう思ってしまう。


 思ってしまう時点で、だいぶ終わっていた。


 かといって、リンカ率いるヘリオス・サービスの世話になるのも嫌だった。


 あそこは実務としては信用できる。

 少なくとも、雑に見えて完全放置はしない。

 危険の線引きも、監視の感覚も、現場慣れしている。


 それでも“組織”だ。


 コハルを“案件”として見る空気。

 必要なら保護し、必要なら管理し、必要なら線を引く。


 そのやり方が正しい場面はある。

 あるのだが、コハルにとってはあまりにも血なまぐさい。


(コハルさんに勇者の血なまぐさいところを見せるのも……)


 嫌だった。


 昨日今日で、もう十分すぎるほど嫌なものを見ている。


 賞金首。

 帰還者。

 狙われる理由。

 普通の生活の外側にあるもの。


 これ以上、勇者の側の“仕事”まで見せたくない。


 討伐だの回収だの管理だの、そういう単語が飛び交う場所へ、簡単に近づけたくなかった。


 だが、それも自分の都合だ。


 コハル本人が安全のために受け入れるかもしれないものを、勝手に嫌がっているだけかもしれない。


「……面倒だな」


 また同じ言葉が出た。


 本当に面倒だった。

 自分の感情が、である。


 守りたい。

 近くにいたい。

 でも、仕事では離れる。

 離れている間、誰かに任せるしかない。


 だが、任せたくない。

 組織にも、あまり近づけたくない。


 我ながら、注文が多すぎた。


 スマホを見下ろす。


 コハルとのトーク画面を開くか、迷った。


 出張のことを伝えるべきか。

 まだ早いか。


 いや、早いも何も、来週には引き継ぎで慌ただしくなる。

 先に言うなら早い方がいい。


 だが、今言えば不安にさせるだけではないか。

 それとも、何も言わずに近づいていた方がよほど不誠実か。


 指が画面の上で止まる。


(……何て送るんだよ)


 再来週から二週間、福岡へ行くことになりました。

 その間、何かあればレンマさんか、必要ならヘリオス側に連絡してください。


 そんな文面を想像して、胃が重くなった。


 自分で書いていて嫌だった。

 特に、レンマの名前をそこへ並べるのが嫌だった。


 だが、嫌かどうかと、正しいかどうかは別だ。


(正しい方を選べよ)


 頭の中の冷静な自分が言う。


 分かっている。

 分かっているが、腹が立つ。

 自分に。


 もしこの出張がなければ。


 そう考えたところで意味はない。

 ないのに、考えてしまう。


 今からでも断れないか。

 体調不良とか。

 家庭の事情とか。


 いや、無理だろう、とすぐに打ち消す。


 それで押し通せる職場ではないし、通せたとしても後が面倒だ。

 それに、そこまでして残る理由を聞かれた時、自分は答えられない。


 駅前の雑踏に戻りながら、マナトは小さく息を吐いた。


 福岡へ行く。

 それはたぶん変えられない。


 なら、その前にできることを考えるしかない。


 コハルへの説明。

 連絡手段の整理。

 レンマへの牽制。

 リンカへの最低限の共有。


 場合によっては、物件の件も急ぐべきかもしれない――いや、それは違うだろう、と即座に自分で突っ込む。


 そう言い切れない自分がいる時点で、もうだいぶ駄目だった。


「……違わないかもしれないのが最悪なんだよな」


 呟いてから、また少し嫌になる。


 出張前に引っ越しを決める、という発想が浮かぶ時点で本当に駄目だった。


 落ち着け、と自分に言う。

 順番がおかしい。


 まずは今週を乗り切ること。

 その間に、コハルの周辺を少しでも安全な形にしておくこと。

 私情が混ざっている自覚を忘れないこと。


 そこまで考えて、ようやく呼吸が整う。


 スマホがまた震えた。


 今度は上司からの詳細メールだった。


 件名には、無機質にこう書かれている。


 【福岡新設ライン応援について】


 マナトはしばらくその文字列を見つめ、それから静かに画面を閉じた。


 春の午後はまだ明るい。

 人通りも、ざわめきも、何ひとつ変わらない。


 だが、自分の中だけは、また少し状況が変わっていた。


 守りたい相手がいる。

 なのに、そのタイミングで離れなければならない。

 離れている間、誰に任せるかを選ばなければならない。


 そして、その選択肢のどれもが、少しずつ気に入らない。


「……ほんと、何なんだよ」


 小さく吐き捨ててから、マナトは歩き出した。


 とりあえず今日は帰る。

 帰って、頭を冷やして、必要なことを整理する。


 感情の方は、たぶん整理しきれない。


 だが、仕事は待ってくれないし、危険も待ってくれない。


 封筒の角が腕に当たる。

 その硬さが、やけに現実的だった。


 物件資料。

 福岡出張。

 レンマ。

 リンカ。

 ヘリオス・サービス。

 コハル。


 どれもが別々の問題みたいでいて、もうきれいには分けられなかった。


 春の風が吹く。

 それでも胸の内側の重さは、少しも軽くならない。


 面倒だった。

 厄介だった。


 そして、どうしようもなく、放っておけなかった。

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